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東京ディズニーランドは昔、海だった

racoco

そんなことを知っている令和の人間は数人だろうな、と感慨深く思ったりしてみた。

いやいや、昔はよかった回顧主義、そんなのではない。如何せん歴史というのは劇的にシフトするもので、一夜にして風景が変わる、というのは日常茶飯事のようです。

だから「東京ディズニーランドは昔、海だった」といっても他愛無い御伽噺だなんて、夢を語っている場合じゃなくて、その昔「浦安」は魚介類の宝庫として、その広大な干拓地を埋める国家事業は、「漁業権保証」で膨大な費用と時間を費やした。それはまったく「ダム建設」と同じで、既得利害関係者の争奪争いの修羅場だった。

まさに昭和30年代はそんな時代だった。

そうした時代に「加納久朗」(かのうひさあきら)(千葉県知事)は、政治の兆児として辣腕をふるった人物である。その系譜は、現政治家に継承され、先に挙げた一宮町憲章記念式典に、与党自民党の重鎮政治家が顔をだしていたことでも明らかだった。

■下記抜粋記事は、「ディズニーランドは砂上のロウカク?」
(自著ブログ)2016-03-01 06:29:48 を参考にしている

「夢の島」に夢が建つ、砂上のロウカク

ディズニーランドは砂上のロウカク? (加納久朗の活躍した時代)
その当事、千葉県知事であった加納久朗知事が、あたりの干拓地を埋めて大工業地帯にしようという構想がそれだった。加納久朗千葉県知事時代に『東京湾埋立による新東京建設提案』を遂行した。現在の東京湾千葉県海浜地帯の開発は、このときより始まっている。

50年前の稲毛海岸一帯は、蛤の潮干狩りのメッカであったことは、いまとなっては夢物語だ。「東京ディズニーランド」は、その上に立っている。

画像Ameba 埋立前の千葉市稲毛海岸の風景。!(^^)! | 千葉の歴史、名所、旧跡アドバイザー・尼木のブログ

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トップ画像 シネマトゥデイ東京ディズニーランド&シー|シネマトゥデイ

加納久朗『新しい首都建設』


 1962年(昭和37)から1963年(昭和38)にかけて千葉県知事をつとめた、加納久朗(かのう・ひさあきら、1886-1963)という人物がいる。
 父の加納久宜(かのう・ひさよし、1847-1919)は上総一宮藩1の最後の藩主で、のち子爵となり、鹿児島県知事(在任1894-1900)、一宮町長(在任1912-19)を歴任している。
 久朗自身は横浜正金銀行2のロンドン支店支配人、取締役などを歴任、戦後は日本住宅公団*3の初代総裁(在任1955-59)を経て、1962年(昭和37)の千葉県知事選挙に自民党の支援を経て立候補、現職の柴田等を破り当選。しかし、就任当時すでに70代の高齢ということもあり、在任わずか110日で急逝している。

※現在の千葉県長生郡一宮町を中心とした藩。 1880年から1946年まで存続した半官半民の外国為替専門銀行。現在の三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ。 現在の独立行政法人都市再生機構の前身のひとつ。

さて、その加納が1959年(昭和34)10月に時事通信社より上梓した、『新しい首都建設』という書がある。加納は、この前年に東京湾の大規模埋め立てによる新首都建設を提唱しており、本書はこの計画の解説書となっている。

まず、加納が提唱する埋め立て計画は次のようなものである。
まず、いまの晴海埠頭を頂点として、一方は千葉県の富津岬まで一直線に線をひいて、その内側、つまり千葉県寄りを全部埋立ててしまう、この埋立てによって二億四千三百〔万〕坪すなわち約八百三平方キロの土地が新たにできる。もう一方は同じく晴海から羽田岬まで直線を引いて、神奈川県寄りを埋立ててしまう、これで九百五十万坪約三十一平方キロの土地ができるから、両方合わせて、二億五千二百五十万坪すなわち約八百三十四平方キロの土地を新たに造成しうる計算になる。
これは現在の東京二十三区の面積一億七千五百万坪にたいして、実にその約一倍半の面積をつくることになるわけである。
つまり東京湾の東半分をすべて埋め立てるというプランなのである。そして、この埋立地に皇居を含め首都機能を移転し、新首都「ヤマト」4を建設する。また、富津岬附近に国際空港を設置する。水資源は利根川上流に沼田ダム5を建設し、さらに霞ヶ浦と印旛沼を貯水池化することによってまかなう。

