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小津映画の看板女優「原節子」

2012年9月号掲載 新潮社 波 電子書籍
原節子――「伝説」から「真実」へ
――西村雄一郎『殉愛 原節子と小津安二郎』田中壽一

 私は昭和三二年に東宝に入社し、助監督や演技事務、プロデュースなどを担当しました。
 当時、砧の撮影所に、中尾さかゐさんという、結髪の大ベテランの方がおられて、入社したての私を、ずいぶん可愛がってくださいました。そのおかげで、私は結髪部屋に入り浸って多くの女優さんを目の当たりにしてきました。高峰秀子さん、新珠三千代さん、若手では司葉子さん、団令子さん、星由里子さん……。中尾さんは、彼女たちの相談相手のような存在でもありました。

 その中で、ひときわ輝いていたのが、原節子さんです。原さんがおられる結髪部屋には、気軽に入りにくいような雰囲気さえありました。しかし実際には、とても気さくで、さっぱりした性格の方です。『ふんどし医者』(昭和三五年)で、森繁久弥さんの遅刻が続いたら、ある時、原さんが大声で「みなさ~ん、大スターさんがやっといらっしゃいましたよ~!」とやったら、さすがの森繁さんも体裁が悪くなって、以後、遅刻しなくなりました。そんな茶目っ気のある方でした。

 原さんといえば、やはり『晩春』(昭和二四年)や『東京物語』(昭和二八年)など、松竹の小津安二郎監督作品です。ロケ先の宿屋で何度か小津組と一緒になったことがありますが、実に紳士で、「白雪」の樽酒を、楽しそうにみんなで呑んでました。原さんも日本酒がお好きで、お吸い物のお椀のフタでグイグイ呑んでました。

 原さんはあれだけの美女ですから、恋の噂も一つや二つではありませんでした。小津監督との仲を憶測する記事も出ましたが、実際は、信頼と尊敬で結ばれた「純愛」関係だったと思います。それがいかに美しい関係だったかは、私も取材に協力させていただいた本書で、ていねいに描かれています。

 東宝では、古澤憲吾監督が原さんにご執心でした。クレージー・キャッツ映画や若大将シリーズで知られる大ヒット・メーカーで、なかなかの美男子でした。これは撮影所では有名な話で、私も麻雀の席でその思いを聞かされたことがあります。しかし結局、藤本真澄プロデューサーに「監督を取るか、女優を取るか」と諭され、諦めたんです。

 その藤本さん自身も、原さんにある思いを抱いていたようです。松竹から小津監督と原さんを招いて『小早川家の秋』(昭和三六年)を撮らせたほどですから。しかし、これもまた小津さん同様「純愛」でした。女優は、ある年齢になると、役柄が限られてきます。山田五十鈴さんや山本富士子さんのように舞台女優に転向できればいいのですが、実際にはそう簡単にはいかない。戦前派の原さんが草創期のテレビに移行できるとも思えない。そうなると、後半生の暮らしに困ります。そこで藤本さんは、東宝の株や土地の購入を薦めていたようです。中年以降の原さんの、惨めな姿を見たくなかったのかもしれません。

 本書で西村さんが指摘しているとおり、原さんが銀幕を去った最大の理由は、やはり小津さんの死だと思います。それほど原さんは、小津さんを敬愛していました。そして、以後、一切の仕事をせずに隠遁生活を送ることができたのは、藤本さんのおかげでしょう。期せずして、この二人の男性は、生涯独身のまま亡くなっています。まるで原さんに生涯を捧げたかのようです。いや、原さんも、小津さんや藤本さんに操を立てたというべきかもしれません。

 ところで、もう一人、原節子を語る上で欠かせない男性がいます。義兄の映画監督・熊谷久虎氏です。その意味は、本書をお読みいただければ、わかります。原節子の評伝で、彼をここまでクローズアップしたものはあまりなかったように思います。おそらく本書をきっかけに、二人の「関係」が、さらに語られるようになるでしょう。その時、原節子さんの、「永遠の処女伝説」は、「真実」になるような気がします。本書は、その突破口となる一冊です。 (たなか・じゅいち 映画プロデューサー)

