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それはヒョウか雲霞(うんか、カスミ)か

昨夕のヒョウには驚きました。そとで、なにかすさまじい音が風とともに吹き荒れて、大型地震とおもったくらいです。
テラスのビニールトタンには、容赦ないヒョウ粒が、ガリガリと降り込んで、ぼこぼこに穴が開くか、と思ったくらいです。これまで経験したことのない空の「杞憂」天界さまに、おそれおののき茫然とした一時でした。(被害なし)

まま~あ、トルコでは、その千倍くらいの天変地異が起こったのですから、怖い話で、それが何時どこで襲うのか、という予想と確定がまったくないというのが恐怖ですね。

そんなこととは別次元で、人の生活があるわけでして、自然の摂理(宇宙システム)がどうなっているのか、古代ギリシアの賢人たちが、よってたかって研究したのも、よく理解できます。
そうした「人智およばざる宇宙世界」なればこそ、そこに「神」が宿り支配した、というモチベーションは、歴史的にもよくわかります。

もっとも百年来の古代ギリシアと近代科学によって、神と別の領域の宇宙物理があることを発見したのも人間ですから、それは他の動物とは一線を画してしかるべきでしょう。

またまた自画自賛の話で、申し訳ないのですが、昨日と一昨日に書いた「三島由紀夫シリーズ」が連続で10超えしたと通達がありましたので、申し添えます。
どちらも最短最速記録であり、またその内容も「自決」「切腹」「天皇制」とか、このネットSNSとは無縁と思われたテーマに、PVが集まって驚嘆してます。

こんなこというのも、何なんですが、その「三島由紀夫」をまったく知らないのか、それとも「切腹」そのものを知らないのか。また、昨今のアニメの影響で、むかし江戸時代の価値観であった藩政によって個を滅する思想というのが、かっこいい、とか一種のあこがれみたいなものを感じますが。

丁度それは「CoolJapan」的な、外国人から見た日本的価値観の「やや外れた視点」のような、感覚にも見えました。

昨日の記事でも数行書きましたが、三島由紀夫の理念は、国防自衛隊では国が守れないし、法律も不備(GHQ)による草案はダメだ、といって、そのアクションをおこしたのです。
だから、その原因をもっと探ろうとすれば日本の敗戦による「ポツダム宣言」や「東京裁判」を知る必要がありますが、それを書くと「本」一冊分になるのでしませんが。

■第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の日本(大日本帝国)によるポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)。
「東京裁判」 1946年1月19日連合国最高司令官マッカーサーの命令で設立された極東国際軍事裁判所が日本の戦争指導者に対して行った裁判。ニュルンベルク裁判とともに二大国際裁判といわれる。原告は米・英・中・ソのほか7ヵ国。同年5月3日より東京市谷で開廷。裁判長はオーストラリアのウェッブ。首席検察官は米国のキーナン。戦争犯罪を従来の戦時国際法に規定された〈通例の戦争犯罪〉(B)に加えて、〈平和に対する罪〉(A)と〈人道に対する罪〉(C)を新たに国際法上の犯罪類型と規定し、それらの犯罪について戦争指導者と目された個人の刑事責任を認め、満州事変以来の日本軍閥の侵略を追及。1948年11月12日判決。 ウイキペディア

と、とても難しくて厄介な問題を内在してます。それとは別の近隣国植民地化に対する反感もあって、やたらといじれない問題として長期封印した難題で、いまもそれは同じです。

そんなこともあって、正面からそれを捉えた三島由紀夫に対して、国民とメディアはアレルギー症だったのでしょう。
そうした中の成田悠輔発言でしたから、知らない人は「なんのこっちゃ」と思うだろうし、外信ニュースにホロコースト疑似フレーズにして煽る、というのはまったく正しくないのです。

