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ムービーとYouTubeの長所短所の優劣

エンタメ映画~のニュースをサッと書いてみたのが一昨日で、昨日は未成年少女と性交セックスした、という社会二ュースを書いてみた。

いずれも、ふだんの生活の中の出来事で、連日流されると、なにも感じなくなってそれが既成化するのは自覚しないが、考えてみれば麻薬拘泥のような常習性を帯びてしまうと、いつの間にか常習者となって「戻れない」人間になってしまうのはいくらでもある。

その映画「ブレッド・トレイン」で主役の「ブラッド・ピット」だが、烈々なファンも幾多もいて、それをブラピと称する。まあまあ、昔からある業界スラングみたいなもので、逆さにするとか、端折って短かくるするとか、専門用語を駆使して、他との分別を図っていいい気になる、というのは一度や二度経験したとおもう。
昨今、そのスピードが速くて、おちおち、そこに留まっていられないという嘆きもあるようだ。

その最たるものがネット動画YouTubeになっていて、ひところ小学生垂涎の職業がYouTuberと訊くが、それこそ、今のご時世で、それを口にする子供はいなくなった。やっぱり「ドバイ」が祟ったか。

最近のテレビは、「山岳秘境」じゃないと魅力がないようで、チベットとかモンゴルとか、アフガン、中国少数民族部落とか、長尺番組でやっているが、そこで暮らす子供たちの姿が、出てくる。

そこで決まったように、「将来何になりたい」、という大人の質問に、「お医者さん」と答える。けっしてYouTuberとは云わない。

勿論、それがなんであるか知る由もないし、そんなインフラが整っている生活環境があるわけでもない。だから、必然的にそんな僻地で疫病に罹患する家族が、病にたおれて死んでしまうことが「日常」なんだと想像される。だから彼らの将来の職業は、決まって「お医者さん」になる、という。とても崇高な意識なのだ。

洋画と邦画、どちらが好きですか、という二者択一
さて映画の話ですが、「ブレッド・トレイン」はすでに始まっていて、その評価は上々のようで、難を云えば、「フジヤマ、ゲイシャ」が完全に抜け切れていない、というコメントもちらほらあった。

それを云ったら「西部劇」にしたって、ロケーションは変わっていても昔ながらの勧善懲悪スタイルは、そのままで、今どきの「スーパーマン」典型で、観客はそれで留飲を下げるのです。

そして一方のー「邦画」はどうかというと、これがまた、ヌルヌルベタベタした「ぬめり感」とお肌にピッタリプルンプルン処女心地、など、誇大広告をサラリと流すあの手この手は、さすがに健在で、その宝庫が「万引き家族」で賞を取った、というお墨付きと感じましたが、皆さんはどう思ったでしょうか。

その昔「雨月物語」という世にも稀な映画が上映されました。もち論、その現場の映画を観たわけではなく、「テレビシネマ」で上映した白黒(現物)映画でした。

その当時は大スタジオ建物がなかったせいか、殆ど現場ロケ撮影のようで、その背景を見ているだけで時代の空気が漂い、タイムスリップしたような心地でした。
その筋書きは、ある百姓が、焼き物を焼いていて、それを都で売っていた折、高貴な貴族女性に認められ、焼き物を自宅まで配達するようにと賜った。誘われるままに、その自宅にたどり着くと、自分の暮らしとは全く別次元の生活インフラに耽溺して、すっかりその気になってしまった、という「夢物語りお伽ばなし」でした。
それは安部公房の「砂の女」によく似ていて、また世界共通の民話プロットにも近く、「見てはいけない世界」を貧民が夢をみるという定型ですが、さすがに筋がよく書けていて、そこで焼いていたのが「砥部焼」(とべ)でした。

詳細は下記にあります。

砥部焼と「雨月物語」

雨月物語 (映画) - Wikipediahttps://ja.wikipedia.org › wiki › 雨月物語_(映画)

『雨月物語』(うげつものがたり)は、1953年(昭和28年)3月26日公開の日本映画である。大映製作・配給。監督は溝口健二、主演は森雅之、京マチ子。

音楽: 早坂文雄
製作会社: 大映京都撮影所 出演者: 京マチ子; ‎森雅之‎; ‎水戸光子‎; ‎田中絹代‎


砥部焼 (とべやき) 砥部焼は、愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器である。一般には、食器、花器等が多い。愛媛県指定無形文化財。 後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げた。 やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。 ウィキペディア

日本の「砥部」焼陶芸は芸術か!?

一昨年より役場仕様の「陶芸教室」に席をおいて2年間、焼き物いろはの「い」程度を学んだ。所詮、素人だし片手間だし、暇な間、といっても結構雑事があって、休んだりした。それでも2年間を消化した。それで焼き物の概要は理解した。好色だして、釜をネットで買ってしまおうかと考えたが、家族に反対されそうでやめた。そんな繰り返しを何回もしているので、これはダメだろう、という判断はできる。

そんなことで陶芸作品にはことのほか興味を惹かれる。この世界、奥が深いが、深すぎてなにも見えない、というのが実情か。

古い映画で「雨月物語」という名作がある。詳しくは別項目にて編集したのでそちらを参照。(雨月物語)

雨月物語
上田秋成は、明和3年(1766年)に処女作である『諸道聴耳世間猿』(『諸道聴耳世間狙』)を、明和4年に浮世草子の『世間妾形気』を書いた。そして、『雨月物語』の序には「明和戊子晩春」とあり、明和5年晩春に『雨月物語』の執筆が終わっていたことになる。しかし実際に『雨月物語』が刊行されたのは、その8年後の安永5年(1776年)のことであった。

