見出し画像

歴史に目覚めて

わからない、ワカンナイ、はどこの何がわかんないのか、その魔訶不思議?


村田沙耶香著「コンビニ人間」 2016年の『コンビニ人間』から約7年経過。

一昨日、その記事を書いて、今度は「北一輝」を書こうと目論んでいますが、果たして若い世代の人に、1936年2月26日(昭和11年)に起きた事件のことを訴えて、どこまで共感してもらえるか判りません。

そのどこまでが、判るのかという問いには二つあって、物事の組みたて方と構造の物理的なモノと、その前者の人間心理の心のひだ、仮に男女の心理など、有形無形に分けられるようです。

これから先の話は、ガチ日本国歴史のはなしですから、大別すると物理てき要因ですが、そこに出るキャストが主体になるので、やはり人間心理の描写ということです。

「コンビニ人間」は、もろに今日的な話題で、昨今、若年層必須の生活アイテムで、消費と労働(アルバイト)の二面性をもっているというタイトな場面設定で、云ってみればテレビドラマの「スタジオセット」のような軽易な生活空間を醸していて、それがそのまま小説タイトルになったという、キャッチコピーでした。やはり、そのセンスが大衆に受けたのでしよう。

翻って「北一輝」という固有名詞は、おそらく若い人だったら誰も知らない、というキャラで、おまけに何した人なの、という疑心の対象でしょう。端折って云えば1936年2月26日に起きた日本歴史のターニングポイント事件で、おそらく入試に出題されるような大きな事件でありました。

もっと簡単に云うとビートルズが歌った曲"イエスタディ"が教科書に載って、身近に感じることができますが、2.26事件の首謀者、といっても皆目わからない、というでしょう。だから試験の問い問題になる。そして知らないことを知る、それが勉強で、はたまた歴史の動きを知ることで、大袈裟な云い方ですとアイデンティティーを知る、ということなんでしょう。

ですから話し自体を読んでいるだけですと、面白くないし飽きますが、人物の個性を覗くと、結構好奇心が沸いて面白い。そんな描写で「北一輝」を解説しましよう。
これらの内容は、私的には何度も書いているので、中抜けしてしまうこともありますが、ワカラナイ部分は、そのまま飛ばして読んだ方が進捗が進みます。

「北一輝」は、立場的にフリーで、言論界において突出した思想感を持っていたことが「国家」にとって邪魔な存在として映っていたことが、すべての始まりでした。

二.二六事件 全貌(1936年2月26日).2 (2019年8月15日 20:32自著note記事引用)

この時間19:30分、予定通りNHKスペシャル番組が始まる。それに先立ち、ここでは2.26事件の全容を私の資料をもとに書き記した。

その記事を読んで 北里明日香さんが鋭い指摘を言及されたので、ここでは、それに応えるべく、再度拙著記事を引用しながら解説する。

この2.26事件については、「齋藤實」元首相兼軍幹部について詳細にあたった経緯があり、資料もそろっていた。

北里明日香さんの指摘では、齋藤と同じく元首相兼軍幹部であった「高橋是清」がキーマンと言及したが、私はそうではなく「齋藤實」こそその主要人物であったと遮った。

■コメントに対する私の返信 (北里明日香さん、とは当時note会員であった人で、私の記事に多方面からアドバイスをもらっていた。今は退会している)

ありがたいご指摘、こちらもやる気になります。まず時間がありましたら今晩8月15日19.30分NHKスペシャル番組をみて、再度読んでいただくとより鮮明になると思います。事件のキーマンは通年上の「高橋是清」としておますが、私が当てたスポットは「斎藤実」です。

この人物、暗殺さるという情報を知っていた(海軍部トップシークレット情報)、という歴史の陰部がある。そうなると2.26事件は青年将校だけの画策ではないことを語っている。そんなことは歴史学者も指摘していない。だからワクワクしてしまう。この続編は記事として書きますので、そちらに席を移してください。番組が終ったころ書き上がる予定です。なお指摘の誤字とは年代換算の読み違いで10年経過したら、という意味です。

■北里明日香さんが送ってきたコメント

北里明日香(Kitazato Asuka)2019/08/15 17:23
読みました。なかなか扱いにくい要素ですし、終戦記念日からの「2.26事件」とは、ということ。歴史の話なのですが、難しいお話と思われます。
私がざっと読んでみたところ、キーマンは「高橋是清」ではないでしょうか。
金融政策や経済政策は、昭和金融恐慌をモラトリアムで終息させた人です。
「2.26事件」の本質や、背景や、様々な当時のことを加味すると、ある程度の知識を持っていないとわからないこともあるだろうと思います。

「皇紀2679年」ですね。日本会議さんと関係あるのでしょうかね。
ここまで掘り下げると、日本神話の「イザナミ」や「カクヅチ」のオカルト的話になります。ここ最近のTVを賑わせる令和からの大事件は、解明するわけですが如何せん、Evidence(証拠)がありません。ーーー