人の噂というのは「無根拠」が前提ですから、いずれ時間よって雲散霧消するでしよう。

しかしながら、そんなこととは無関係に社会は成田悠輔さんのキャラ信奉度合いがありますから、ネット以外でも引く手あまたです。

それともう一極の二ュース「三浦瑠麗」氏の報道ですが、成田さんと激論した、あの田原氏が、「三浦瑠麗」氏にエールを送って「気にすんな」といったとか、記事でした。

そんな些細なことですが、それで「人の人脈」が判ったということが判ります。アフリカの獣猛社会じゃありませんが、ハイエナが群れを成してライオンを襲う、というのは体力で勝てないので知恵と組織力で勝利するという戦法です。
それとまったく同じで人間社会も「群れ組織」の派閥とか党とか、組んで、より強固に意識を固めるというのがあります。
まして言論界とか学閥とか法曹派閥とか、歴史的に存続しているようです。特に今回の成田悠輔発言のように、「あたりかまわず」やってしまうと、その組織に対して棄損することもあって、そこから援護射撃するというスタイルも生じたのです。
その「三浦瑠麗」氏の援護がそうだし、そのまったく反対の成田悠輔さんのケースは、逆鱗多数組織によって、いよいよ「血祭り」が始まったと云っていいでしょう。
それを書いてて思ったのは中世ヨーロッパにあった実話、「ジョルダーノ・ブルーノ」に向けられた「キリスト教的異端審問」の火炙り刑、でした。
なにが理由でダメだったのかは、もともと哲学天文学の僧侶であったブルーノが、コペルニクス地動説を支持したからと云われます。その当時では、キリスト宗教界において、地球中心説が絶対思想であり、当然天動説として流布していたからです。換言するなら、絶対的キリスト組織に異を唱える者は抹殺に値するとして処刑したのです。またガリレオも同じ目に会いましたが、その罪が近年代に解かれたという逸話は、すでに公知です。(これは私から成田悠輔さんに向けた援護リテラシーです。)

さて、今の時代に戻りましょう。昨日のニュース二つと、それとは異なる「疫病」の興味ある情報を書きます。

炎上大国日本メディアはネタ切れしない

成田悠輔氏、自身を「しくじり先生」と表現「定期的」に炎上「高齢者集団自決」も話題

2023/2/20(月) 20:50配信 デイリースポーツ
 経済学者の成田悠輔氏が19日、TBS系「日曜日の初耳学」に出演し、自身を「しくじり先生」といじった。この日は番組の企画で「一夜限りの授業」と題して、成田氏が先生役となり、ぺこぱ・松陰寺太勇、YouTuberでタレント・ねお、大学生、主婦ら悩みを抱える人々に教えを授けた。
 教室風のセットで生徒たちを前に教壇に立った成田氏は「きょうは皆さんと大激論をさせていただく」と宣言。続けて「しくじり先生なみの気分です」とあいさつして笑わせた。松陰寺が即座に「しくじったことあるんですか」と尋ねると、成田氏は「定期的に炎上してます」と返し、再び笑いを誘った。
 「しくじり先生」とは、テレビ朝日系バラエティー「しくじり先生 俺みたいになるな!!」のこと。過去にさまざまな「しくじり」をしてしまった人物が教師として授業を行い、視聴者を含む生徒たちが同じ失敗を繰り返さないよう諭す番組だ。
 成田氏は、過去に少子高齢化問題について尋ねられた際に、解決策として「高齢者の集団自決、集団切腹」を提示したことがあり、これが2023年に入って再び注目を集め、批判の対象にもなっていた。

三浦瑠麗氏が田原総一朗氏に感謝 「気にするな」「やっかみだ」と励まし受ける

2023/2/20(月) 11:41配信 東スポWEB  国際政治学者の三浦瑠麗氏(42)が20日、ツイッターを更新。ジャーナリストの田原総一朗氏(88)から励ましの電話をもらったことを明かした。三浦氏は田原氏のユーチューブチャンネルの動画を貼付し「田原さんから先日お電話いただきました。励ましていただき、ありがとうございました」と感謝の気持ちを投稿した。
 三浦氏は田原氏がMCを務める「朝まで生テレビ」のレギュラーメンバー。長年の付き合いもあることから、電話をしたらしく、田原氏は動画内で「数日前に三浦さんに電話した。夫がなんかやったんでマスコミでコンテンパンにやられてる。ボクは気にすんな、といった。あなたが売れすぎてるから、やっかんでるだけだと」と話している。
以下割愛

■■「秀吉」はなんで死んだのか、その理由が恐怖

歴史は感染症「梅毒」によって塗り変えられる
豊臣秀吉の死因は何か?

