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快適なおうち 最終回 (ユウト帰宅)


最終回<ユウト帰宅>

 電車を降りるとすでに薄暗くなっていた。ユウトが歩く振動にあわせて、右手に提げたコンビニの袋がかさかさと鳴る。一軒家の前をとおると、魚を煮ているような醤油の甘い匂い。ユウトはめずらしく、今日の夕飯は何なのだろうと思う。今頃、リカコも準備をしているはずた。
すれ違った野良猫がミャアと鳴く。ユウトは思わず袋を持ち上げて、隠すようにした。後ろから、再び、ミャアミャアと鳴き声が追いかけてくる。ユウトは振り向くと「お前にはやらないよ」と言ってやった。だってこれは、リカコに買った饅頭なんだから。猫はわかっているのかいないのか、丸い瞳でユウタのことを見つめていて、ユウタが踵を返すと、そのあとは何も聴こえてこなかった。
 完全に日が暮れた。ユウトがふと夜空を見上げると、いつもより星が近くにあるように見える。立ち止まって、星と星を線で結ぶ。そのかたちはいびつで何にも似ていなかったが、あたらしい星座を発見したような気分になった。ユウトは、ふ、と笑うと、再び家を目指して歩き出した。

 家に帰ると、はたしてリカコはキッチンで夕飯の支度をしていた。
「ただいま」
「おかえり」
 リカコはちらと振り向き、シンクに向き直ると野菜を切った。ユウトは買ってきた饅頭を袋に入れたまま、テーブルの上に置く。リカコはもう一度振り返り、その饅頭を見たが、何も言わず、再び料理に戻った。ユウトは、ありがとう、と一言あると思っていたので、リカコの反応に少し苛立ちを覚えたが、何も言わずにソファに転がった。リカコが野菜を切る音が響く。
「今日どこいってたの?」
 ユウトがゲームをしようとスマホをいじっていると、リカコが訊いてくる。
「へ? あー、TSUTAYAとかコンビニとか?」
 ユウトは適当に答えてゲームを始めた。「そう」とリカコが答えると、野菜を切る音が止んだ。チャラッチャッチャッチャー♪ 新たな武器をゲットしたユウトのゲームのメロディーがリビングに響いている。すると、リカコがユウトの買ってきた饅頭を袋のまま手に持ちながら近づいてきて、
「私、これ要らない」と言った。
 ユウトは驚いてリカコを見上げた。リカコはちょっと戸惑ったような表情のまま、袋に入った饅頭をソファの肘かけに置くと、キッチンに戻り料理を再開した。ユウトはゲームを停止し、スマホをソファに置いてそれを手に取った。白いレジ袋の中から覗く、「もっちりこしまんじゅう」の文字。その字体が腑ぬけていて、ユウトはまるで自分が馬鹿にされているような気分になった。
 ユウトは饅頭を袋ごと床に投げ捨てた。ボトッという鈍い音と、クシャッとビニールの潰れる音が同時に響いた。そしてリカコににじり寄り、
「要らないってなんなの。オレせっかく買ってきてやったのに」
 と、リカコを睨みつけながら言った。
 リカコは料理の手を止め、無言のままユウトを見た。泣きたいのか、怒りたいのか、どちらともつかない妙な目つきだった。
「なんか言えば」
 ユウトは詰め寄った。リカコは唇を横にきゅっと結び、俯いて自分が切ったトマトをじっと見つめると、目蓋を閉じ、ただ深呼吸を繰り返している。
「おい、なあ、言えって言ってんじゃん。何にもないのかよ」
 リカコはおもむろに目を開くと、トマトをじっと見つめて目に涙を浮かべた。キッチンの照明を受け、きらりと光る粒。ユウトは、静かな興奮が自分の中にわきおこっていることを自覚した。もっと、その顔を見たい。ユウトはリカコを覗き込むよう顔を近づけた。
「そうだよな。何も言わないんだよな。泣けば済むとでも思ってんの? ずるいやり方だよ。そうやって今までも、都合が悪くなったら、そんなふうにごまかしてきたんだろ? なあ」
 ユウトがリカコの腰にそっと触れると、リカコが小さく震え、いとうようにユウトの手を払った。