■原 節子は、日本の女優。 戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』や『東京物語』などの小津安二郎監督の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』などに出演した。 1963年に女優業を引退し、2015年9月5日に死去するまで隠遁生活を送った。 ウィキペディア

生年月日: 1920年6月17日
出生地: 神奈川県 横浜市
死亡日: 2015年9月5日, 神奈川県

【復刻】「永遠の処女」絶頂期引退の訳/原さん死去
[2015年11月25日23時8分] 日刊スポーツ
「永遠の処女」とうたわれた女優原節子(80)が1962年(昭37)、理由を一切明かさず、42歳という絶頂期に日本映画界から突然姿を消した。現在、かつての友人とさえ会うことなく、鎌倉市内で「隠とん生活」を送っている。引退理由は、視力低下、老いた姿をさらさないため、など諸説あるが、撮影中に実兄が目前で事故死した悲劇が、背景にあるという。しかし、真実は今も永遠のなぞの中にある。
 62年の東宝創立30周年記念作品「忠臣蔵・花の巻・雪の巻」(稲垣浩監督)が、女優原節子、42歳の最後の作品だった。その後、多くの出演依頼を断り、公の場にも姿を見せなくなったことから「原節子引退」が事実となった。
 突然の引退にマスコミはさまざまな理由を伝えた。真実は今もなぞのままだが、原の運命を変えたと思われる出来事があった。

 原の義兄熊谷久虎氏が監督を務めた主演映画「白魚」の静岡県御殿場駅ロケの最中のことだった。53年7月10日午後7時30分すぎ、アングルを決めようとプラットホームから線路側に身を乗り出した会田吉男カメラマンに、手前で停止予定だった下り列車が突っ込んだ。原因は連絡ミス。翌日、息を引き取った吉男さんは、原の実兄だった。出番を待っていた原は悲劇の一部始終を見ていた。
 当時、東宝のスチールカメラマンだった秦大三さんは「節ちゃん(原の愛称)は病院まで付き添ったそうです。取り乱し、ものすごく悲しんでいたと聞きました。本当にかわいそうでした」。2人が兄妹ということは撮影所ではあまり知られていなかった。秦さんは「仕事ですから、あえて距離を持っていたのでしょう。もちろん兄妹ですから、陰で支え合っていたと思います」と語る。

 原は悲しみもいえぬ10日後の7月20日に、後に小津安二郎監督の傑作といわれる「東京物語」の撮影に入った。戦死した夫の両親を親身になって面倒をみる嫁を演じた。人間の孤独感や死生観をテーマにした作品だった。原は見事に演じた。

 同映画のプロデューサーの1人だった佐々木孟(はじめ)さん(現松竹テレビ部プロデューサー)は「事故のことはみな知ってましたが、悲しそうなそぶりはまったく見せなかった。内に秘めて演技していたのでしょう……」。撮影助手だった川又昂(たかし)さんは「原さんは事故のことは絶対に口にしなかった。さすがスターだと感心しましたが、逆にそれが痛々しかった」という。

 原はその後、照明のせいか、左目がかすみ、54年1月に順天堂大病院で診察を受けた。白内障と診断され手術した。当時東宝撮影所宣伝部のスタッフだった宇野喜代子さんは「あの事故後、少し節ちゃんが変わったような気がします。何かに耐えているような様子というか。白内障も重なりましたから」。原は当時「私には不幸が向こうからやってくる」と漏らした。

 その言葉を証明するように、映画「愛情の決算」(佐分利信監督)を撮影中の56年3月6日には、父藤之助さんが脳いっ血で死去した。兄同様、映画のロケ中の悲報だった。

 小学校時代、木登りが大好きな活発な少女で、5年生でスポーツ選手、6年生のころには外交官夫人や教師を夢見た。ところが家庭の経済的事情から高等女学校を中退。目標を失いかけたが、2番目の姉光代さんの夫が熊谷監督だったことから、女優を目指した。自分の意思よりも周囲の状況が、会田昌江を原節子にしていった。秦さんは「もしかしたら性格が女優向きじゃなかったのかも。人に見つめられるのが嫌いなのか、撮影所ではいつも走っていた。そんな女優さんはほかにいなかった」。