『雨月物語』という題は、どこからきたのだろうか。秋成自身の序文には、書下すと「雨は霽れ月朦朧の夜、窓下に編成し、以て梓氏に畀ふ。
題して雨月物語と云ふ」という一文があり、雨がやんで月がおぼろに見える夜に編成したため、ということが書いてある。物語中、怪異が現れる場面の前触れとして、雨や月のある情景が積極的に用いられていることにも注意したい。

そこに主題の人物として陶工が出てくる。

「吉備津の釜」冒頭の妬婦論は、『五雑俎』(五雑組とも)巻八による。吉備国賀夜郡庭妹(現在の岡山市北区 (岡山市)庭瀬)に、井沢正太夫というひとがいた。
この息子の正太郎というのは、色欲の強い男で、父が止めるのも聞かず、遊び歩いていた。そこで、嫁を迎えて身持ちを固めさせようと、吉備津神社の神主、香央造酒の娘と縁組がまとめられた。

幸を祈るために、御釜祓いをすることとなった。これは、釜のお湯が沸きあがるときに、牛が吼えるような音が出たら吉、音が出なかったときは凶、となっていた。はたして、全くなんの音もでなかったので、この婚姻は凶と判断された。
このことを香央が自分の妻に伝えると、先方も娘も心待ちにしているのに、この様な不吉なことを公表すれば、どうなるかわからない、ふたりが結婚するのは変えられない、と言い、そのまま縁組は進められた。

この嫁に来た磯良というのは、大変できた女で、家に良く仕え、非の打ち所がなかった。正太郎も磯良のことをよく思っていた。しかし、いつのころからか、外に袖という遊女の愛人をつくり、これとなじみになって、家に帰らなくなった。井沢の父は、全く行動を改めない正太郎を一室に閉じ込めた。磯良は厚く正太郎を世話したが、逆に正太郎は磯良を騙し、金を奪って逐電してしまった。磯良はこのあまりの仕打ちに病気で寝込むようになり、日に日に衰えていった。(※筆者注 東アジア一帯に伝承される民話婚姻譚の筋書きと同質)

これが物語りの白日夢を展開する映画となっている。時代が時代だけに、すべての映画インフラが一昔前の方法。1953年製作の日本映画。監督溝口健二。「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編を川口松太郎と依田義賢が脚色した。

出演は京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄など。舞台は近江国と京に設定されている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。また、スタッフも文部省芸術選奨を、そしてエディンバラ映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞を受賞した。 (ウイキペディア)

使われたBGMが雅楽篳篥には驚いた。だからまったく映像とあっていない。たぶん、その映画をみた今の人でさえ、それが「雅楽」であるということも認識できていないはずだ。けだし、の如し。

そんなことが脳裏にあって、最近テレビで砥部焼きを紹介していた。

NHK-BSプレミアムとEテレで放映されている、日本の伝統工芸などを紹介する人気番組「イッピン」にて、『ぽってりやさしい 家族の器~愛媛 砥部焼』として砥部焼が紹介された。また冒頭では、東京・自由が丘店の様子が紹介。

その中継が「柳宗悦」であることも触れていた。この「日本民芸館」は3年前に見学しているので、私はすでに知っていたのである。東京駒場東大前リサーチキャンパス(京王井の頭線)にあって、閑静な住宅地の中にあった。土地柄、江戸時代の官舎敷地ではなかろうかとおもえるたたずまいだった。

そこで民芸復興の第一人者「柳宗悦」のことについてすこし書いておこう。

柳宗悦 日本民藝館

 日本を代表する思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)は、1889年に現在の東京都港区で生まれる。1910年、学習院高等科卒業の頃に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。宗教哲学や西洋近代美術などに深い関心を持っていた柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業する。
その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任。以後1961年に72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集の旅、旺盛な執筆活動などを展開していった。晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれた

公益財団法人 日本民芸館
〒153-0041 東京都目黒区駒場4-3-33 交通案内
Tel. 03-3467-4527 Fax. 03-3467-4537

「柳宗悦と砥部焼」

昭和28年、民芸運動の推進者柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司らが砥部を訪れ、機械化されている他の産地に比べ、手仕事の技術が残っていることを高く評価しました。また、昭和31年には陶芸家の富本憲吉(文化勲章受賞)も訪れ、砥部焼の近代的デザインを後押しします。

それに刺激され、若手陶工を中心に手作りの良さを生かすべく、ロクロや絵付け等の技法向上に取り組みます。研究会を作ったり展示会を開いたりして腕を磨きました。

砥部焼(とべやき)は、愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器である。一般には、食器、花器等が多い。愛媛県指定無形文化財。

後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げた。

やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。 他窯の磁器と比較して頑丈で重量感があり、ひびや欠けが入りにくいため道具としての評価が高い。

夫婦喧嘩で投げつけても割れないという話から、別名喧嘩器とも呼ばれる。 砥部焼の多くは手作り成形のため、全国的に見ても決して大産地や有名産地ではないが、独特の風合いが愛好家に評価されている。讃岐うどんの器としても砥部焼はよく用いられる。

映画『瀬戸内海賊物語』(砥部町出身の大森研一が監督)においては、重要なシーンのアイテムとして砥部焼が用いられた。



ウイキペディア


「山椒房」 砥部焼き販売店   八千代市ナビ!

所在地: 〒276-0020 千葉県八千代市勝田台北2丁目4-5
5 年前に訪問した場所です。

https://mobile.twitter.com/sansyoubou

gpi-group.co.jp/sansyoubou/

note~通知 2000回達成おめでとうございます! 2022/1017


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