「やめて。そんなんじゃないんだから……」
「だったら、なんか言えよ!」
 リカコに拒否された恥ずかしさから、ユウトは声を荒げた。リカコは何も言わず、じっとトマトを見つめていた。
本当にそうだったんだろう、と思う。きっとこれまでの人生で、追いつめられたときには都合よく無言を武器にしてきたのだろう。そうすれば、誰からも赦されてきたのだろう。
 ユウトは、ふんと鼻を鳴らし、わずかに口を歪めて笑った。これが、リカコなのだ。自信がなく、すぐに狼狽え、言葉を失い、現実から目を背けて下を向く。だから、どんどん視野が狭くなって、「快適なおうち」を保ち続けることがすべてであると思い込み、それを疑おうとしない。リカコはずるい。自分はそれでいいのだと思っている。いや、違う。本当はそう思っているということに、リカコ自身、気がついていないのだ。そのことが、この上なくずるい。
 ユウトはリカコの横顔を見つめた。リカコの長いまつげがくるんとカーブを描いていて、綺麗なかたちだと思った瞬間、言い放っていた。
「オレ、お前のそういうところ、ほんと大嫌いなんだよ」
 キッチンが、しんと静まり返った。それは、リカコが、ハッと驚いたようにユウトを見たのと同時だった。
 しんという音が、実際に聞こえてきそうなほど静かだった。二人は何も言わず互いにじっと見つめあっていた。どれくらいそうしていたのだろう。それほど長くはなかったはずだが、ユウトにはとてつもなく長く感じられた。ぽろり、と、リカコの目から涙が溢れて頬を伝った。リカコは、感情を失ったかのように無表情のまま涙を流し、おもむろにエプロンの肩ひもに顔を摺りつけて涙を拭いた。
 しまった、とユウトは思った。言いすぎた。リカコが実際に涙を流すまで追い詰めたのは初めてだった。リカコが瞬きをすると、次々と涙がこぼれた。リカコは再び肩ひもで涙を拭うと、ユウトから目を逸らし、シンクに向き直ってしくしく泣きはじめた。いたたまれなくなったユウトは、リカコのそばを離れ、隠れるようにソファに転がった。
 ズズ、とリカコが鼻を啜る音が聞こえてくる。ユウトは苛立ちと後悔が入り混じったような気持ちだった。が、次第に後悔の方が大きくなってきて、「そこまで言うつもりじゃなかったんだ」という言葉が喉元まであがってきたが、喉に引っかかって一向に出てこなかった。
 ユウトがまごついていると、鼻を啜る音が止み、キッチンからトントンと野菜を切る音が響いてきた。どうやら、気を取りなおして料理を再開したらしい。ユウトは安堵した。おいおい、なんだよ、焦ったじゃないか……。ユウトは包丁のリズミカルな音を聴きながら、スマホを手に取った。今後は、本当に泣いてしまう手前でとめるよう、気をつけないといけないな、と思いながら、ゲームを再開した。
 突然、ゴン、と鈍い金属音が響いた。ユウトが半身を起こし、ソファからキッチンを覗くと、リカコが緑色のものをシンクに投げつけていた。胡瓜だった。胡瓜がなくなると、カットしたトマトを鷲掴みにした。ユウトはぎょっとした。リカコはトマトを投げ捨てて、ユウトを振り返った。赤い目で、ユウトを睨みつけている。そして無言のまま、まな板の上に残ったトマトを握り潰し、掌をひらいてトマトの実を乱暴にシンクに振り払うと、のそのそとユウトに近づいてきた。
 リカコがソファの近くに落ちている饅頭を右足で踏んだ。パフッという間抜けな音が鳴る。ユウトは潰れた饅頭を見て、思わず、立ち上がってあとじさる。リカコはユウトの目の前まで近づいてくると、目を閉じた。深く息を吸い込んで、吐く。それに合わせて、リカコの胸が上下した。そのまま、冷静さを取り戻すのではないかと思った。しかしユウトの予想に反し、リカコはカッと目を開くと、ユウトを睨みつけて言い放った。
「てかあたし、こしあん嫌いなんだよ……つぶあん買ってこいよ!」
 怒声だった。リカコが大きな声を出すのは初めてのことだった。
