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ロッキード事件 「角栄」総理の饒舌

ロッキード事件 日本を震撼させた200日

「不世出の政治家」「今太閤(たいこう)」「コンピューター付きブルドーザー」「庶民宰相」=田中の異名

「裸一貫で郷里を発(た)って以来、1日も休むこともなくただ真面目に働き続けてまいりました」=政権の座を降りる決意をした時の心境。

下駄履(げたば)きで屋敷の池の鯉(こい)に餌を与えるメディア映像は有名。

「田中角栄大悪人か然(しか)らじか呼び捨てられて何がな親し」=歌人の竹山広(1920年~)さんの一首(ロッキード事件当時の世相を詠んだ時事詠で、権力の絶頂期よりもむしろ落ちた偶像となった身に、そこはかとない親しみを覚えたという意味)。画像| アサ芸プラス

田中が東京地検特捜部に逮捕されたのは、政権を退いて2年足らずの1976年(昭和51年)の7月27日のこと。なお、05年4月に読売新聞の世論調査で「戦後発展の功労者」を尋ねたところ、日中国交回復などの業績を評価してだろう、5人に1人が田中の名前を挙げた。

☆ ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。

この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。

ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる(10年2月12日付『朝日新聞』)。

ロッキード事件をめぐり「I HOPE IT WILL HUSH UP(MOMIKESU)THE MATTER」(この問題をもみ消すことを希望する)」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館(10年2月12日付『朝日新聞』)

1976(昭和51)年12月、成立当初(72年7月7日)支持率62%という高率で吉田内閣を上回り戦後最高を記録するなど国民的人気を誇った田中角栄内閣が金権腐敗(立花隆「田中角栄研究--その金脈と人脈」の発表(『文芸春秋』76年11月号)から田中金脈の追及が進む)で退陣(74年12月9日)したあとを受けて、いわゆる椎名裁定(「国家、国民のため神に祈る気持ちで考え抜きました。
新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君(67歳)が最も適任であると確信し、こ推挙申し上げます」(「椎名声明」)⇒“議会の子”と自称しバルカン政治家(「理想目指す政治家」という意味)といわれた自民党内では傍流で、かつ少数派閥の三木は、『“晴天の霹靂”{へきれき=晴れた青空に霹靂-激しい雷が-とどろくさま}だ。
予想だにしなかった』といった)で、ピンチヒッターとして「クリーン三木」とのキャッチフレーズをもって登場した三木武夫内閣(22年ぶりに民間から文相に永井道雄(朝日新聞論説委員)を登用)のもとで発覚した、民間航空機売り込みにともなう国際的規模の汚職事件。

東京地検特捜部は、日本の総理大臣経験者(前首相)田中角栄(自民党最大派閥の首領として政界に大きな影響力を行為していた)を逮捕、日本を震撼さることになる。

事件の発覚は、76年2月4日のアメリカ上院議院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の「ピーナッツ100個(暗号領収書、ピーナッツ1個は100万円で、100個は1億円)」などロッキード社不法献金の証拠資料公表にはじまる。この委員会でのロッキード関係者の証言から、同社航空機(ロッキードL1011“エルテンイレブン”トライスター)の日本への売り込みに多額の賄賂(わいろ)が流れ、その一部が前総理の田中角栄に流れていることが判明、国内に衝撃が走る(ロ社の巨額の工作資金は日本のほか、イタリア、トルコなどにも流していた)。

当然日本の国会でも、野党がこの問題を追求、マスコミは連日この問題を報道、国会内外で激しい攻防が展開される。三木首相は、「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明(三木は側近に「ほどほどにという人もあるが、真相を究明して、それで三木内閣がどうなろうとかまわないじゃないか」と語った)、76年2月16日衆議院予算委員会は、事件関係者としてアメリカで名前があがった、田中角栄の刎頸(ふんけい=生死を共にするほどの親密な交わり)の友であった国際興業社長小佐野賢治、全日空社長若狭得治、副社長渡辺尚次、丸紅社長檜山広(ひやまひろ)を証人喚問し、病床にあった右翼の児玉誉士夫を病院で尋問(臨床取調べ)を行う。