NHKインターネット https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/dj-nihonshi/313hHFj-_.html

<DJ日本史>のテーマは「歴史を変えた感染症」。太古の昔から人々を苦しめてきた感染症は、時代をどう動かしたのでしょうか?
感染症が天下の命運を決めてしまった、という戦国時代の例をご紹介しましょう。実は感染症の流行が、豊臣家の滅亡に深く関係していると言われています。
豊臣秀吉は裸一貫から成りあがって天下人になりますが、1598年に亡くなり、その17年後の1615年に豊臣家は徳川家康によって大坂夏の陣で滅ぼされてしまいます。そのきっかけの1つとなったのが、梅毒という感染症でした。
梅毒は性的な接触などで感染し、病状が進むと皮膚や筋肉などに腫瘍が出来ていく病気。この梅毒はヨーロッパの大航海時代に世界中に広まりますが、日本では16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。
そんな梅毒が豊臣家を滅亡させる一因になったとは一体、どういうことなのでしょうか?
関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍になった徳川家康。このころの家康は、決して豊臣家に強い態度をとっていたわけではありません。むしろ、孫娘の千姫を豊臣秀頼に嫁がせるなど、豊臣家にかなり気をつかった対応をしています。こうした両家の協調関係を確認するために行われたのが、1611年の家康と秀頼の二条城での会談。この時の家康と秀頼は、とても友好的だったと言われています。

家康としては、まだまだ大きな力を持っていた豊臣恩顧の大名の勢力を無視するわけにはいかなかったんですね。
ところが、です。
この後、わずかの間に、両家の力関係があっという間に大きく崩れてしまうのです。原因は、梅毒。
豊臣家への忠誠心が厚い武将が次々に梅毒に感染し、この世を去っていくのです。二条城での会見のわずか3か月後にはあの加藤清正が亡くなりますが、死因は梅毒と言われています。
2年後には浅野幸長(よしなが)も命を落としました。また、家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。
さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去。こうした状況を見て、家康は方針を転換。豊臣家を攻め滅ぼす方向へ舵を切っていくのです。
ちなみに家康の方は、梅毒をかなり用心していました。自分で薬を調合するなど、健康に人一倍気をつかっていました。また家臣に対しては、感染源とされていた遊女との接触を禁じていました。
感染症に対してどう向き合うか。その違いが、徳川家と豊臣家の運命を分けることになったのかもしれませんね。
DJ日本史「歴史を変えた感染症」③

家康は加藤清正の死にショックを受けた?
amebloアメーバ いちご畑さん 2021-06-28 09:43:02
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12683237881.html

最初に取り上げるのは戦国時代の覇者、徳川家康の“下半身防護術”です。ご存じの通り、三河の国・岡崎城主の長男として生まれて6歳~18歳まで織田家、今川家の人質として育った徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利して天下取りに成功。江戸幕府の開祖となりました。その家康は生涯2人の正室を持ち、16人以上の側室を抱えたそうですが、その多くは未亡人でした。理由は、加藤清正や浅野幸長ら同じ時代に生きた有力な戦国武将の多くが「梅毒」で亡くなったからといわれています。映画や小説では加藤清正は徳川方の忍びによって毒殺されたと言われていますが、その時代の真言宗の高僧の日記では清正の最後は「身もこかれくろくなられける」と書かれています。今でいう劇症肝炎などによる急性黄疸ではないでしょうか。これは梅毒の特徴のひとつです。また、「当代記」には浅野幸長が梅毒で亡くなったとの記述があり、清正も「ひとへに好色の故、虚の病」と書かれています。
むろん、当時は梅毒についてはほとんどわかっていません。ただ、家康は加藤や浅野が遊女と交わっていたことを知っていたため、遊女と遊ぶのは危険だと考えていたようです。あえて未亡人を選んだのは、子供を生んだ経験のある女性となら、子孫を残せるとの思いがあったからでしょう。

豊臣家を滅ぼしたとされる「梅毒」豊臣寄り武将が次々と死亡した
2021年06月13日 日刊ゲンダイ 尾上泰彦
天下取りに成功した徳川家康は性交渉の相手を選ぶことで身を護っていた、とお話ししました。当時は「梅毒」が流行していたからです。そんな家康と対照だったのが豊臣秀吉です。秀吉は裸一貫から成りあがって天下人になりますが、1598年に亡くなります。死因についてはさまざまな説がありますが、そのひとつに梅毒があります。ご存じのように秀吉は大変な女性好きだったと言われています。あまりの浮気癖に困り果てた妻のねね(後の北政所)が織田信長に浮気を止めるよう直訴したほどですが、それは生涯治らなかったと言われています。秀吉の晩年は、衰弱が激しく、下痢や腹痛、食欲不振に数カ月でやせ衰えていたことがわかっています。そのため、死因は大腸がんなどが考えられるのですが、そのひとつとして梅毒も挙げられているのです。
梅毒とは主に性的接触によって感染し、症状が進むと皮膚や筋肉などに腫瘍ができる病気です。症状が進行すると、動脈瘤が出来て、それが破裂して命を落としたり、神経が冒されて錯乱状態になることが知られています。

