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宇宙の星はすべて「過去の光」.2a

改変稿 2022年11月25日 16:07

宇宙の星はすべて「過去の光」、地球から太陽までは、何光年ですか?

いまさら、小学生女子からの質問に応えてみました。

地球と太陽の距離は1億4960万kmあります。それで光の速さは毎秒29万9792.458km(光速原理)で、光が1年かかって到達する距離を1光年です。それを電卓で計算すると9兆4600億kmです。

さらに地球と太陽の距離を1光年の距離で計算すると、0.00001581光年、分単位になおせば8分19秒。太陽から出た光は約8分後に地球に到着するというアインシュタインの話しです。

そんなことは掛け算九九と同じに、学校でならいましたよね(やったやらないという江戸瓦版の話は別として)

だから、その光速度と同じように、いくら「宇宙の果て」からといっても、時間がかかりますが、ただ遅れる時間が長い、ということであって、実際は見えるんです。ただし、それがいつだったか、という過去、未来のタイムスパンですが、じゃ、今の時間は、宇宙のどこなのかといったら誰も知らない。ただ「天の川銀河」という一定の座標があるので、それを基にして図っているとおもわれるのです。

それで判ることは、光の不可逆性で、前にしか進まない、という宇宙摂理(現時点で、後に新説が出る可能性もある)で、未来は見えない、という宇宙物理学です。
ですので、人間が見ている宇宙の姿は、過去の出来事なんです。そこで質問がありました。

私が生まれる前のパパとママは、私が生まれた後には生まれないのでしょうか? という子供の質問。『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【パラドックス解説】 (http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/68c56d8eb959d6e015fa0a238a935742)


企業がつのる「スタートアップ」は現代版タイムパラドックスか

■「求む“起業家会社員”〜ソニーと14人の学生たち〜」NHK放送日: 2022年1月29日 ソニーが前例のない人材確保作戦に乗り出した。現役経営者や起業経験のある「起業家精神」あふれる学生を集め、新規事業プランを競わせる選考会を開催。その舞台裏に密着。 冒頭引用

この番組を目を皿のようにして観ていた学生諸君と、これから、その人材を確保したいという、日本の上場企業数千社?あった、と半ば誇大な見出しをつけてもおかくしくない、良質な番組であったことは、いうまでもありません。

学生諸君も、なかなかのもので、現役CEOもいたようで、そこでアブラを売ることなく、すぐさま市場獲得に奔走したい人材も見受けられました。

まあ、それはそれでタイムリーな企業側(それとテレビ局)企画コンセプトとは思ったのですが、では一番肝心であった学生諸君の懐には、何が秘められていたか、というシークレットは、さほど期待できるものではなかった。
というのも、学生諸君は、高学歴者という一定のリテラシーはあったと推定されますが、その知識は、現況社会知識であり、はたまた企業ノウハウであり、もっと云えば家庭社会としての「親」のカテゴリーを逸脱しない、程度のキャパシティーと換言されないでしょうか(それ以外の想定予想もありますが比率が低い)。
学生諸君の「プレゼン」をみて、そんな印象を受けたことは否めませんでした。

それはとても課題難題で、明日の日本の使命が託されているとなると重圧です。
そのプレゼンの様子は、当然のようにデジタルで処理され、顧客へのトークや接触はアナログですが、ほぼ90%がデジタルで賄っているのが印象的でした。印象的、という形容もこの場合、合っていませんが、まだまだ企業サイドとしても完全デジタル化が、なされていない、という視点で観れば、そんな意見になってしまうのです。

一番判りやすい例として「マイナンバーカード」の移行例で、すでに施行されて時間が経ちますが、全世帯に浸透していないという不手際は、やはり行政の手落ちでしょうが、やはりデジタルアレルギーがあると思います。

そうしたことが社会に波及していて中々デジタル化しない。やはりそれは、社会時世が大きく関係していて、日本高齢化層が、それに対応できていないという現実がある。

では社会的なデジタル化、とはどんな事なんでしょうか。わたし個人の身のの廻りで説明してみましょう。といっても私の日々生活は、ほぼデジタルで済んでいますので、その中でアナログは何か、というのを説明しましょう。

通信(メール)類は全部デジタル。複雑な行政書類(特許出願、選挙候補準備「一部アナログ指定」)などで、印鑑指定(だいぶ省けた)、銀行支払いはすべてネットバンク(手数料あり)で、窓口での取引はなし。