そして76年7月27日、東京地検特捜部は、外為法違反容疑で田中角栄を逮捕する(田中角栄は76年4月2日の田中派総会で「私の所感」を発表し疑惑を否定していた)。前首相の逮捕は、昭電疑獄の芦田均についで、日本憲政史上2人目である。    

捜査の結果、72年8月31日にハワイで行われた「田中・ニクソン会談」の結果で、日本の民間航空機として、ロッキード社のトライスター購入が確約されたことが判明、その成功報酬として実に5億円が田中角栄にわたったのである。

ロッキード社の賄賂工作は、総合商社の丸紅から総理の田中角栄に、全日空(ANA)から自民党の政治家に、児玉誉士夫から小佐野賢治へと3つのルートで行われた。

渡された賄賂(現金)が「ピーナッツ」という符号(合言葉)で呼ばれたことから、「黒いピーナッツ」という言葉がマスコミで連日報道され、たちまち日本の流行語になった。また金銭の授受が受託収賄罪にあたるかどうかが争われた際、証言にたった首相秘書官榎本敏夫夫人の三恵子さんが、「榎本が5億円の受領を認める発言をしていた」と法廷で証言する。夫人の証言は決定的で、その証言は、「蜂の一刺し」といわれ、これまた流行語となる。

76年7月の田中の逮捕につづいて8月には元運輸大臣橋本登美三郎と元運輸政務次官の佐藤孝行が全日空ルートで東京地検特捜部に逮捕された。しかし、それ以外の者は疑いが濃いものの疑惑が解明されないために、「灰色高官」(法務省は76年11月1日、衆参両院ロッキード特別委員会に「灰色高官」―限りなく黒いに近い灰色―18人の肩書を提出する)という名を残しただけで事件はうやむやのうちに終わった。

東京地裁は83年10月12日、ロッキード事件丸紅ルート判決公判で、田中角栄と秘書榎本敏夫に受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を行う(田中は「判決は極めて遺憾、生ある限り、国会議員として職務を遂行する」との所感を発表、両名控訴)。

東京高裁は87年7月29日、控訴棄却(一審の判決を踏襲して有罪)、田中は上告するが、93年12月17日に田中は死亡、死亡による公訴棄却で田中の裁判は終結する。

なお、三木首相のロッキード事件究明の姿勢は、世論は受けたが、三木政権生みの親である椎名悦三郎・自民党副総裁は、「はしゃぎすぎ」と批判、それ以後、福田・大平・田中・椎名・船田・永田の6派閥が挙党体制確立協議会を結成し、三木退陣を要求、政局はにわかに『三木おろし』が激しくなり、三木首相は自民党内で孤立、76年12月5日の第34回衆議院議員総選挙での自民党大敗(保釈中の田中角栄は、新潟3区で16万8,522票を獲得しトップ当選)の責任をとらされ、12月7日総辞職に追い込まれる(12月24日福田内閣誕生)。

☆ 06年07月27日付『毎日新聞』
ロッキード事件:5億円は参院26候補に 調書で元秘書官
「戦後最大の疑獄」と呼ばれるロッキード事件で、受託収賄罪に問われた田中角栄元首相=1、2審実刑、上告中死亡=の榎本敏夫元秘書官=外為法違反で有罪確定=が、東京地検特捜部の調べに、ロ社側から受領した5億円について「74年の参院選候補者26人に2000万円ずつ渡した」などと供述していたことが分かった。調書とともに一覧表にまとめられたが、公判では証拠として申請されなかった。田中元首相らの逮捕から27日で30年を迎える節目に新事実が判明した。

