芥川龍之介『地獄変』解釈

芥川龍之介の『地獄変』、世間的には良秀の画道に対する狂気や妄執が主題みたいな解釈が多そう(国語の便覧・総覧にもそんな書かれ方をしてた気がするし、↑のリンク先で見かけた『ダ・ヴィンチ』の特集記事も見出し的にそんな方向性っぽい)なんだけど…私の解釈は違くて。
あの小説がえがいているのは“堀川の大殿様”であり、殿の有様を例に取った《人間の欲深さ(の救えなさ、どうしようもなさ)》だと思う。
自分も助かりたい我も我もと誰も彼もが群がった結果全員が地獄へ堕ち直した『蜘蛛の糸』とも共通する主題(結論)。
本文冒頭第1文目から、堀川の大殿様の話が始まる。全体を通して、隙あらば大殿様の話が挟まる。
長編なら箸休め的な閑話があってもいいかもしれない、けど短編小説ってのは一文字の無駄も許されない。一本でも蛇足を生やせばそっから全体が腐る。
だから、初っ端も初っ端に開幕で「おおとのさまは〜!!!!!」って語り始めたのに大殿様の物語じゃないわけないんだよ。
視点人物が「とのさますごい!とのさまさいこう!!とのさままんせー!!!まじ​神!!!!​仏より​尊い!!!!!​天上天下唯殿独尊🤦‍♀️🙌😂🙏✨✨✨​」って異常なほどの盲目狂信っぷりでひた隠しにすればするほど浮き彫りになる、彼が必死で自分に言い聞かせるように全否定しようとしている世俗の噂の信憑性。
聖人君子みてーなお偉方だって所詮はただの人間、ただのオトコでしかねーんだな って。それがこの小説の結論なんだと思う。
(殿様はそんなレベルじゃないやりすぎ仕返しをかましとるが、そこは明確にはされてないオカルト部分(良秀の悪性が呼び寄せた魔に憑かれたとか?)なのかなと)
良秀が描画のために悪魔に魂を一時的に売り渡してしまったのは、シーンとしては完全に手遅れになってからだ。その時にはもう、火は点いていた。
視点人物も散々言ってる。「見なきゃ描けないからって良秀がスケッチのために題材を取り寄せるのはいつものこと」でしかない。良秀もまさかあんなことされると思わなくて、「こういうデザイン構想があるんだけど、見たことなくてちゃんと描けないので、どうにかしてスケッチさしてくれさい!!」って報連相しただけだ。
もし良秀が人間性維持して娘を助けに飛び込んだり泣き叫んだり心折れて屏風描きあげれなかったとして、それはストーリーのオチの一部がちょっと変わっただけ、ED分岐が別ルートに入ったぐらいのもの。読後感が「あんだけ人間性終わっとる絵師様(笑)でも愛娘のためには人の心を取り戻せるんだね🤗」っていうハートフル路線にチェンジするぐらいの差です。大殿様が逆恨みで罪もない娘を縛り上げて肉親の目の前で焼殺した事実はなーーーんもかわらん。その不動の事実のほうに主題があると私は見る。
良秀は小説の中心人物ではあっても主題ではない。
「良秀に屏風絵を描かせた」一連の出来事を通じて、大殿様を描いてる。大殿様の俗欲と堕落っていうか、「人間くささ」を。

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