「てか、買ってきてやったのにってなんなんだよ! いつ頼んだっていうんだよ!」
 今度はリカコがユウトに詰め寄る。ユウトは、「わかったよ、ごめんごめん」と言うがリカコの怒りはおさまらず、「ってか、てか!」と叫びながら、思わず床に倒れたユウトの上に馬乗りになる。そしてトマトで濡れた手でユウトの胸ぐらを掴みながら、「チャーハン食べたら皿水につけとけよ! ご飯でカピカピになっちゃうだろ!」と叫んだ。リカコの顔は真っ赤だった。ユウトは驚いていた。常ならぬリカコの様子や言動に呆気にとられもしたが、一番驚いていたのは、リカコが自分に対して、猛然と怒り出したことだった。なんなんだ、急に。言いすぎたかもしれないけど、なんでそんな、いきなり。
 ユウトが呆然とリカコの赤い顔を見つめていると、急に、遠近感が狂った。リカコが、自分から遠のいたようだった。瞬きをしたが、元に戻らず、じっと目を開けていると、わかった。遠近感が狂っているのではない。目の前のリカコのからだが、縮みはじめているのだった。
 ユウトは、うろの中の動物を思い出した。暗くじめっとしたうろの中で、硬い毛で覆われたからだを丸め、じっと息をひそめる不気味な小動物を。急に、怖気立った。駄目だ、止まれ! 強く念じると、いつもどおりのリカコがそこにあった。リカコはユウトに馬乗りになったまま、ユウトのシャツから手を離すと両手で顔を覆い、うえっ、うえっ、と泣き出した。
 ユウトは、泣いているリカコをぼうっと見上げていた。リカコの白い腕には、柔らかい産毛が生えている。マナベミユの泣き顔が浮かんできてリカコと重なった。なんで一日に二回も泣かれなきゃいけないんだと思いながら、上半身を起こした。
「ごめんって。そんなに怒らなくてもいいじゃん。オレ、言いすぎたよ。それに今日、バラがどうのって、無視したのもいけなかった……よ、ね? ほんとごめん。謝るよ」
 リカコは泣きやまない。ソファの上で、ユウトのスマホが鳴った。メッセージだ。誰だよこんなときに。ユウトは心の中でメッセージの送り主を呪い怒りをぶつける。リカコはその音を聴くと、ビクッとからだを震わせ、息を止めたかのようにユウトの上でじっと固まっていたが、しばらくすると再びしくしくと泣き出し、しまいには嗚咽しだした。何かぼそぼそと話すので、ユウトが「何?」と訊き返すと、「…たい」と言ってくる。「ん? 何?」ともう一度、優しく訊き返すと、
「へんたいよなかにかくれてえろびでおみやがって」
 と、ユウトを睨みつけて言った。
 マナベミユの裸体が思い出される。茶髪のマナベミユは気持ちよさそうにカメラの前で腰を振っている。違うんだあれは、と言いたいが、ユウトは何も言えなかった。リカコはヒクッ、と嗚咽しながら爪を噛みだした。ギリッ、ギリッ。不快な音が響く。胸元からはトマトの匂いがする。ユウトはそんなリカコを見て、もう慣れた、と思った。リカコの背後から、フォトスタンドの中で幸せそうに微笑む二人がユウトを見つめている。ユウトは、はあ、とため息をついて再び床に倒れこむ。リカコの産毛は太く硬くなっている。
 ユウトは天井の壁紙のおうとつをぼんやりと見つめている。明日から、マナベミユとどう接したらいいんだろう。こんなときに思い浮かぶのはそんなことだった。明日出勤して、「おはよう」のあとに、なんて言ったらいいんだろう。
 変態をはじめたリカコには気づかぬまま、ユウトは、そのあとに継ぐべき言葉を、漠然と探し続けている。

 (了)

400字詰め原稿用紙 約120枚

***
読んで下さり、ありがとうございました。この作品を書いたのは、2015年のことで、はじめて、100枚以上綴ることができた作品でした。いつか、誰かの心に響く作品を出現させられたら、と、今も習作を書いています。

ありがとうございました。

isomurayui

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