 関係者によると、この調書は、76年7月27日の逮捕から8月9日の起訴までに作成された。榎本元秘書官は公判で一貫して5億円受領を否認したが、捜査段階では逮捕翌日に認め、公判で11通の調書が証拠採用された。今回判明した供述調書はこれとは別で、実際は計16通あったという。

 元秘書官は「田中邸に運んだ後の5億円の処理は知らないが、参院選で私がお届けしただけでかなりの金額になる。5億円もこれらの中にミックスされ消えてしまったのではないか」と供述。参院選候補者への配布一覧表を作成して「私の記憶が不確かな部分はあえて記載しませんでした」と念押ししたという。

 一覧表は(1)氏名(2)授受時期(3)金額(4)授受場所(5)備考--の順に記され、当時の全国区10人、地方区16人の候補者名が書かれていたという。授受の時期は73年11月~74年3月で、金額はほぼ一律2000万円。授受場所は田中元首相の事務所があった砂防会館が多く、議員会館や個人事務所もあったとされる。

 26人には田中派だけでなく他派閥や無派閥も含まれ、国会で「嘱託尋問は違法」と述べた閣僚経験者(故人)や、否認に転じた榎本元秘書官の5億円授受時の「アリバイ」を法廷で証言した閣僚経験者もいた。しかし、後に「参院のドン」と呼ばれた1人を除き、党や政権の中枢を担った候補者はいなかった。榎本元秘書官は「選挙に弱い候補に配った。自派議員は砂防会館で元首相が渡し、他派閥には自分が届け、相手の秘書を介することは絶対になかった」と供述したという。

 採用された調書で榎本元秘書官は「元首相の参院選勝利にかける意気込みは悲壮で、5億円は元首相が当時の党総務局長と相談して参院選に使われたと思う」と供述していたが、具体的な使途は不明だった。

☆ 06年07月27日付『産経新聞』

ロッキード事件から30年… 三木氏、検事に捜査状況聞いていた

 ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されてから、27日で丸30年。当時の三木武夫首相が東京地検特捜部の同事件担当検事で渡米中だった堀田力氏(72)に「どのぐらいでケリが付くのか」と国際電話で捜査状況を問い合わせていたことが分かった。堀田氏が明らかにした。質問には回答しなかったという。現場の検事への照会は極めて異例で、事件解明に政治生命を懸けていた三木氏の執念をうかがわせる。三木氏や田中元首相ら事件関係者の多くは既に亡くなり、政治も検察も当時とは大きく様変わりしている。

 堀田氏によると、三木氏が国際電話をかけてきたのは、田中元首相が逮捕される約1カ月前の昭和51年6月。堀田氏は翌月6日から始まるコーチャン元ロ社副会長への嘱託尋問のため、米ロサンゼルスにいた。

 同年3月、堀田氏は事件の米側資料の受け取りに必要な司法共助協定締結に向け、当時法務省刑事局長の安原美穂氏(故人)とともに、官邸を訪問し、三木氏と会っていた。このときも三木氏は「起訴はいつできる」などと尋ねたという。

 三木氏はロ社の対日工作が同年2月に米上院で発覚後、フォード米大統領(当時)に親書を送り、資料公表への協力を要請するなど事件の真相究明に努めた。このため田中派に代表される自民党多数派が激しく反発し、政権維持が危ぶまれていた。

 田中元首相は逮捕、起訴後も脳梗塞こうそくで倒れるまでの約10年間、キングメーカーとして影響力を駆使。「二重権力構造」による政治はロ事件が端緒で、田中元首相死去後も続いたが、小泉政権の誕生で終わった。

 一方、特捜部は物証などから人と金のつながりを解明し、関係者の供述を得て「本丸」に挑んだロ事件の捜査手法を受け継ぎ、リクルート事件やゼネコン汚職などで国会議員らを立件した。