※この「皇紀2679年」について、北里明日香さんは日本会議に言及してますが、それはまったくおかど違いで、皇紀は「古事記」「日本書紀」に記されており、学識的にも「神代の世界」を記録した正統的伝記ものとして知られている年代記であり、旧暦やグレゴリオ暦と同様の日数カウントとして認識すべきでしょう。

という内容でした。ま、若い20代女性がここまで事件内容を掌握理解しているタイプは稀で、日本に数名しかいないでしょう。

そのことは、これまで2.26事件については正確な情報と、それを報道すべきメディアが及び腰であり、また国民は表立って、それを声高にアピールすることもなかった。そのことがこの事件の不可解さを倍増し、さらに「闇に葬る」という歴史的にも「稲荷様」に触るな、という不文律を触れまわし封印した様子が伺える。
そのことは私が以前より注目していた「齋藤實」について調べていた資料を考察すると判ることで、この度の事件も、それに沿って記事にしたもので、ここでは、それを参考として読んでみましょう。

北一輝とは誰か?

2.26事件のシナリオライター「北 一輝」

2.26事件 戒厳令下の警備 『国際写真情報』第15巻第4号所収

昭和11(1936)年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が所属部隊から約1,400人の兵を率いて首相官邸等を襲撃し、内大臣斎藤実・蔵相高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害、政治・軍事の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠した。

この史料は、同日に宮中で開かれた非公式の軍事参議官会議で、決起将校達に同情的な荒木貞夫・真崎甚三郎などにより鎮撫・原隊復帰を目的として作成され、決起将校達に伝達されたものであるが、途中で字句が変わるなど、混乱を招いた。事態は決起将校達に一時的に有利に動くように見えたが、天皇が断固たる討伐の意思を示して事態は一転鎮圧へと向かい、29日に終息した。

北 一輝(きたいっき、本名:北 輝次郎〈きた てるじろう〉、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。

右目は義眼であったが、数少ないその肖像写真からも分かるように容貌眉目秀麗であり、二・二六事件後の軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べている。日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。裁判では、青年将校たちの決起については自分は関係がないことを主張しながらも、青年将校たちに与えた自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。

それは「明治維新」にさかのぼる
この2.26事件に直接かかわった人物ではないが、日本軍部に多大な足跡と影響をもたらした軍人「山縣有朋」が金字塔のように燦然と輝いている。これまでの国家戦争スタイルの骨格シナリオを策定した人物として注目されていた。
ヨーロッパ諸国が君主政治から民主政治に移行する狭間の時期、日本もそれに同調して世界情勢を睨んでいた。そこにフランスとプロイセンのいざこざが勃発して、それがやがて世界戦争に向かうという世界戦争殺戮史が展開する。そこにいたのが「山縣有朋」だった。

戻り記事 「NHKテレビスペシャル」

政府要人を殺害した「二・二六事件」について、事件の発生から収束までの4日間を分単位で記録した極秘文書が残されていたことがNHKの取材でわかりました。
当時、海軍が記録したもので、青年将校と軍幹部の動きややり取りなどが細かく記されており、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。
事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

専門家「重要な部分を埋める資料」

軍事史に詳しい大和ミュージアムの館長、戸高一成さんは、「二・二六事件は軍人によるクーデターだが、陸海軍という2つの大きな組織のなかの陸軍サイドのみがほとんど見られて、海軍側の資料がなかった。

今回資料が発見されたことで海軍が事件のかなり大きな要素を握っていたことがわかった。特に、海軍は習慣で、時間を丁寧に記載するため、事件の推移がリアルタイムで書き残されているのは貴重だ」と指摘しています。そのうえで戸高さんは「今後、文書を精査することで二・二六事件の全体像がさらに明らかになる。事件の研究にこの資料が使われていたら、事件の全体像についてもう少し違う見方もあったかもしれず、全体の筋書きのなかで、非常に重要な部分を埋める資料になる」と話しています。
※その他、自著記事引用

2.26事件の深い真相の深度「齋藤實」
 
内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。
1936年2月26日(昭和11年)未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。
自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」と叫び、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。(※確証はないが作為が読み取れる)

春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。

二・二六事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。
二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。

二・二六事件の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。

斎藤の遺体は小山崎斎藤墓地に埋葬された。
昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。(斎藤はある時期天皇に仕える任務にいたことがある)

上記は「齋藤實」が2.26事件で暗殺殺害された情況をリアルに伝える記事の一般的解釈として、ほとんど教科書的テキストとおもって差し支えない。
事件の経緯を伝えるには、それで及第しているが、暗殺されるだけの重大な理由は、そこに書かれていない。

その2.26事件は、1936年当事の日本軍帝国における日本国内問題の切迫した問題を青年将校のクーデターで、国を立て直す、という大義名分のもとに映画もつくられて、それは日本史の1ページとしてまさに「司馬遼太郎」的観点で創造された、一つのエンターテイメントなのである。しかしその現実は、軍部の海外拡大路線が複雑に絡み合った、壮大な戦争映画が描けるほどの濃密な攻防が展開されていた。
それについては、このネットページ1項だけでは、到底描けない物語であるから、以後、散発的に書こうと思っている。検索する関係資料は、このネット上に公開されているものを集めて、それを部分編集して、筋をつなげるという方法による。※研究者でないかぎり、方法はそれしかない。

