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「心身並行論心」と体(体の各部分)のホリスティックな関係

『弓と禅、日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル

『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル
「心で射る日本精神」今のデジタル世界では遠く及ばない人間五感「じゃ、目隠ししても当るんですか?」
「今晩いらっしゃい」 で、先生は真っ暗闇の中で、二本射る。
ヘリゲルが確かめると、一本目が的の真ん中を、二本目は一本目を幾らか引き裂いて、やはり真ん中に。阿波範士曰く、これも何度も慣れているからとおっしゃるかも知れないが、私はこれが私に帰せられるものでなく、”それ”が射たと知ってます。(記事部分引用)

この本が出たのが1981年11月であるから、すでに35年経過している。この本を探したのはただの偶然だった。

たまたま書店に入って、なにか適当な面白そうな本がないかと、手にした一冊だった。冒頭は、読んでいておもしろくなかったが、外人が日本古武道を学ぶ、というミーハー度合いに興味があって買ってみた。

この「弓道」、どういういワケかアメリカ人に人気がある。私のアメリカ知人で若い英語教師が、これをやっている。三味線、琴もやっているから特異体質アメリカ人なんだろう。最近こういうタイプをよく見かける。

それで、冒頭引用した、「目隠ししても当るんですか」は、目隠しで弓を引き、的に当てるというマジックを、弟子の「ヘリゲル」に見せるシーンは圧巻。そこにロウソク1本を立てるというから、その情景はまことに鬼気迫るものがある。

ヘリゲルと阿波範士の問答は、ヘリゲルがさまざま質問して、無理矢理答えさせたもので、この問答そのものは普段の稽古ではありません。「ですからその話はやめて、稽古しましょう」と阿波範士は言うのです。少し言い過ぎですが、この書籍は稽古を記述したものではないと思うべき。他の弟子たちは、「私が、石橋を叩きたがる人のように質問するのを、不思議がった」そうです。

説明する際の言葉自体から問題が生じている

ヘリゲルがすっかり悩んでしまったのは、説明に選んだ言葉によって生じた悩みです。ヘリゲルは、独我論、主体客体論で考えた。それに対して、阿波範士が無我・無心で説明するのですが、阿波範士はあくまで独我論、主体客体の二項批判をしていると思うべきです。

阿波範士が、「無為の状態を待つ人は、それを待たないかのように待つ事」と言っていますが、範士の批判の方法は“かのように”なのです。
これを、ヘリゲルはすっかり字義通り、私が射るのに、私が射ってはいけないってなにと悩んでしまった。

さすがカント学者!真面目!と言う他ないです。無駄な思念・動きを排除してより良い未来の“我”を作るのは、今現在の“我”ということまで、疑ってはどうしようもないけど、疑っちゃった。この書籍が、不思議に感じられるとしたら、ヘリゲルの記述に沿って、“かのように”を省いて読んでしまうからとなります。
我でなく、“それ”が射るといった心持ちにならないと雑念を払う事なんてできない・・・という事に過ぎません。正確には、“それ”が射るといった心持ちになってないと雑念を払えていない・・・と書くべきでしょう。
皆、自分が確固たる主体として、考え、動くと思うものですが、「その頭の中は誰のもの?」という警句と一緒で、自分の心と体、そして環境の関係がきちんと把握された上で、ただ一つの射るという目的だけ、まったくその目的だけに動いた場合、果たしてそれは“我”が射って居るのでしょうか?とまぁ、種を明かせば簡単な話。
阿波範士は、理想状態がそれで、そうしなさい。と言っているだけです。「そして若し私が、あなた自身の経験を省いて、これを探り出す助けをしようと思うならば、私はあらゆる教師で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。」としている。自分の経験で各自が探りだすことができる、その探り方も自分で探すことが課題・・・と思うと、さして不思議な感もなくなる。

しかし、そう理解することと、実際できるのとは違うのは言うまでもないです。そして、その言葉の説明が理解できないと悩む事は、実際に動いてできるできないと悩むこととも全く違うのが何とも。