 しかし、最近はライブドア事件や村上ファンド事件など大型経済事件の摘発が目立ち、堀田氏は「時代の流れに応じて犯罪の態様も意味づけも変わる。政治資金も透明化しているし、利権に絡む典型的な汚職は減った」とみている。

ロッキードL1011(エルテンイレブン)トライスター

 ロッキード社が開発した翼に2発、後尾に1発、計3発のジェット旅客機で、最新のエレクトロニクスを屈指、エンジンの低騒音化に成功したが、ライバル機種DC-10との猛烈な販売合戦に敗北、さらにロッキード事件の発覚で、トライスターばかりか、ロッキード社自体が社会的に致命的なダメージをこうむり、結局、同社は、旅客機開発から撤退せざるを得なくなり、トライスターは、1983年に生産機数250機で生産を停止した。

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日付 2013/1 自サイト~ 
「ロッキード事件」はすでに歴史の風化した昭和の残滓として残っているだけで、その事件さえ風聞でしか知らないという世代が台頭している。戦争の惨状と同じくこれも語り継がなければアッと言う間に忘却の彼方へと霞んでしまう。とくにその思いを強くしたのは、そこに関った現役政治家が健在である時代に、そのことの真相を是非とも語って戴きたいと思案するし、また、自叙伝でもいいからその琴線部分を語ってもらいと切望する。
田中角栄の顧問大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)。日本の内務官僚、政治家。敗戦後は大日本政治会を母体とした政党・日本進歩党の結成に尽力する。大麻は町田忠治を党首に据えるため、自分が顧問を務めていた土建会社の若手経営者に政治資金の献金を懇願した。それが田中角栄である。しかし間もなく公職追放となる。公職追放解除後、同じく戦前民政党に属していた追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した。
ウィキペディア 

第36回 平成25年1月12日讀賣新聞 第2部戦後転換期(1965年~79年)「ロッキード事件 (下)」ロッキード事件で、東京地検特捜部は1976(昭和51)年7月、前首相・田中角栄を逮捕した。真相解明に政治生命をかけた首相・三木武夫に対し、自民党内では「三木為ろし」の旋風が吹き荒れた。田中は裁判で無罪を主張する一方、党内最大派閥を率いて「田中支配」といわれる体制を築いていく。(文中敬称略)

容疑者逮捕に備え、待機していた報道陣がカメラを向ける中、松田昇検事が降車した。続いて降り立ったのは田中角栄だった。
前首相の出頭に、報道陣は虚を突かれ、しんと静まりかえった。「白い時間だった」と、松田は振り返る。田中は一、二歩進んで「ヨッ」と片手を挙げた。一斉にシャッター音が鳴り始めた。2月に発覚したロッキード事件捜査は大詰めを迎えていた。特捜部は6月22日、丸紅前尊務の大久保利春を議院証言法違反(偽証)容疑で逮捕。7月に入ると、丸紅前専務の伊藤宏(偽証容疑)、全日空杜長の若狭得治(偽証、外国為替及ぴ外国貿易管理法違反容疑)、丸紅前会長の槍山広(外為法違反容疑)を逮捕した。
マスコミは「次は政府高官か」と、観測記事を書き立てていた。ときの法相、稲葉修は逮捕の前日、地元の新潟県村上市の自宅にいた。法務省刑事局長から電話が入り「明朝逮捕」を知る。三木首相には逮捕の日の朝、「検察が田中邸に向かっているころ、私が伝えた」と、後に語っている。松田は、田申逮捕の当日午前6時半、事務官3人と、東京・目自の田中邸に入った。「東京地検の松田です。ちょっと先生にお話があって参りました」。
応対した書生に名刺を差し出すと、応接室に通された。
しばらくして背広姿の田中が現れた。
「君が松田君かね。きょうはやけに早いね」。
そう語ると、田申は玄関に向かった。
田中の逮捕容疑は、法定手続きをとらずに、丸紅からロッキード社の資金5億円を受け取った外為法違反。東京地検で逮捕状が執行された。
田中は、自民党離党届と、田中派退会届を書いた。地検から東京拘置所に向かう車中で、田中が松田に言った。
「きょうの日は、オレは忘れられない日だ。松田君、君も忘れないでくれ」。