(*4 )この呼び名については、次のような「ある人」の提案を受け入れたのだという。「〔「東京」という名は〕中国の真似である。こんどは新しく、民主的でかつ国際的な首都をつくるのだから、必ずしも「新東京」という名称に固執する必要はない。そこで日本本来の名称である「ヤマト」と呼ぶことにしたらどうか、というのである」)。 *5 群馬県沼田市一帯を日本最大級の巨大ダム湖とする構想。建設省関東地方建設局の正式な事業であったが、地元の猛反対により1972年(昭和47)に白紙撤回された。
(※東京ディズニーランド、という呼称は、こんなところが起点かもしれない。根拠のない推察、筆者)

「原油価格サウジアラビアの動向」で石油相場の原因を突き止めて、結果的にそれは『日本軍満洲大慶油田』まで話しが行ってしまった。(2016-03-01 06:29:48  現在記事)

ついで、といってはなんだが、この際だから、もっともっと突っ込んで掘り下げてしまおう。そうすることで石油価格、しいては日本の資源について、さらに50年先の「日本の国に人がいなくなった」時を想定して、諸々を考えてみようと思う。

余談だか~、こんなことを考えた。それは昨晩の「夢の中」だった。
「なんにも手を打たないと50年後の日本人口は8000万人だよ~」、という「降臨神」のお告げだが、そんな社会インフラだったら、いま実験中のタクシー「自動運転テスト」なんてダサい施策で、そんなの必要ないんじゃないのと、「降臨神」に相談してみたが。

ということは、政府規模として現在の66%人口想定の政府があればいいわけだ。単純に計算して34%の国家予算が削減できる。大変な金額だ。もちろん、いま考えられるあらゆるケースを、そこに注入しての想定数だ。

昨日の石油価格の上下予想記事で、プロでも把握できないのだから、50年後の「何々はこうであろう」という推定は通用しない。
と知りつつ、古来、ギリシア哲学の教えに従い「経験的観測」というのがあり、人間の日々日常から導かれる物理現象を、他のケースに当てはめてみるという手法だ。

判りやすい例で「コペルニクス的転換」という考え方であり、ものの見方を相対的に観測する。
コペルニクスで思い出すのが、「ニュートン」秘話で、ニュートンは中世の錬金術の研究をしていたという話しを本で読んだ。
錬金術というとエセ非科学世界を連想しがちだが、その時代は、元素周期表(1869年ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ)はまだ判っておらず、金を合成によって錬金するという未知の分野を開拓していた。(スタップ細胞みたいな?)
また「相対性理論」という理論革命はアンイシュタインの功績だが、その前にニュートンが発表していて、その計算方法は、アインシュタインのものよりわかり易い、という科学者の評があるほどだ。

34%国家予算削減の話し~

人口8000万と云ったら、地方田舎ではおそらく近隣町村の一つ二つが消えてなくなっている。(喩えは適切でないが3.11被災地による町・村の消滅)

その跡地は、予算的に整理されないまま放置されるだろう。そこに移住者の新規参入地として提供。(人口が減っても工業生産は維持する)そのためには海外移住者導入を国是としなければ、国家そのものが成り立たない。

古代日本の「唐」また大和王権時代の「舎人」という先進職業集団の移住があったことを考えれば、まったく新しい試みというわけではない。

※舎人(とねり・しゃじん)とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職。ヤマト王権時代には既に存在した名代の一つであり、「トネ」(刀禰、刀祢、利根、刀根、登根、戸根などとも)に起源を同じくする。

大王の身の回りの世話を受け持つ舎人は、古くは川や船など水運に関わる従事を指したと考えられ、このことは「トネ」に由来する地名が河川や港浦を中心に分布することから示唆される。これに「人」を表す「リ」が付き「トネリ」として一般化し、靱負(ゆげい)、采女(うねめ)、膳夫(かしわで)と並んで、大王の側近を意味した。なおこの語の用法は『古事記』にしか見られない。

やがて氏姓が始まると、東国を中心に国造などにこのトネを冠した「等禰直」「舎人直」などの人名としても見え始め、さらにはこうした大王の側近や有力な世襲豪族には御名入部(みないりべ)である「舎人部」(舎人に近侍する下級役人)を持ちはじめ、舎人直 ― 舎人 ― 舎人部 という階層関係がみられた。

