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山縣有朋「無鄰菴」

山縣有朋と山城屋の陰影
「山城屋和助」といっても、ほとんど知名度もなく一般人が知ることは皆無といっていい。人の素性を語るとき、もう一方の相方と比肩するとよく判る場合がある。

漫才コンビのぼけとつっこみのように、バカを演じるものがいて会話をおもしろくする。それらコンビが絶頂をきわめたとしても、そのコンビはいずれ破綻する。それもリアルな日常であり、逃れられない現実だ。
この話しは江戸時代から「明治維新」を作り出そうとしたときにあった、時代の断片であり、それは時代ヒーローの影に隠れた秘話といっていい。であるから、それが正確な実話かどうかを担保できないが、通説に不足している箇所の穴埋めパズルとして、それは時に絶大な歴史証明の1ピースになることがある。
偶像崇拝「龍馬」「坂本龍馬」を偶像に仕立て挙げた司馬氏の功績坂本龍馬、今年没後150年を迎える( 1867年12月10日)。幕末のヒーロー・坂本龍馬。薩長同盟と大政奉還の立役として知られるが実のところ定かではない。殆どと云っていいくらい「龍馬」は司馬遼太郎が作り上げた人物偶像であり、また「明治維新」を語る上で、そのキャラクターは必須である。また「暗殺」という死に方もカリスマには必須条件である。そこにスポットを当てたのが司馬遼太郎であり「司馬史観」という一定の基準を示した。

ちょうどそれは「新聞メディア」が健全で社会の信頼を得ていた時代という背景が重なり対となって司馬史観を肯定していた。とくにテレビ。

歴史書は過去の史実を語るものだが、その時代を書いている本人でさえ、時代を生きていないという非現実をリアルに描くというのは、そもそも嘘、虚構を語っているのであり、真実ではない。

それを充分承知しているからこそ膨大な資料を集めて時代考証をきっちりするのである。それでも、それを基にした映画テレビ脚本など、嘘臭いものが散見する。
そうした中の「被写写真」というのは、無条件に説得力がある。(現在、その加工技術が高度なため反対に写真そのものの信憑性に疑いがある)。

たった1枚の写真がすべてを語る人物像も珍しく、龍馬画像ネット検索すると膨大な数の写真がそこにある。かりに司馬氏が原稿に書く100枚と、龍馬1枚の写真はそれに同等であるといったら云い過ぎだろうか。その逆も真なり、明治時代の合成写真にすっかり騙されたということも見逃せない。

以前は、この司馬史観による坂本龍馬はあまり好きでなかった。というのは話しがよく出来すぎていて、地方藩主土佐藩の一介の侍が脱藩して朝廷と徳川政権と、それに対抗する薩摩長州土佐勢力の仲介者ファクサーとして暗躍するという設定は、エンターテイメント劇としてはギリシア神話オデッセイア的で興味をそそるが、はたして、そこまで自由に動けるか、という懸念があった。
当然、身内からも「スパイ」嫌疑がかけられ信頼性が疑われる、ということもある。結果的には、暗殺という誰からも支持されないという死に方は、まさにそれだった。それにしてもシナリオ筋としてこんな面白い話しは他のどこにもない。

山城屋の陰影

時代はそれより少し経過して、明治が始動したころの話だが、政府軍が海外の諜報活動していた時期、「山縣有朋」の私的腹心として「山城屋和助」という人物がいた。
有朋は陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。しかし、その後も関係は維持していたが、フランスで贅沢三昧していた山城屋和助の行動が国内に知れ、有朋に呼び戻され、消費してしまった軍費の負債を命でつぐなえと有朋に迫られ自害して清算した。その内容の詳細については伝記も調書もまた、後の小説も出されていないので不明だが、それで一番救われたのが「山縣有朋」本人ではなかったかと推察している。

その死に方が「坂本龍馬」とよく似ているな、と思うことがある。暗殺と自害の別はあるが、いずれも本人が存在していてはまずい、という状況にあり、抹殺することで溜飲を下げる人間が多数いたというバランス感覚だ。その大基の原因はなんであったのか、ということになるが、よくある話で、知ってしまうと、とるに足らぬ理由であったり、訊かなければよかった話しというのはいくらでもある。

「山城屋和助」に限っていえば、「フランスで豪遊」というのはまったくの嘘で、ヨーロッパ生糸相場崩落でそこに投機した軍費が大幅損失を招いてしまった。

また、所持していた巨額現金がある理由で使えなくなってしまった(偽造札発覚)という理由等、さまざまな憶測が可能だ。ただ、それを証明する物品がどこにもないという点で、余計にミステリアス仕立てになる。
「坂本龍馬」の暗殺理由に至っても同様で、いまだに確たる理由が見当たらないし、直接手を下した藩、軍、組織など判っていない。

そうした諸事厄介な歴史の闇部分を含めて、判りやすい小説というスタイルで、社会に提示した功績は評価にあたいする。その物語の信頼性とか、時代考証の正確さとか、多少は許容範囲としてやり過ごしても、その内容は学校で教えるリテラシーに匹敵する。

その当時の上方南禅寺風景

いまでこそ南禅寺界隈は、高級別荘地メッカとして有名だが、その創設動機は意外というか不純というか、いまだったらとても不可能とおもわれる人脈ルートで、それが実現している。

山縣有朋の「無鄰菴」別荘
山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。南禅寺界隈別荘の一つ。敷地は三角形の形状で、広さ約3100平方メートル。現在は1941年に寄贈されて京都市が管理している。その庭園は1951年(昭和26年)6月9日、国の名勝に指定された。

数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は明治25年ごろから準備を始め、1894年(明治27年)に造営に着手、明治29年完成。洋館の設計は新家孝正で明治31年に竣工。住所 京都市左京区南禅寺草川町31