 肉親の死、「東京物語」での死生観の名演技。視力の衰え……。その中で、原は「原節子」よりも「会田昌江」であることを選んだのではなかったか。結婚歴もなく、美しさを保ったまま姿を消した原に、いつしか「永遠の処女」の呼び名がつき、伝説となった。

 今年12月10日(命日は12日)、鎌倉・円覚寺で小津監督をしのぶ会が営まれた。毎年、原にも招待状が送られているが今年も原の姿はなかった。【松田秀彦】

 ◆1962年(昭37)

 堀江謙一さんがヨットで太平洋単独横断成功。東京都人口1000万人突破。巨人の王貞治初めて1本足打法で登場。金田正一投手三振奪3514個の世界新記録樹立。キューバ危機起きる。マリリン・モンローなぞの死。美空ひばりと小林旭結婚(のち離婚)。流行語は「無責任時代」「回転レシーブ」など。日本レコード大賞は「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)。

 ◆原節子(はら・せつこ) 本名会田昌江(あいだ・まさえ)1920年(大9)6月17日、横浜市保土ケ谷生まれ。35年(昭10)に日活多摩川撮影所に入社。同年「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)でデビューし、芸名は同映画の役名のお節ちゃんが由来。37年日独合作映画「新しき土」で日本人女優として初めて外国映画に出演。戦後は成瀬巳喜男、黒沢明、吉村公三郎、今井正、小津安二郎ら巨匠の作品に出演。特に成瀬監督「めし」、小津監督「晩春」「東京物語」などは高く評価された。51年ブルーリボン賞、毎日映画コンクールの主演女優賞を獲得。未婚。

(2000年12月25日付日刊スポーツから)
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東宝「慕情の人」のセットを訪れた原作者・井上靖氏(右)と井上文学の大ファンという原節子さん(写真は1961年1月)

夢郎(ぼうろう) on X: "○引退後の原節子の言葉ー小津安二郎 …最後のお見舞いのとき、「私もこの1年間、どんな仕事もしませんでしたけど、先生の新しい作品にはたとえワンカットでも出させていただきますからね」と、念を押すようにいってきたのですが…日本映画のためにも ...

『原節子、号泣す』 末延芳晴 集英社新書

2015年02月24日 | 映画 集英社文庫
小津安二郎映画に出た原節子の作品の内、俗に「紀子三部作」と言われる『晩春』『麦秋』『東京物語』のそれぞれのクライマックスで、原節子が号泣していることからアプローチしたユニークな小津映画論である。

他の小津安二郎産業本に比べて、かなり独自の視点で、『晩春』での最後の京都旅行の夜の意味、原節子と笠智衆の「近親相姦的」意味を否定している。
それは蓮實先生やドナルド・リチーから言われたもので、他にも類似した観点での批評がある。

だが私も、小津安二郎のモラルから見て、あの場面にエレクトラ・コンプレックスの意味を付与するのは相当に無理があると思う。

ただ、多くの論者にそう書かせたくなるほど、原節子は一見は慎ましやかに見えて、実は大いに性的なのである。

それを筆者は、「原節子の反社会性」のよるものと書いているが、さらにそれがどこから来ているのかの言及がないのは私には大いに不満である。

反社会性というよりは、むしろ反道徳性というべきで、それは言うまでもなく義兄熊谷久虎との問題に起因していると私は思う。

また、『東京暮色』への言及が少ないことも私には不満だったが、小津安二郎産業本の中では、極めて個性的な本のひとつであることは間違いない。

#本 (レビュー感想)