これらの舎人は天皇に貢進もされ、新たに舎人として近侍した。

天武天皇の673年(白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まるが、新たに八色の姓が置かれても天皇に近い有力貴族を表す「舎人」の語は残り、律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。

原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子からも補われた。この他にも兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官的な舎人も存在した。この他に公的な舎人を支給されない皇族や貴族の私的な舎人として帳内・資人が設置され、その家政機関に従事した。

舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。

こうした律令の支配が地方へも及んだことは、出雲国風土記で意宇郡に舎人郷(現;島根県安来市)の地名が見られることからも類推される。だが、平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。

なお、本居宣長は『古事記伝』の中で、「とのはべり(殿侍)」という語が変化して「とねり(舎人)」という語が発生したと推測しているが、殿は平安期以降に一般化した貴人への敬称で、律令以前から存在していた舎人には当てはまらない。
(資料ウィキぺデア)

その「舎人」的移住民を過疎(無人化した町・村)に入植させる。当然、それらを律するには細かな法律がいる。

この法律は、基本的、根本的に換える必要がある。といっても今騒いでいる「9条部分変更」というミクロではなく、コペルニクス的に大変革する必要がある。それをどう換えるのかといったら、「政府・内閣」という物理的「箱」を解体してしまう。一口でいって「概念上」の政府であり、もっと簡略化するとバーチャル的政府だ。

総ての機能を、パソコンに封じこめて、法律は「マニュアル」条文によって記述する。現在でも、内閣府通達の手紙類はPDFファイルで配布閲覧している。

そこで一番問題になるのは、表記字文章の解釈だ。
例えば、筆記具1本にしてもぺん・ボールペン・万年筆(国産メーカー別)、筆ぺン、マジックペンなど、挙げたらきりがない。しかし、それを特定したカタチのものとして指定するには、きっちり分類する必要がある。
そうした方法論を文書化して、パソコンに展開網羅する。当然セキュリティーは完璧にする必要があるが、古文書例のように紀元前の文献であっても、多数の記述者、また記述書(古事記など)が、そこいらじゅうに拡散していれば、ハッカーたちもそれに対応する必要があり、それは数人で処理できるものではない。という方法論を編み出して対抗する。

これは50年先の夢であり、まだまだ時間はたっぷりある。だから、おいおい、ここでも書き足したい。

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「原油価格サウジアラビアの動向」より

戦前の石油生成に関しては大正11年に発表された東北帝大の高橋純一助教授(当時)の海底腐泥起源説が有力でした。
「石油とはかつて海だった底に泥とともに堆積した藻類やプランクトンの遺骸中の有機物が重合して形成された油母と呼ばれる複雑な高分子が、地熱の作用を受けて分解してできたものであり、油母は地殻変動で地層が波状にたわんで出来た背斜とよばれる波状の頂部にたまる」(石井正紀著、陸軍燃料廠 より)
そこから理論的に導かれる結論は、「石油は沿岸部・海底等の第三紀背斜構造にしか存在せず、中国大陸には存在しない」というものになり、これは当時の地質学関係者の一般常識になっていた。
(出光オイルアンドガス開発株式会社 取締役副社長 美谷島氏)

ギリシア神話がどうして地中海か。
トルコイスターブールのモスクがどうして青タイルで覆われ、建築家「シナン」が手がけた訳は。
またそれら教会建物のキリスト様式とイスラム様式が混ざっているのはなぜか、という難題解明とおなじくらい厄介な原因が潜んでいる。

など今日に至る歴史を語るとき、そこに隠された訳を説明すると、神話世界までに到達してしまう。

一本の糸が、たとえ100キロメートルのながさであっても、整然と巻かれていたら問題ないが、全部を解いて箱の中に放り投げたら1本か100本かの判別が出来ない。2000年の歴史5000年の歴史というものは、そのようなスタイルをしていると思われる。