そのほか、いろいろありますが、そうした諸々の扱いの金銭また書類は、考えてみれば一つの「概念」であり、金銭にしても、もともと「石」だったり「金」だったり、一つの「物体」でした。それが取扱量が多くなったり、遠距離だったり、それでは不都合なので、軽易な「紙、硬貨」に代替したという歴史があります。
だから今では、その紙さえも、デジタル印字で代替してますから、億とか兆の金であっても一瞬にして世界を飛び回る時代です。

それと「ビットコイン」のように「仮想通貨」が出てきて、それは完全にアナログを排したデジタル通貨です。現況の通貨も、その仮想にはならないが、その流通手順は、デジタル化するでしょう。
そうなれば世界インフラは、すべてオンラインで取引されるようになる。ただ、前述したように、高齢者社会の日本では、それが遅々とすすまない、という現実に阻まれているということです。

そうした考えの延長線上で「企業が求めるスタートアップ人材」をつのった場合、コペルニクス的発想転換(むしろそれは企業側であり、日本社会の伝統的呪縛感)、そこから抜け出すには、簡単なことではないというのがよくわかります。

冒頭示した、地球と太陽の距離を1光年の距離で計算すると、0.00001581光年、分単位になおせば8分19秒、という宇宙の普遍摂理は、どういじっても変わらない。
ただ、月につけた「足跡」は、後何億年も残るでしょうが、それを発見して、喜び驚くのも人間ですから、不可逆は、その中で痕跡は残せるという期待は、捨てることは出来ないでしょう。

画像 | WIRED.jp

2022年11月25日

聖徳太子 蘇我馬子

蘇我馬子が行ったこと

飛鳥時代の政治家。父・稲目のあとを継いで大臣の地位に就いた。仏法を信仰し、日本初の本格的寺院、飛鳥寺の建立を発願。

一方で拝仏派の政敵である物部守屋と衝突し、用明2(587)年、聖徳太子と組んで守屋を攻め滅ぼし、専権をふるった。馬子の威勢を恐れた世間は、馬子の専横な態度に対して手を出すことができなかった。推古天皇即位後、聖徳太子が摂政であった間は太子をはばかって命に従い、太子との共同執政を行ったものの、太子の死後、再び権力を握ることになる。明日香村にある石舞台古墳は、馬子の墓とする説が有力である。蘇我蝦夷の父。

聖徳太子との関係は?聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)は、推古天皇のもとで、蘇我馬子と共同で天皇を補佐したとされる人物です。それまでひとりで政治を動かしてきた馬子にとって、聖徳太子は、どのような存在だったのでしょうか。馬子と聖徳太子の関係を見ていきましょう。
2人の間には血縁関係がある
当時の有力な豪族は、権力をにぎるため、娘を天皇に嫁がせて血縁関係を築いていました。馬子の父・稲目も、2人の娘を欽明(きんめい)天皇の后(きさき)とします。

娘のひとりは用明天皇や推古天皇、もうひとりは用明天皇の后となる皇女を産みました。その皇女と用明天皇との間に産まれたのが、聖徳太子です。
馬子は聖徳太子にとって、父方・母方双方の大おじ(祖母の兄弟)であったのです。聖徳太子は、馬子の娘を妃に迎えており、2人は婿(むこ)と舅(しゅうと)の関係でもありました。

推古天皇のもとで二頭政治を行う用明天皇の崩御後、馬子は甥(おい)の崇峻(すしゅん)天皇を即位させますが、思い通りにならなかったため暗殺してしまいます。その後を継いだのが、日本最初の女性天皇・推古天皇です。
推古天皇は馬子の姪(めい)にあたりますが、彼の専横を抑えるために聖徳太子を摂政(せっしょう)に取り立て、馬子との「二頭政治」を行わせます。馬子の力を利用しつつも、好き勝手にはさせず、天皇中心の中央集権国家を目指したのです。

摂政になった聖徳太子は「遣隋使(けんずいし)の派遣」「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」「十七条憲法」といった、後世に残る政策を打ち出して実績を上げます。

遣隋使の歴史をわかりやすく解説。日本にはどんな影響をもたらした?【親子で歴史を学ぶ】古代より、他国との交流は、国を発展させるうえで欠かせない事業でした。日本も中国や朝鮮へ使者を送り、進んだ文化や制度の入手に努めていた...しかし聖徳太子が亡くなると、馬子は再び権力を独占して、蘇我氏の勢いを強めていきました。孫の「入鹿(いるか)」の代には、天皇をしのぐといわれ、これが後の「大化の改新」につながるのです。
画像 石舞台古墳。巨石30個を積み上げて造られ、横穴式石室は露出している。また墳丘は失われているが、大規模な方形墳だったと推測されている(奈良県高市郡明日香村) 文.画像小学館

