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終わらぬ神話

まだ中学生の頃の話だ。
友達づくりと部活選びに大失敗して、筆箱には砂、給食のカレーにはクエン酸が入れられる立ち位置になった。
これはいじめ? いや、いじってるだけっしょ。
やる側と傍観者たちがギリギリ共有できるラインで笑いものになる最悪なミドルウィーク。当然やられてるこっちは何も面白くない。
その頃からテレビをほとんど見なくなった。話し相手がいないのだから、話を合わせる必要もない。それに、「あいつらが見てるものなんか」っていう些細な対抗意識もあった。小せぇよなぁ、自分。
今思うと、その頃にすべては始まっていたのだ。

それから10年目の秋、あちこちのスポーツ新聞にショッキングな見出しが並んだ。
いつか必ずくる出来事だとわかっていたが、それが今だとは思わなかった。大半のサポーターはそんな感じで、ただただ呆然と現実を漂っていたように思う。例に漏れずわたしもそうだった。だってそう簡単に受け入れられるはずがないじゃないか。
遠藤保仁、移籍。
ヤットがガンバに居なくなる。大事な事だからもう一度言おう。
背番号7が、居なくなるのだ。

入団は2001年。横浜フリューゲルス、京都パープルサンガを経て、3クラブ目。いつの間にか在籍20年目のシーズンを迎えていた。言うまでもなくガンバ大阪の『』。そして同時に『入り口』だったのではないかと思っている。
2010年の南アフリカW杯からアジア杯優勝の辺りで、サッカー日本代表人気は最高潮になった。一際注目を集めたのは、泣く子も黙るケイスケホンダと、甘いマスクの内田篤人か。他にも長友、岡崎など豪華タレント揃い。長谷部誠が心を整えてたのもこの頃だ。
その古き良き日本代表で『心臓』とまで呼ばれていたのが誰かは、言わずともわかるだろう。南アフリカW杯で完璧なフリーキックを押し込んだ男。ヤットさんだ。
あの日本代表メンバーでは確実に玄人好みの選手だったが、クラブでは問答無用の中心選手。南アの軌道に惚れたわたしは、ヤットさんを追いかけてガンバ大阪のファンになった。背番号7はガンバ大阪の入り口だった。

もう10年ファンなのに、遠藤のユニは買ったことがなかった。
今買わなくてもそう簡単にはいなくならないと思い込んでいたのだ。本人は出場機会を重視していたのも知っている。クラブに骨を埋めるよりも自分の限界を追う選手だとわかっていた。いつかくること。そのいつかが思ったより早かった。それだけだ。それだけなのに、なんでこんなに泣けるんだろう。
慌てて7番のユニをポチり、考える。もしもあの時ヤットさんの存在を知らなかったら、どうなってたのか。
中学生、見えてる世界は狭かった。せっせと日本代表とコラボしていたキリンラブズスポーツを買って、ラベルの遠藤を切り抜いていた13歳。高校を、同級生がほとんどいかない私立に決め、「この街を出て、遠藤を見にスタジアムへ行く」と受験勉強に励んでいた14歳。もしあの頃に遠藤保仁という存在がなかったら、わたしはあの地獄みたいな中学校で、腐るか首を括っていたと思う。ヤットさんは悩める中学生のわたしにとって、唯一神であった。

神はもういない。あれから半年、思ったよりも引きずらないものだと驚いている。それはぽっかり空いた穴の埋め方をこの10年で知ったからであり、遠藤保仁は神ではなく、一人の最高にカッコイイサッカー選手だと、とっくにわかっているからだ。
それでもやっぱり信じている。少し猫背の背中に7番が再び輝く日を。何せまだ期限付き移籍なのだ。受け入れはしても、希望は捨てるわけじゃない。
あと1年待っているから、きっとまた、完璧な軌道のゴールを見せてくれよ。ヤットさんが点を取った日は、どんな平日だって最高のミドルウィークになるのだから。

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