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宝探しの石油資源宝庫
満州ニ油田アリ 
1929年に世界的に広がった不景気により日本も深刻的な打撃を受けた。この状況を打開するために軍部の一部に満州を植民地化して危機を逃れようとする動きが強まった。一方、中国では21ヵ条の要求以来、排日運動が益々高まっていた。
こうした情勢の中、1931年9月18日、関東軍の謀略で行なわれた柳条湖の南満州鉄道爆破を口実にして満州事変が勃発した。日本政府の戦争不拡大方針を無視する形で、関東軍は戦線を広げ、たった5ヶ月間で満州全域を占領した。
日本国民はこの事変を熱狂的に支持し、日本政府もアメリカ・イギリスとの軍事衝突に発展しないと判ると徐々に追認していった。関東軍は翌年の1932年3月1日に清国最後の皇帝溥儀を執政に迎え都を新京に定めて満州国建国を宣言させ、日本の傀儡国家とした。
中国の訴えで国際連盟はリットン調査団を派遣して調査させると鉄道爆破は関東軍の仕業であると判明し、その報告を受けて国際連盟は、日本軍の満州からの即時撤退を通告した。満州事変以降、軍令部からの圧力をはね除けられなくなった日本政府は、満州からの即時撤退に応じられるはずもなく、1933年国際連盟を脱退すると対中国戦に邁進していった。
1938年友好国中国に対して日本が本格的な戦闘を拡大し出すと、アメリカは対日戦略プログラムである「新オレンジ計画」を実行に移していった。 その第一弾として翌年、日米通商航海条約破棄を通告してきた。石油・鉄屑・工作機械等の戦略物資の輸出規制を行い始めた。
これらの物資は、日本の依存度が6割を越えていて、特に石油に関しては8割近くをアメリカに頼っていた。特に陸軍は大陸での戦闘継続のためには大量の石油が不可欠なのは判っていたが、それを手に入れるためには大陸から手を引かねばならぬという二律背反に陥っていた。
海軍でも以前から、アメリカ以外の国から、できれば自国の勢力圏内に、独自の油田を欲していたが、ことごとくアメリカの横やりで、メキシコやサウジアラビア等の産油国との取引はできなかった。国内での開発も北海道や新潟等からわずかな量が産出されていただけであった。
そんな状況を打開しようと海軍では、石炭から石油を造り出す人造石油造りの研究を大正時代から始めていた。
人造石油とは、石炭を液化してそれに水素を添加することによって得られる方法やガス化した上で触媒により石油を合成する方法などがあった。この技術は、同じく石油資源の乏しかったドイツが技術的に進んでいた。 陸軍でも1938年にようやく燃料としての石油に着目し始め翌年になって陸軍燃料廠が設立された。これは海軍から20年も遅れてのものであった。
陸軍でも人造石油の研究やハイオクタン化ガソリンの開発などを始めて、民間企業や学会などから技術者・研究者を国家総動員法を適用して集めた。また広大な満州の大地を掘削して油田の発見に当たるために作井部隊を集めて満州各地に向かわせた。
古文書や土地の伝承などを手がかりに雲を掴むような作業であったが、1940年ついに黒竜江省安達県ゴルロス後旗バルガソムで大油田を発見した。
しかしこの油田発見は、満州に勢力を伸ばしたかったソ連を刺激するには充分であった。前年の5月にノモンハンにて激闘を展開した両国は、お互いの国境に大軍を張り付かせていたが、油田発見の情報により緊張は一層高まっていった。
アメリカ国内でも「日本が石油権益を得ることはとても危険な事である」との世論ができつつあり、このまま野放しにしておくとヨーロッパを席巻しているドイツとアジアを征服した日本により、手に負えなくなると感じていたルーズベルト大統領は、スターリンに密使を送り、対日戦争を働きかけた。満州の権益を欲したスターリンは了解して1941年12月8日に大軍を南下させた。
ルーズベルトも太平洋艦隊に対し出撃を命じた。二つの大国から宣戦布告された大日本帝国は未曾有の危機を迎えた。皇国の興廃を懸けた戦いが始まろうとしていた。(記事引用)

戦前日本と石油 
灯台下暗し 満州にも石油あった。
書庫戦前日本(大日本帝国)と石油2010/4/13(火) 午後 10:38 http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/61169650.html