なぜ、蘇我馬子が悪人として語られることになったのか
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日本史・あの人の意外な「第二の人生」蘇我馬子(?~626)といえば、聖徳太子とともに語られる古代日本史のビッグネーム。
20代の若さで大臣に就くと、敏達・用明・崇峻・推古天皇の4代にわたってその地位を守り、蘇我氏繁栄の頂点に立った権力者だ。
天皇の外戚として権勢を誇る一方、排仏派の物部氏を打ち滅ぼし、仏教を手厚く保護した馬子。日本最初の本格的な寺院・法興寺(のちの飛鳥寺)まで築いたのだから、仏教興隆の立役者として、大々的に祀られてもよさそうなものだが、いやはやどうにもイメージがよくない。

語られることといえば、腹心の部下・東漢直駒を使って崇峻天皇を暗殺し、成功後は難癖をつけて東漢直駒も殺害したとか、晩年、推古天皇に「自分のルーツだから」といって天皇領であった葛城県の割譲を迫り、きっぱりと却下されたとか……。いずれも天皇家すらないがしろにする、その専横ぶりを伝えるものばかり。氏(うじ)・姓(かばね)の関係なく出世に能力主義を取り入れた「冠位十二階」や臣下が守るべき規範を示した「憲法十七条」を制定した偉人として語り継がれ、太子信仰まで形成された厩戸王(聖徳太子)とは大違い。まさに雲泥の差だ。

しかし、馬子の立場に立って一言いわせてもらいたい。「ちょっと待ってよ! それ、ひどいんじゃない?」。推古天皇の治世下でともに政治手腕を振るった馬子と厩戸王。今までは、豪族を抑えながら天皇を中心とする中央集権体制をつくろうとした厩戸王と、既得権益を守りたい馬子は対立し、やがて政争に敗れた厩戸王は斑鳩に隠棲したと見る向きが一般的だった。
だが、厩戸王が推古天皇から国政の統括を任せられたと伝わる年齢は20歳頃。天才伝説が本当だったとしても、そんな若輩のリーダーに海千山千の豪族たちが素直に従うはずがない。一方の馬子は、大ボスとして君臨する経験豊富な40代頃のはず。彼の協力なくして政策が実現できたはずがない。そのため近年は、晩年まで2人は良好な関係であり、政策の主体は天皇と馬子、厩戸王はそれをサポートする立場だったともいわれている。
実際に推古天皇も馬子の働きぶりを評価していたらしい。612(推古天皇20)年の正月、宮中で新春を祝う宴が開かれた。その席で馬子が天皇支配の永遠を言祝ぐ歌を奏上すると推古天皇はこう返答したという。「あなたを馬にたとえるなら、あの日向国(現在の宮崎県および鹿児島県の一部)の名馬。太刀でいえば、有名な呉国の名刀でしょう。それならば、私が重用するのは当然のことです」。このとき馬子は、晩年だったはず。もし、彼が真に国益を害する人物だったとすれば、こんな手放しの礼賛はありえない。
では、なぜ馬子が悪人として語られることになったのか――。それはひとえに、これらの記録が『日本書紀』に記されたものであるという点に尽きる。歴史はつねに勝者によってつくられるもの。何を隠そう、『日本書紀』の編纂を指揮した藤原不比等は、「乙巳の変(645)」で中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに蘇我氏を討った中臣鎌足の息子なのだ。
敗れた蘇我氏をよく書くはずがない。

そんな馬子がこの世を去ったのは626年。70代だったともいわれる。その墓と推測されている石舞台古墳は、一辺が50~55メートルに及ぶ日本最大級の方墳。王墓にも匹敵するその大きさが語るものは何なのか。

※本記事は、「誰も知らない歴史」研究会編著『日本史・あの人の意外な「第二の人生」』より一部を抜粋編集したものです。
参考文献『学び直す日本史〈古代編〉』日本博学倶楽部 著(PHP研究所)

画像 総重量2300トン!30個の巨石で作った「石舞台古墳」現地ルポ【奈良橿原&飛鳥の旅1】 | TABIZINE~人生に旅心を~



TABIZINE


編集構成// #つしま昇

前項、アルゴリズム捕捉で、殆ど閲覧不能状態であったので、大幅刷新して、このページ改稿とした。
※本稿内容を精査吟味して、運営者は適正な構成をするべきと切に願う。

(宇宙の星はすべて「過去の光」)元記事https://note.com/29530503/n/n7faecfef3852

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