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自分の願う自分をつくって

 紙の日記を本格的につけるようになって、自分は話にオチをつけたがる人間なのだと悟りました。

 紙の日記は誰に見せるわけでもない、流れも収束も無視してただ思いついたことを垂れ流すことが自然とできるわけで、軽やかに綴っていくことができます。けれど例えばこうやってnoteなどを書く時には、誰か一人でも見る人がいてくれるかもしれないと思った途端に、作為がほんの少しずつ自由だったはずの文章に溶け込んでいきます。

 仕事柄、数分の小話やスピーチをすることも多いのですが、そういう時でも最後にどうまとめるか、どういう繋がりを描こうか、ぐずぐず企んでしまいます。原稿を用意することはあまりないにも関わらず、話し始めてから終わりに至るまでにこんなことばかり頭で考えているのは、やはり習性というものなのでしょう。

 ようは格好をつけたいだけなのですが。

 何かを披露する人の中には「見てくれる人の時間をもらったからには出来うる限りの工夫や努力を凝らさなければならない」と考える人もいるのかもしれません。謙虚さを常に忘れないためにその考えを大切にしている人は立派だと思うのですが、時々それ以外の気持ちを混ぜているにもかかわらず綺麗に見せるために語りだす人も中にはいます。そういうのはあまり信用できないというか、個人的にとてもきらいで。自分の「見てほしい」という欲望は個人が抱くだけのもののはずなのに、それに他人を巻き込むのはとても卑怯な感じがします。

 見てくれる人に、少しでもすごいと思ってほしい。そう思ってもらえるような自分でありたいと、誰よりも自分自身が願っている。

 他人の目を意識した、なりたい自分を描き出すことが、オチをつけたがる習性のもとになっているのだと気づいたわけで、それを今回は書こうと決めたわけですが、どうやって収束させればいいのかここにきてとんと見当もつかなくなって、そのままオチもない形で書いて公開までしてしまおうと目論んで、甚だ矛盾しているのをわかりながら力尽きてしまうという不甲斐無さ。

 いいの、自己満足なんだからと言えてしまえたら正直でいいのですが。

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