兎に角、こうしたネット記事でもプロの編集者も読んでいて、「なんや、ただのネタパクリ記事か?」と、蔑視しさげすんでいる空気が読み取れるが、最近感じているが、大小、上下、横断、縦断、あらゆる角度から絞り込んでも、ネットに載せられている「資料」の豊富さと緻密さは、一昔前の百科事典と比肩するか、またそれ以上の価値があると思った。
とくに頻繁に頼っているのはウィキぺデア資料によっているが、これほど素早く正確に、回答してくれる「先生」は他に見当たらない。

一部、その信頼度を疑問視する立場をとる者もいるようだが、○か×かは、使っている本人が一番よく判っていることだし、それが間違っていれば採用しない、ということで片付けられる。またそのほかに地元郷土史家の熱心な考察も、知らない部分を教えてくれる、という情報もあって幅がひろがる。

そうした公議の意味でここで展開する考証資料は大半はネット検索により、あとの不足分は、私のこれまでの書き貯めてあった個人書庫のセンテンスで穴埋めしている。

***

朝鮮総督府「齋藤實」 ktymtskz.my.coocan.jp~
大陸に吹きすさぶ嵐
 1929年(昭和4)秋アメリカから始った経済恐慌が、たちまち全世界に波及し、日本も不況に陥った。先進諸国はそれから脱出する途として、海外市場獲得の目的を立て軍備拡充の熱が昂まった半面、第一次世界大戦の反動と、財政難のために、軍備縮少が強く望まれた。ジュネーブ会議(斎藤実全権委員)といい、パリに於ける大国間に結ばれた不戦条約といい、英の招請で開かれたいわゆるロンドン会議というものも、すべて目的とする所は、地球上から戦争をなくす念願から出ているのだった。

 わが国はそのいずれにも加盟したのであるが、そのうちロンドン会議での結果として、日本海軍の保有艦数は、米国に対して、補助艦全体で7割、重巡洋艦は6割、潜水艦に於て米国と同量が許される、という割当てで落着したが、軍拡を希う人々は収まらなかった。
 まず軍令部が『これを呑むというのは統師権を侵犯する不屈な越権である』として怒り出し、やがて右翼が騒いだ。

米国公使館時代(海軍大尉)

 そしてこれは政府の軟弱外交のせいだとし『財閥と組んで腐敗堕落の政治を行う議会政治そのものが悪いのだ』と政治制度の否定を明らさまに唱える者もあった。経済不況も政策が良くないからだと解釈して、その立場からの議会政治不信の徒も出て来た。当時続出した右翼のうち北一輝らの一派は、軍部という一大組織を動かすことによってしか、理想的な社会的改造成就は不可能と考え、軍部内に喰い込んで青年将校群と提携し、まず皇室中心の軍部独裁政権樹立を目論んだ。
 これは政府の大官や要人の暗殺を前提とした恐るべき陰謀であったが、事露われて未然に終ったが、軍部では極秘に処理して首謀者の処刑もなく、これら三月事件とか十月事件といわれたものもうやむやのうちに葬られてしまった。
 しかしこの時すでに後の二・二六事件の先例が、そっくりそのまま不発で行われていたのである。軍部内で以前から夢想していた軍部独裁政権欲は右翼のそそのかしもあり、陰に陽に議会否認の態度をとる軍部官僚が中堅将校以下に多くなって行った。
 満洲事変は斎藤実が第2回目の朝鮮総督をやっていた昭和6年(1931年)9月に関東軍が起したものだったが、張学良軍の敵対行為であると称してそのまま戦線を満鉄全沿線に拡げて占領してしまい、事変勃発当初から日本政府が指令した不拡大方針を全く無視して関東軍は全満洲に進撃していった。
 日本軍が大苦戦した上海事変も軍部の独走で中国国民政府は国際連盟に日本の侵略行為を提訴し、リットン調査団が現地調査に来ても軍事行動を止めず、むしろ挑戦するかの如き態度で、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする五族協和制の満洲国を建国しやがて帝政に切りかえた。
 当然の帰結だが国際連盟を日本は脱退して、以後は道義的顧慮も制肘(せいちゅう)を受ける何物もないと、大陸侵略政策に突進して行ったのである。

北一輝の宗教
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。
北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。

北一輝
「ついに日蓮に到達」し、国体と日蓮主義の同一性を説く国柱会に入会した。田中智学は日露戦争の際に「日蓮主義は日本主義なり」と戦勝祈願し、以来国柱会は「日本は特別な価値ある国」として『日本書紀』と『妙法蓮華経』(法華経)が同一であるとしており、入信の動機もその国体論にあるが、伊勢弘志は、入会動機は教えより予言であり、対米悪感情と排他的教義への共鳴だとも考察している。

石原莞爾 日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。 帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。

ウィキペディア 

引用索引 
歴史のターニングポイント2.26事件 https://note.com/29530503/n/ne47051ade296



voice.音源


originalFILE

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?