陸軍の関東軍作戦参謀石原莞爾中佐はは昭和6年(1931 年)満洲事変を起こし満州帝国を創出しました。首謀者の石原中佐や板垣大佐ら関東軍の参謀がは勝手に満州事変というクーデターを独断で行ったようにもいわれますが、彼らを後押しする軍人や官僚が日本国内にも多く存在したようです。
石原莞爾は事前の地質調査等で満州に石油は存在しないという情報を握りつぶしつつも、日本国内の大物有力者らには「満州にも石油はある」と嘯き満州事変への協力を取付けたようです。
尚、満州事変後のの石原莞爾は超有名人で指揮者小澤征爾の「爾」など莞爾を真似た名前まで流行しました。現代でも石原莞爾を英雄視する向きがありますが明らかな「嘘データ」を流し勉強不足の政治家を誘導する図式は戦後いや現代の官僚にも受け継がれていますね。
満州国建国後、日本から数多くの石油開発技術者が満州に渡り、大規模な油田の試掘調査を行いましたが石原莞爾の内心の読み通り満州からは油田は発見されませんでした。
この1930年当時満州国のあちこちで油田探しを行いましたが、「日本石油」が技術指導(支援)を行っていたそうですが米国製の最新機器を導入済みであった「日本鉱業」が支援を行っていたら油田を発見できていたかもしれないそうです。日本は米国の探査技術に頼ると満州の石油利権に目をつけられる事を嫌がり秘密裏に試掘を行いました。米国に頼んでも、普通のライセンス金額じゃ日本の満州での石油掘りに協力する気は無かったでしょうし、逆に日本が石油を手にしたことで石油以外のクズ鉄やレアメタルの禁輸が早まったかもしれませんが。
その後昭和15年以降になると満州から石油技術者達と試掘機器は南方の蘭印石油の攻略準備研究の為日本に帰還したり仏印(ベトナム)に進駐し満州から姿を消したのでした。
その後日本は支那事変、米英との開戦へとすすみ緒戦の快勝で予想以上に速く「南進」に成功を収めます。石油技術者達も蘭印の油田占領、油田確保や製錬所の修理などに大活躍しますが石油技術者の多くが挙って「南進」したため満州の石油探査は中止されたまま1945年日本は敗戦というかたちで終戦を迎えたのでした。

太平洋戦争が終わった14年後の1959年、突如中華人民共和国黒竜江省の大慶で大油田が発見され中国共産党関係者は大喜びし日本の旧満州ににた岸信介ら戦前満州で権勢を振るった新官僚や戦後に生き残った石油関係者らは驚愕し落胆、大いに失望したのでありました。
この大慶油田はその後中国国内では最大級の油田に発展し1970年代から今日まで主力油田として中国の軍事経済を支える原動力となりました。大慶油田も21世紀に入り退潮期に以降したとも伝えられますが2007年度4000万キロリットル(以下kl)以上も原油を汲みあげたそうです。
ちなみに戦前日本の年間の石油消費量は大雑把に年500万klでした。この500万klの石油も9割以上が輸入石油で石油を買うために日本は生糸をはじめ単価の安い繊維製品を輸出し続けて石油購買用に外貨を獲得する必要があったのです。
つまり石油生産者になれない日本だったから戦前は貧乏国家に終始したのでした。日本の新官僚や秀才参謀(統制主義者)らは馬鹿にしていたソ連の「第二次5ヵ年計画は凄い」とか「共産主義は恐ろしいが侮れない」などと変な影響を受けてしまいますが、実際はバクー油田の石油を海外に売ったりウクライナの食料を(飢餓輸出)して外貨を稼ぎ出し軍備増強に当て込んでいたのでした。
戦前日本も北樺太の油田の利権ほしさにソビエトを1925年国家として承認してしまったのですが。
でも?そうです、もし戦前日本が大慶油田を堀当てていれば戦争や事変・紛争に頼った勢力拡大を図る必要もなく米国や英国とも戦う必然性もなく史実とは変わった「優雅な戦前日本」となっていたのかもしれません。
大慶油田については戦前の日本の技術ではでは試掘に成功しても大深度で汲出しは無理だったとか石油の質が悪く日本の精製技術では無理だったとかいう負け惜しみ専門家もいるようですが油田を確保・管掌できる優越感と昭和16年夏の米国の石油禁輸で尻に火がついて敗亡へと進んだ日本を比較すると当然に大慶油田は戦前日本が(満州建国問題)を横においても掘り当て利権とすべき大油田であったと思えてくるのです。(記事引用)

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racoco
サルトルの自・問・自・答。エマール・サルトルは、フランスの哲学者、小説家、劇作家。右目に強度の斜視があり、1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物である。実存主義は無神論的実存主義を唱える。