この日、地検特捜部は、榎本敏夫・元首相秘書官も外為法違反容疑で逮捕し、田中邸、砂防会館の田中事務所など5か所を捜索した。8月、橋本登美三郎・元運輪相や佐藤孝行・元運輸政務次官が、受託収賄容疑で逮捕された。
1977年1月21日、地検特捜部は小佐野賢治・国際興業社主を偽証で起訴し、捜査は事実上、終了した。ロッキード事件は法廷へと舞台を移す。「三木おろし」の一大旋風ロッキード事件の真相究明に対する三木の執念は凄まじかった。その前のめりの姿勢に、自民党内の不満は高まった。とくに自らの裁定で三木を政権の座に就けた党副総裁・椎名悦三郎は、「三木ははしゃぎすぎだ。いつから検事総長になったのか」と苛立ちを深めていた。1976(昭和51)年5月初め、椎名は、田中、福田赴夫副総理、大平正芳蔵相と個別に会談し、三木の早期退陣で一致した。13日付の読売新聞の特報で、これが明るみに出ると、三木は「真相解明に全力を挙げることが私に課せられた使命だ」と激しく反発した。反三木陣営は、三木が政権維持のために事件を利用しているとみていた。だが世論は「三木おろし」を「ロッキード隠し」と見て非難した。7月27日、田中が逮捕されると、沈静化していた三木おろしの動きが再び噴き出した。田中派の"三木憎し、の感情はもちろん、田中が逮捕された以上は、ロッキード隠しとの批判を恐れることはなくなっていた。挙党協の結成田中が保釈されて2日後の8月19日、反三木勢力は、挙党体制確立協議会(挙党協)を結成、田中、福田、大平、椎名、船田中、水田三喜男各派などの議員が結集した。24日には党所属議員の3分の2を超える271人が出席して両院議員総会を強行し、三木退陣へ圧力を強めた。福田、大平ら挙党協の閣僚15人も会合を開き、一致して行動することを確認した。三木を支えていたのは、三木、中曽根両派と少数の無派閥議員だけだった。しかし、三木はここから驚くべき粘り腰をみせる。三木は退陣要求を突っぱねる一方で臨時国会を召集して自らの手で衆院解散を行うことを企図する。
衆院議員の任期切れは12月に迫っていた。三木は8月24日、25日、両日、福田、大平と会談、国会召集に協力を求めたが、2人とも早期召集に反対の考えを示した。そこで三木が「あなた方は私に代われと言うが、私が辞めた後、とっちがやるのか」と問いただすと、福田と大平は「まだ決めていない」と答えるしかなかった。会談は不調に終わり、臨時国会召集は宙に浮いた。
だが赤字国債発行法案などの処理のため、国会はどのみち開かねばならなかった。(以下省略) (自サイト引用記事)

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ロッキード事件⑮…田中角栄無罪論 2009年3月23日 (月)