以下は、次回の記事予定

東京の宿 1935
殉愛 原節子と小津安二郎






私は昭和三二年に東宝に入社し、助監督や演技事務、プロデュースなどを担当しました。

 当時、砧の撮影所に、中尾さかゐさんという、結髪の大ベテランの方がおられて、入社したての私を、ずいぶん可愛がってくださいました。そのおかげで、私は結髪部屋に入り浸って多くの女優さんを目の当たりにしてきました。高峰秀子さん、新珠三千代さん、若手では司葉子さん、団令子さん、星由里子さん……。中尾さんは、彼女たちの相談相手のような存在でもありました。

 その中で、ひときわ輝いていたのが、原節子さんです。原さんがおられる結髪部屋には、気軽に入りにくいような雰囲気さえありました。しかし実際には、とても気さくで、さっぱりした性格の方です。『ふんどし医者』(昭和三五年)で、森繁久弥さんの遅刻が続いたら、ある時、原さんが大声で「みなさ~ん、大スターさんがやっといらっしゃいましたよ~!」とやったら、さすがの森繁さんも体裁が悪くなって、以後、遅刻しなくなりました。そんな茶目っ気のある方でした。

 原さんといえば、やはり『晩春』(昭和二四年)や『東京物語』(昭和二八年)など、松竹の小津安二郎監督作品です。ロケ先の宿屋で何度か小津組と一緒になったことがありますが、実に紳士で、「白雪」の樽酒を、楽しそうにみんなで呑んでました。原さんも日本酒がお好きで、お吸い物のお椀のフタでグイグイ呑んでました。

 原さんはあれだけの美女ですから、恋の噂も一つや二つではありませんでした。小津監督との仲を憶測する記事も出ましたが、実際は、信頼と尊敬で結ばれた「純愛」関係だったと思います。それがいかに美しい関係だったかは、私も取材に協力させていただいた本書で、ていねいに描かれています。

 東宝では、古澤憲吾監督が原さんにご執心でした。クレージー・キャッツ映画や若大将シリーズで知られる大ヒット・メーカーで、なかなかの美男子でした。これは撮影所では有名な話で、私も麻雀の席でその思いを聞かされたことがあります。しかし結局、藤本真澄プロデューサーに「監督を取るか、女優を取るか」と諭され、諦めたんです。

 その藤本さん自身も、原さんにある思いを抱いていたようです。松竹から小津監督と原さんを招いて『小早川家の秋』(昭和三六年)を撮らせたほどですから。しかし、これもまた小津さん同様「純愛」でした。女優は、ある年齢になると、役柄が限られてきます。山田五十鈴さんや山本富士子さんのように舞台女優に転向できればいいのですが、実際にはそう簡単にはいかない。戦前派の原さんが草創期のテレビに移行できるとも思えない。そうなると、後半生の暮らしに困ります。そこで藤本さんは、東宝の株や土地の購入を薦めていたようです。中年以降の原さんの、惨めな姿を見たくなかったのかもしれません。

 本書で西村さんが指摘しているとおり、原さんが銀幕を去った最大の理由は、やはり小津さんの死だと思います。それほど原さんは、小津さんを敬愛していました。そして、以後、一切の仕事をせずに隠遁生活を送ることができたのは、藤本さんのおかげでしょう。期せずして、この二人の男性は、生涯独身のまま亡くなっています。まるで原さんに生涯を捧げたかのようです。いや、原さんも、小津さんや藤本さんに操を立てたというべきかもしれません。

 ところで、もう一人、原節子を語る上で欠かせない男性がいます。義兄の映画監督・熊谷久虎氏です。その意味は、本書をお読みいただければ、わかります。原節子の評伝で、彼をここまでクローズアップしたものはあまりなかったように思います。おそらく本書をきっかけに、二人の「関係」が、さらに語られるようになるでしょう。その時、原節子さんの、「永遠の処女伝説」は、「真実」になるような気がします。本書は、その突破口となる一冊です。 (たなか・じゅいち 映画プロデューサー)


原 節子は、日本の女優。 戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』や『東京物語』などの小津安二郎監督の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』などに出演した。 1963年に女優業を引退し、2015年9月5日に死去するまで隠遁生活を送った。 ウィキペディア