もともとは1495年にイタリアのナポリに上陸したフランス軍・傭兵から発見され、欧米に広まりました。この傭兵らは新大陸発見のコロンブスの船の乗組員であったため、先住民の女性から感染して、欧米に持ち込んだとの説もありますがハッキリしていません。 日本では16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。そのせいなのか、豊臣家に忠誠を誓った武将の多くは梅毒と思われる病気でなくなっています。
たとえば、加藤清正です。秀吉の子飼いの家臣で秀吉が亡くなった後に家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として戦いその功績で肥後一国並びに豊後の国の一部を賜りました。その清正は、家康と豊臣秀頼との間で行われた「二条城での会見」(1611年3月)を取り持つなど和解をあっせんしましたが、その3カ月後に亡くなりました。
死因は梅毒と言われています。清正と共に二条城での会見を取り持ったとされる、浅野幸長(よしなが)もその2年後に梅毒で命を落としたと言われています。
また、家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去したと言われています。その結果、力を失った豊臣家に代わって家康は天下を取ることを決意したとも言われ、秀吉が亡くなって17年後の1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまうのです。もし、豊臣家に近い戦国武将の死因が梅毒であるのなら、豊臣家はある意味、梅毒という感染症により滅亡したと言えなくもないのです。
梅毒は、いまも代表的な性感染症のひとつに数えられています。太平洋戦争直後は22万人を超える患者が記録されましたが、その後、「ペニシリン」と呼ばれる薬が登場して激減。1997年には患者数が500人近くまで減りました。ところが2011年以降、若い女性を中心に増えています。その原因は訪日外国人が急増したことや、これまでなら出会うことのない人との出会いを可能にするマッチングアプリが登場したためともいわれていますが、それを裏付けるデータはありません。
個人的にはコンドームをつけなくなったからだと考えています。エイズが話題になったときは、コンドームを装着することは性交渉の常識となっていましたが、エイズの話題が薄れるにつれてその常識が揺らいでいるように感じています。

感染症 梅毒
東京新聞 2023年2月20日 11時30分

東京都内の梅毒患者が10年間で12倍に増え、過去最高となった。特に女性の増加が深刻で10年前の約40倍。20代が突出して多く、出会い系アプリの普及が背景にあるとされる。都の担当者は「症状がなくなっても自然治癒はせず、放置すれば大変なことになる」と若者向けの啓発活動や無料検査に力を入れる。梅毒は慢性の性感染症で、性交渉などで感染する。都内の患者は2012年は男女計297人だったが、22年は過去最多の3677人に上った。年代別では、男性は20~40代が約77%だった一方、女性は20代だけで約69%を占めた。
都福祉保健局の担当者は「まずはどんな病気か知ってもらうことが重要」と話す。梅毒は感染後1カ月で感染部位に発疹などが出るが、3週間ほどで消滅。その間、全身に菌が回り、3カ月ほどで手のひらや足の裏に発疹が出るが、これも消滅。そのまま放置すると、数年後、心臓や神経なども異常を来し、失明や死亡につながる恐れがある。
担当者は「自然治癒はしないが、薬で治る。女性は感染を知らずに妊娠すれば、胎児の死産や障害が出ることもある」と警鐘を鳴らす。検査は都内の保健所で無料かつ匿名で受けられる上、3月には都内4カ所で、当日に結果が分かる臨時検査会場も設ける。
都は3月上旬から梅毒感染の経験者のインタビュー動画を公開し、ユーチューブやインスタグラム上で、予防啓発の広告を配信する。 (沢田千秋)


梅毒とは 国立感染症研究所

(2022年11月30日改訂) 梅毒は梅毒トレポネ-マ(学名:Treponema pallidum)による細菌性の性感染症で、世界中に広くみられる。
梅毒は ”The Great Imitator (模倣の名人)” と呼ばれるように、全身に多彩な臨床症状をきたす可能性があり、適切な抗菌薬治療を受けなければ、深刻な健康上の影響が起こりうる。
また、母子感染により、流産、死産、先天梅毒などを起こしうる。梅毒は、症例数が多いこと、治療に有効な抗菌薬があること、適切な抗菌薬治療により母子感染を防ぎうることなどから、公衆衛生上重点的に対策をすべき疾患として位置付けられている。

かつての政権政略媒体の一つ「梅毒」は、いまも現役で人間社会に悪さをしている。昨今、ネットを介して簡単に、不倫、パパ活など、ニュースに上がって犯行が明かされるが、そこに梅毒が蔓延しているとは書いてない。それを見過ごすと過去の歴史と同様に人口激減に拍車がかかることを社会(メディア)は知るべきだろう。



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