http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-6bf8.html


それは単なる過去の汚職事件ニュースなのか


私たちの世代にとっては、「ロッキード事件といえば田中角栄、田中角栄といえばロッキード事件」である。

田中角栄は、立花隆氏の追究によって、金権政治家のイメージが定着し、ロッキード事件がそのイメージを増幅した。しかし、既に30年余を過ぎた現時点で振り返ると、果たして田中角栄を、金権の一語で片づけてしまっていいものだろうか、という思いが湧いてくる。特に、西松建設献金問題等に関する検察の捜査を見ていると、ロッキード事件における検察捜査はどうだったのか、ということが気になるところである。
木村喜助という元田中角栄弁護人が著した『田中角栄消された真実』弘文堂(0202)という著書がある。
もともと自費出版として構想されていた著作が、弘文堂から『田中角栄の真実―弁護人から見たロッキード事件』(0009)として出版され、その読者からの「もっと知りたい」という要望に応えた増補版である。著者の木村氏は、「はじめに」で次のように書いている。
ロッキード事件は田中元総理大臣の金権イメージを定着させるものになってしまった。しかし、本書をお読みいただき、この事件が極めてあいまいであり、有罪判決が下されるような証拠はないということ、そして、田中元総理は知・情・意を兼ね備え、日本が決して失うべきではなかった大政治家であったということをおわかりいただけると幸甚である。
もちろん、田中元総理弁護人であるから、立場はアンチ検察で田中びいきにバイアスがかかっているはずである。しかし、裁判の経過も歴史的事象として捉えられるだけの時間的距離感を得たとも言えよう。

木村氏は、本文の冒頭で、次のように書く。

田中元総理は無罪であった。田中元総理が有罪となるような公正かつ厳然たる証拠はなかった。検察官が冒頭陳述や論告において主張した「総理の犯罪」の筋書きは、密室で無理に作られた検事調書を中心とした不自然極まりないものであった。どのような不自然な筋書きでも、それが真実であれば、なるほどと腑に落ちるものがある。
しかし、ロッキード事件は、不自然な部分は不自然なまま腑に落ちず、さまざまなこじつけで辻つまを合わせたものに過ぎない。裁判所はそのような検察の主張を鵜呑みにしたのである。証拠の取捨選択やその価値判断、事実認定の論理の進め方、被告人に有利な証拠の排斥の仕方、さらには嘱託尋問や内閣総理大臣の職務権限についての法律問題のとらえ方、ほとんどすべてがマスコミや検察の論理そのもの、あるいはそれ以上のものであった。
すなわち刑事裁判の基本となるべき、主尋問・反対尋問を十分に行った公判証言が軽んじられ、後記のように検事調書が不当に重視された。特に重要な証拠である嘱託尋問調書に関しては、法定手続の保障(憲法三一条)、被告人の反対尋問権の保障(憲法三七条)等において裁判所は慎重な配慮をしたとは到底いえないのである。
ここでは、嘱託尋問調書に絞って上掲書の主張を見てみよう。嘱託尋問調書の問題性については、既に09年3月15日の項で触れた。角栄の死後に最終結論が出た「丸紅ルート」の最高裁判決で、ロッキード社のコーチャンおよびクラッターへの嘱託尋問調書には「証拠能力がない」と判断されたのだった。
ロッキード事件は、その端緒がアメリカ上院の院外交委員会の多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)によるロッキード社の不正献金の発覚であった。すなわち、捜査のはじめには、米国からの資料(チャーチ委員会でのコーチャンらの証言等)が存在するだけだった。これらの資料の吟味のために、コーチャンらの取り調べが必要であったが、アメリカに出張した東京地検検事らは、コーチャンらに拒否されて、全く取り調べができなかった。
コーチャンらの証言の真偽の吟味ができない東京地検は、刑訴法上の起訴前の裁判官による証人尋問制度に名を借り、さらには検察官の持つ起訴猶予権を濫用し、アメリカの裁判所に証人尋問を嘱託して、コーチャンらに刑事免責を与えてその黙秘権を剥奪し(刑事免責を与えても証言しないと、そのことがアメリカの法律では罪となる)、証言させたのだった。それが、昭和51年5月22日付で東京地検検事から東京地裁裁判官宛に出された証人尋問請求書であり、刑訴法226条に基づき、コーチャン、クラッター及び他1名の証人尋問を請求するから、アメリカの裁判所に送って尋問を嘱託してもらいたい、というものであった。(記事引用)http://tamutamu2011.kuronowish.com/rokkido.htm


バイアスの問題は想像以上に根深く、AIが生み出す広大な世界に及んでいる。

現在人気を博しているAIモデルは米国企業が開発

以下記事 

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