生年月日: 1920年6月17日

出生地: 神奈川県 横浜市

死亡日: 2015年9月5日, 神奈川県





















【復刻】「永遠の処女」絶頂期引退の訳/原さん死去

[2015年11月25日23時8分] 日刊スポーツ

「永遠の処女」とうたわれた女優原節子(80)が1962年(昭37)、理由を一切明かさず、42歳という絶頂期に日本映画界から突然姿を消した。現在、かつての友人とさえ会うことなく、鎌倉市内で「隠とん生活」を送っている。引退理由は、視力低下、老いた姿をさらさないため、など諸説あるが、撮影中に実兄が目前で事故死した悲劇が、背景にあるという。しかし、真実は今も永遠のなぞの中にある。


  62年の東宝創立30周年記念作品「忠臣蔵・花の巻・雪の巻」(稲垣浩監督)が、女優原節子、42歳の最後の作品だった。その後、多くの出演依頼を断り、公の場にも姿を見せなくなったことから「原節子引退」が事実となった。


 突然の引退にマスコミはさまざまな理由を伝えた。真実は今もなぞのままだが、原の運命を変えたと思われる出来事があった。


 原の義兄熊谷久虎氏が監督を務めた主演映画「白魚」の静岡県御殿場駅ロケの最中のことだった。53年7月10日午後7時30分すぎ、アングルを決めようとプラットホームから線路側に身を乗り出した会田吉男カメラマンに、手前で停止予定だった下り列車が突っ込んだ。原因は連絡ミス。翌日、息を引き取った吉男さんは、原の実兄だった。出番を待っていた原は悲劇の一部始終を見ていた。


 当時、東宝のスチールカメラマンだった秦大三さんは「節ちゃん(原の愛称)は病院まで付き添ったそうです。取り乱し、ものすごく悲しんでいたと聞きました。本当にかわいそうでした」。2人が兄妹ということは撮影所ではあまり知られていなかった。秦さんは「仕事ですから、あえて距離を持っていたのでしょう。もちろん兄妹ですから、陰で支え合っていたと思います」と語る。


 原は悲しみもいえぬ10日後の7月20日に、後に小津安二郎監督の傑作といわれる「東京物語」の撮影に入った。戦死した夫の両親を親身になって面倒をみる嫁を演じた。人間の孤独感や死生観をテーマにした作品だった。原は見事に演じた。


 同映画のプロデューサーの1人だった佐々木孟(はじめ)さん(現松竹テレビ部プロデューサー)は「事故のことはみな知ってましたが、悲しそうなそぶりはまったく見せなかった。内に秘めて演技していたのでしょう……」。撮影助手だった川又昂(たかし)さんは「原さんは事故のことは絶対に口にしなかった。さすがスターだと感心しましたが、逆にそれが痛々しかった」という。


 原はその後、照明のせいか、左目がかすみ、54年1月に順天堂大病院で診察を受けた。白内障と診断され手術した。当時東宝撮影所宣伝部のスタッフだった宇野喜代子さんは「あの事故後、少し節ちゃんが変わったような気がします。何かに耐えているような様子というか。白内障も重なりましたから」。原は当時「私には不幸が向こうからやってくる」と漏らした。


 その言葉を証明するように、映画「愛情の決算」(佐分利信監督)を撮影中の56年3月6日には、父藤之助さんが脳いっ血で死去した。兄同様、映画のロケ中の悲報だった。


 小学校時代、木登りが大好きな活発な少女で、5年生でスポーツ選手、6年生のころには外交官夫人や教師を夢見た。ところが家庭の経済的事情から高等女学校を中退。目標を失いかけたが、2番目の姉光代さんの夫が熊谷監督だったことから、女優を目指した。自分の意思よりも周囲の状況が、会田昌江を原節子にしていった。秦さんは「もしかしたら性格が女優向きじゃなかったのかも。人に見つめられるのが嫌いなのか、撮影所ではいつも走っていた。そんな女優さんはほかにいなかった」。


