自由とは-今後、「社会」はどうなるか

自由とはなにか、現時点での私なりの考えをまとめておこうと思う。

マキャベリの君主論を読んでいると「君主がその領地を上手に統治しなかった場合、民衆は自由を勝ち取ることを名目に反乱を起こす」というような記述があった。
そこでふと考えた。自由とはなにか。
フランス革命、アメリカ独立戦争は自由を勝ち取った戦争だと、歴史に疎い筆者はなんとなくそんな印象を持っていた。
独裁的な王家からの、また、宗主国からの独立は「自由への第一歩」なのだろうか?
そもそも前提として、筆者は極端な合理主義者であり一般に発達障害かつサイコパスと区分される思考特性を持っていることは自覚している。
早い話が社会や常識、普通という概念の実在をあまり信じていない。
そこに存在するのは常に個々人であり、その集合の特性を考える際に便利な道具、程度に思っている。
(ミクロな素電荷の集合運動を都合よく記述するためにマクロな電流を考えるようなもの)
さて、本題に戻る。
かつてフランスの民衆は革命の末にフランス王家から解放されたが、果たしてこれが自由なのか。
一介の市民にとっては統治者が王家だろうが民主的に決定された政権だろうがあまり関係ないのではないだろうか。
民主主義は「国民に選出された、国民の代表」による政治を行うが、これは国民総意を取りまとめることが事実上不可能であることに因る。
また、多数決では少数派の意見は軽んじられることとなる。
個々人にとって、特に少数派の人間にとっては自分の預かり知らぬところで、もしくは反対意見を持っていたとしても制度上、多数派を覆すことが大変困難な状況で、他人が勝手にルールを決めているようなものではないか。
その意味では独裁国家であっても民主主義国家であっても統治者が誰であろうと、多くの、社会への影響力に乏しい一般市民にとってはあまり重要ではないとも言える。
では統治者を持たない民族ではどうか。
アマゾン川流域のピダハン族(ピラハとも)はその文化の特異性からよく知られている。
彼らは族長を持たず、法律もない。来年どころか明日のことにさえ頓着せず、「今」だけを生きているらしい。食べ物を備蓄することはなく、農耕もしない。お腹が空いたら狩りに行く。寝たい時に寝て食べたい時に食べ踊りたい時に踊る、とされている。彼らは近代的なストレスにさらされることなく生きており、笑顔を指標にしたある種の幸福度も高いそうだ。
ただ、私を含む近代的な価値観で育った「先進国」の人類には、熱帯雨林の中の暮らしは些か受け入れられるものではないだろう。テレビや映画はもちろんなく、食べるものも自給自足。医療もなければ自動車もなく、家屋は風雨を何とか凌ぐ程度である。誰にも何も指図されず、自分の意思で生きる、といえば一種の「自由」のように思えるが、フランス革命を起こした市民らも恐らくは近代文明を捨てて熱帯雨林に引き篭もりたいとは考えていなかっただろう。
誰にも何も制限されない、ルールがないことを自由と呼ぶのであれば人間はそれぞれがひとりだけで生きていく他ない。自分と全く同じ人間はふたりと存在せず、二者間であらゆる事柄についての意見が完全に一致することはあり得ないためである。
今更ながら、自由について議論するためには一度「自由」を定義する必要がありそうだ。本論では自由を「個々人が不快に思う度合いを超えて、他の何にもその言動、思想を制限されない状態」としたい。このくらいの定義が現代的な「自由」の感覚に近いのではないだろうか。さて、この「我儘な自由」が許容されるのはどういう社会だろうか。
この手の文章の例に漏れず、正しい答えが存在しない、ないし人の数だけ存在するような問いに対して筆者は「最善策」を提示するようなことはしない。
さて、私は先程、社会について「自分の知らないうちに他人が勝手にルールを決めているようなもの」と表現した。簡単に考えれば、例えばサッカーのルールに納得できない場合、解決策は大きく下記の3つである。
①そういうルールだと納得する
②ルールを改正するよう働きかける
③サッカーをプレイしない(他のスポーツをプレイする)
これらを現代社会における一国内に置き換えると、①は私を含めた大多数の市民、②は政治家、③は法律の違う諸外国に暮らす人々にあたるだろう。
①②の対処は現に世界中で実践されており、上で述べた通り、民衆すべての意見を汲むことはできない。となれば、③の選択肢を増やす働きかけはどうだろうか?
国家における、気候や土地の性質、法律、国民性、その他種々のパラメータを、その国で暮らす上での、まるでスポーツの「ルール」のように比較検討し、好みの国籍を取得(好きなスポーツをプレイ)できるようような仕組みは面白そうだ。野球をしたい人は野球の国、サッカーをしたい人はサッカーの国に住む。
現実には土地や資源、文化の兼ね合いもあり、そこまで自由度の高い「世界統一国家」は存在し得ないだろうが、統治者が変わろうが国名が変わろうが、人は共同で生きていく限り、他者に決められるルールから逃れることは難しい。
文明、文化は人の集団と安定した生活から発生し、個々人が最大限に尊重される自由とはトレードオフだ。
このくらいが「鳥籠の中」で望める「最大限で最小の自由」ではないだろうか。

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