心身並行論

なぜ無我・無心と言いたいほどの心と体をつくらないといけないかとなると、心身並行論、心と体(体の各部分)のホリスティックな関係があると思います。

幼な兒のようにという例え話、また、別所で、雪でしなだれた笹の葉が雪が落ちてもとに戻る様にというたとえ話もあります。これらは、心の面では-心身並行論だから、心と体を分離してはなんですが-「考えるな」と言っているだけ。

調べてみると阿波範士はかなり心重視の方だったようで、考えなければうまく体を運用できると、かなりの程度思っていたかもしれませんが、そうであったとしても考えない時の良い体の運用はある。

その体の運用については、直接的具体的な説明はなされてない。具体的運用法抜きのイメージトレーニングですから、悩むのも致し方なしです。イメージですから、仮にヘリゲルの横の山田さん(仮)がうまくやっていたとしても、「山田さんのように卒然と放射しなさい」とは言いにくく、考えないと思われるもので例示をしないといけない説明となっている。

しかしながら、そもそも、考えるなと言っているのに、悩んでもなんです。よく集中できていれば、呼吸も乱れないし、弦の圧力に負ける事もない。できないのは、集中してないから。これも正確には、集中している状態ならば、できる、できる状態が集中している・・・となりますか。いずれにせよ簡単に言ってしまえば、そういうこと。これには種も仕掛けもなく、範士はただそうなのだと言っているだけと思うがよろしいようです。

明示されていませんが、「体のことを言葉を使って考えると弊害がでてくる」という考え方もあると思います。
ヘリゲルはほんの少ししか記述していませんが、(問答ではない)実際の稽古では、範士がちょいちょい弟子の体に触れて手直ししたり、弟子の弓をいじったりしていたそうです。
もし、ヘリゲルが、無理矢理問答を仕掛けるのではなく、範士が黙って、しかし、動きながら何を教えているのかを観察・考察していたら・・・と惜しい気が致します。
“かのように”の問答ではなく、“かのように”の稽古がそこにはあったような。無我・無心という言葉のイメージトレーニング自体、本来否定されるべきものなのでは?その稽古は、言葉を用いないから“かのように”は無く、言葉が無いけれど、具体的な稽古だったのでは・・・と推察する者です。つまり、無我・無心である“かのように”やれと言われて、無我・無心になろうなろうとただ思うことは、実は間違えている・・・

まず第一歩として、否定されているのは、我そのものでなく、「意識=言語活動」としての意識主体だと思えば取りあえずはよろしい。この問答が複雑に見えるのは、「意識=言語活動」だけでは、体の運用にならない・・・なんてことを考えれば、自ずと摑める気が致します。

(そこでは)一体、何を稽古しているのか の自問

「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ!」というのは、ある一つの目的に完全に集中する心と体の運用を学んでいると思えば、まぁ宜しいのでしょう。この道で得られた運用を他の目的にもできなきゃいかんというところまで視野に入れていると言ってよいのでは?

「射手は狙う事無しに、標中に中てるのです。」という言葉は、的に当てるスペシャリストではないものを目指していると思えば理解の取っ掛かりができそうです。的に当てようとして、体と弓と的の関係を探った方法と、そうしないで「何が、どう現れてくるか、お待ちなさい。」と時間をかけながら、稽古をした方法では、違いがあると範士は考えている。この違いが何かは判りませんが、例えて言うならば、試験勉強の一夜漬けで公式を覚えた場合と、公式の証明をきっちりやった場合の違いと思ったらどうでしょう。少なくともそんな違いが何かあると思えそうです。

悠長に時間を掛けて、要所要所で先生の言葉を用いない指導の下、生徒はそれを言葉で問い直さずに黙々と従って稽古する。そして、無我・無心になった“かのように”集中して、とある一つの目的を成す。一体、この稽古方法は何なんだと思いますが、先生は、「何が、どう現れてくるか、お待ちなさい。」と。つまり、その内、変化は起こる筈といいます。実際、悩み悩んだヘリゲルも確かに入門当時よりはうまくなっている。それぞれの弟子の資質に応じた期間で、それぞれ弟子の資質に応じた結果しかでないけれども、紛う方無き本物の訓練法・・・そんな言い方をしても良いのかも。

以下割愛



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