 肉親の死、「東京物語」での死生観の名演技。視力の衰え……。その中で、原は「原節子」よりも「会田昌江」であることを選んだのではなかったか。結婚歴もなく、美しさを保ったまま姿を消した原に、いつしか「永遠の処女」の呼び名がつき、伝説となった。


 今年12月10日(命日は12日)、鎌倉・円覚寺で小津監督をしのぶ会が営まれた。毎年、原にも招待状が送られているが今年も原の姿はなかった。【松田秀彦】

 ◆1962年(昭37)

 堀江謙一さんがヨットで太平洋単独横断成功。東京都人口1000万人突破。巨人の王貞治初めて1本足打法で登場。金田正一投手三振奪3514個の世界新記録樹立。キューバ危機起きる。マリリン・モンローなぞの死。美空ひばりと小林旭結婚(のち離婚)。流行語は「無責任時代」「回転レシーブ」など。日本レコード大賞は「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)。

 ◆原節子(はら・せつこ) 本名会田昌江(あいだ・まさえ)1920年(大9)6月17日、横浜市保土ケ谷生まれ。35年(昭10)に日活多摩川撮影所に入社。同年「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)でデビューし、芸名は同映画の役名のお節ちゃんが由来。37年日独合作映画「新しき土」で日本人女優として初めて外国映画に出演。戦後は成瀬巳喜男、黒沢明、吉村公三郎、今井正、小津安二郎ら巨匠の作品に出演。特に成瀬監督「めし」、小津監督「晩春」「東京物語」などは高く評価された。51年ブルーリボン賞、毎日映画コンクールの主演女優賞を獲得。未婚。

(2000年12月25日付日刊スポーツから)


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東宝「慕情の人」のセットを訪れた原作者・井上靖氏(右)と井上文学の大ファンという原節子さん(写真は1961年1月)


夢郎(ぼうろう) on X: "○引退後の原節子の言葉ー小津安二郎 …最後のお見舞いのとき、「私もこの1年間、どんな仕事もしませんでしたけど、先生の新しい作品にはたとえワンカットでも出させていただきますからね」と、念を押すようにいってきたのですが…日本映画のためにも ...



『原節子、号泣す』 末延芳晴 集英社新書

2015年02月24日 | 映画 集英社文庫

小津安二郎映画に出た原節子の作品の内、俗に「紀子三部作」と言われる『晩春』『麦秋』『東京物語』のそれぞれのクライマックスで、原節子が号泣していることからアプローチしたユニークな小津映画論である。


他の小津安二郎産業本に比べて、かなり独自の視点で、『晩春』での最後の京都旅行の夜の意味、原節子と笠智衆の「近親相姦的」意味を否定している。

それは蓮實先生やドナルド・リチーから言われたもので、他にも類似した観点での批評がある。

だが私も、小津安二郎のモラルから見て、あの場面にエレクトラ・コンプレックスの意味を付与するのは相当に無理があると思う。

ただ、多くの論者にそう書かせたくなるほど、原節子は一見は慎ましやかに見えて、実は大いに性的なのである。

それを筆者は、「原節子の反社会性」のよるものと書いているが、さらにそれがどこから来ているのかの言及がないのは私には大いに不満である。

反社会性というよりは、むしろ反道徳性というべきで、それは言うまでもなく義兄熊谷久虎との問題に起因していると私は思う。

また、『東京暮色』への言及が少ないことも私には不満だったが、小津安二郎産業本の中では、極めて個性的な本のひとつであることは間違いない。


#本 (レビュー感想)







映画『PERFECT DAYS』:ヴィム・ヴェンダースと役所広司、トイレから生まれた奇跡の出会い
Cinema 美術・アート 2023.12.21
松本 卓也(ニッポンドットコム) 【Profile】

2023年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、主演の役所広司が最優秀男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』。世界的な名匠ヴィム・ヴェンダースが、東京に暮らす公共トイレ清掃員の日常を細やかに、優しく見つめた映像詩だ。映画史に刻まれたヴェンダースと役所の奇跡的なタッグのきっかけには、意外なプロジェクトとその仕掛け人たちの発想、熱意、行動力があった。


東京画

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