琵琶湖疏水と東山の別荘地
山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。
このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられた。琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工する。
京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っていた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となったのである。無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを引き受けることとなった。 ※資料ウイキペディア

従として和助 主として有朋の関係系

山城屋 和助 Yamashiroya_Wasuke(天保7年(1836年) - 明治5年11月29日(1872年12月29日))は明治時代初期の陸軍省御用商人。元・長州藩奇兵隊隊士。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し割腹自殺したことで知られる。本名は野村三千三(のむら みちぞう)。
道蔵とも。周防国玖珂郡山代荘本郷村(和泉村とも)に、医師野村信高右の四男として生まれる。幼少時に両親と死別し、親戚により萩の寺「龍昌院」に預けられ、僧侶となる。文久3年(1863年)に還俗し、高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊する。

山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦し、越後口では御陵衛士残党の篠原泰之進や高鍋藩兵と共に戦った。その活躍は、「勤王美談野村三千三」として京都で芝居にもなった。

明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政にたずさわるようになった山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜の南仲通り3丁目に店舗を構えた。明治4年には、東京の本石町にも店を出した。

長州人脈を活かし、軍需品納入の商売は繁盛した。明治5年(1872年)、彼は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

軍が融資した金額は総額64万8000円に達し、山城屋は一時は500人以上の店員を使うほど隆盛した。しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗。山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。
ところが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話など、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(俗にいう 山城屋事件)。

では、「山城屋」が暗躍したそのヨーロッパでは一体何がおきていたのか。世界史的にそれを「普仏戦争」といい、それは世界大戦開戦のモチベーションといわれている。明治5年(1872年)まさにそれは激動の時代だった。

プロイセン歴史 ドイツ帝国(ドイツ語: Deutsches Kaiserreich)は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。帝政ドイツ(ていせいドイツ)とも呼ばれる。普仏戦争において、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式が行われて成立した。
しかし第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発により、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して崩壊した。オランダ資本は、帝国の勢力範囲拡大政策(#世界政策)とルール地方における工業開発(#経済)の両面に貢献している。

1850年以降、ドイツの州は急速に工業化され、特に石炭、鉄(そして後に鋼鉄)、化学薬品、そして鉄道が強みとなった。1871年、ドイツの人口は約4100万人だったが、1913年までに6800万までに増加した。建国47年の間に、ドイツ帝国は産業、技術、科学の巨人となり、他のどの国よりも多くのノーベル賞を獲得した。 1900年までに、ドイツは世界で2番目に大きな経済を築いた。その後ドイツは植民地に関心を示した。ベルリン会議を成功させたドイツはアフリカへ進出。そして大英帝国とフランス植民地帝国の次に三番目に巨大な植民地帝国を築くことに成功した。しかしこれは他の欧州諸国、特に大英帝国との対立を深めた。

ドイツは列強となり、急速に発展した鉄道、世界最強の軍隊、そして急成長している産業を持っていた。そして10年足らずでイギリス海軍の次に大きいドイツ帝国海軍を作り上げた。

フリードリヒ大王が創設した王立銀行は、1847年にプロイセン銀行に改組された。資本金内訳は、プロイセン政府資本が120万ライヒスターラーと、プロイセン/非プロイセンの個人銀行資本が1000万ライヒスターラーであった。これは1876年に中央銀行となりドイツ帝国銀行と称した。(#経済)

1862年にオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン王国の首相となった。そして、オーストリア帝国と同盟し、デンマークと戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)を行った結果、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をオーストリアとの共同管理とした。

その後1866年、普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、オーストリアをドイツ人国家の枠組みから追放した。1870年には普仏戦争でナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した。この際に、長年フランスとの間で帰属が変遷していたエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を獲得した。なお戴冠の「1月18日」は、当時から170年前のプロイセン王国成立(1701年)と同日である。

また、この1871年にはドイツ=オーストリア電信連合が停止した。後継の万国電信連合は同年に企業の無制限参加を認めている。独仏両国とも、戦争を経て企業の意見を無視できなくなっていた。

ビスマルクは、普仏戦争に敗れたフランスの対独復讐を封じるために、列強と複雑な同盟関係を築き上げてフランスを孤立化させる外交政策を取った。これをビスマルク体制と呼ぶ。

山城屋、豪遊かスパイか?

軍が融資した金額は総額64万8000円に達し、山城屋は一時は500人以上の店員を使うほど隆盛した。しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗。山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。
ところが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話など、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(山城屋事件)。

とは資料ウイキペディア記述だが、そのプロットはどこかで読んだことのあるシナリオ、忠臣蔵「大石内蔵助」そのものであり、ここでもそれを踏襲したのかと思った。忠臣蔵は大石内蔵助の人情事件。 人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品とされているが、いまこの話は事実化しており史実であると皆勘違いしている。脚色された創作シナリオとしても史実としての赤穂事件とは異種のはなしである。

当時、陸軍省では、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、高島嘉右衛門や堀越角次郎ら豪商に協力を求めたが叶わず、借りた公金を返済する能力が無い事が明らかになっただけであった。
山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。窮地に立たされた山城屋は、同年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。

ただし、山縣有朋が明治6年3月付で、在パリの鮫島弁理公使に書いた書簡には、「(和助は)帰国後商法種々手違之故をもって旧臘(昨年の和暦12月)自刃におよび相果て、自首致候手代とも即今裁判所にて取糺中にこれあり」とあって、死後も司法省によって事件が追及されていたことがわかる。

他の文献では「山縣有朋」の引導によって自刃するように奨められたという記述がある。また、そうした手段を躊躇なく押し付ける氏の性格は、軍内部でも知られていた。

※資料ウイキペディアを参考に再構成してある


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