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俺と手稲山

豊平川以西の札幌市民と石狩市民の大半が日々仰ぐ手稲山が札幌最高峰だと、かなり長い間信じて疑わなかった。どうして石狩平野に隈なく電波を届けるアンテナの佇立する手稲山が高くないなどと言い得るのだろうか、今やテレビ放映には全く役立っていないテレビ塔(*5)よりよほど偉大な札幌のシンボルではなのではないか?……とすら思っていた。

ファイターズの試合観戦のために地下鉄東豊線に乗るか、遠方に出かけるため道央道に乗るか、いずれにせよ気づかぬ間にアッサリ通過する以外でしっかりと豊平川を渡ったことの経験の無かった俺は愛する故郷・札幌に手稲山の見えない土地(*1)が存在するなどとは思いもよらなかったくらいなのだ。
その思い込みは南幌温泉からの帰路、遥か遠く(*2)に夕日の沈む手稲山を視認した神聖な体験により、より強化された。

ちなみにその憧れの手稲山に初めて登ったのが2009年の初夏のことだった。あまりに日差しが強いので目指す山頂の姿が白んで見えたレベル。祖父の先導で今まで滑ったことのない(はず)の手稲ハイランドのスキーコースをくねくね登り、途中何度か休みつつも山頂付近のリフト降り場のへりに腰を下ろした時の感動は忘れられない。

普段航空写真でしか拝めない札幌の街を一望できるという体験はなかなかのものであった。思わず山頂までと取っておいたおにぎりを食べてしまいそうになるほどだった。しかし山頂までは少し距離がある。リフト降り場があることから分かる通り、ここから先はアンテナが林立するエリアで、スキー場の外となる。当然坂も緩い。こうも坂が緩いとかえって走るわけでもなく、ゆっくりと歩きたくなるのが人情というもので、「もうすぐ山頂に到達する」喜びを一歩一歩踏みしめながら登ったものだ。

ついに山頂に到達すると、見えたのは意外なことに(?)山ばかりで、札幌の向こうの小樽はよく見えなかった。そして辺りを一望し、手稲山に向かって幾筋もの線が延びている(*2)土地、石狩(花川)や札幌市、石狩平野の向こうの石狩川の蛇行が果てる地平線までが視界に収まることに満足し、余計に豊平川右岸のサッポロに対する興味関心を抱かなくなってしまった。(その悪癖は北海学園大学豊平キャンパスに週6回足繫く通う日々が始まるまで続いた)
なんせ手稲山の標高は1037m。ほぼピッタリ1000mくらいなのだから、やたらとデカい富士山と同じくらい偉大な山だとこの頃から信じるようになる。

それからは余計に手稲山に耽溺する日々が始まった。手稲山の威容を知り、小樽へ行く電車の車窓から眺めた時にそれを確信した。
手稲山はその頂の手前にもうひとつの山を有する。その名はネオパラ山。遠近法により手稲駅に近づけば近づくほどネオパラ山は視界の左へ飛び去り、その奥の手稲山はゆったりと動く。そう見える。それを見るのが大好きだ。

手稲山は道内最高峰の半分程度の標高ながら、石狩平野を見渡せるほど大きくて、それなのに身近に横たわっている。これを見つつ新琴似町を通って高校に通うのも好きだった。

かのクラークと札幌農学校の生徒たちも登り、『都ぞ弥生』にも歌われた手稲山。円山でも藻岩山でもなく、手稲山をこそ、俺は大札幌のシンボルに推したい。

手稲山を見つつ距離と方角を測るのもよいだろう。
俺の今の夢は札幌最高峰の余市岳から手稲山を俯瞰してみることだ。


*1……直線距離にして33.11km

*2……「山当て」という日本伝統?の区画法

*3……サムネは札幌市のHPから

*4……手稲山には札幌五輪の聖火台もある

*5……テレビ塔が竣工したのは1957年のことだが、その前年にHBCが手稲山を開拓し、テレビ放映を開始していた。絶妙なタイミングでいらない子扱いされずに済んだテレビ塔(2局しかいなかった)だが、1969年にSTVが手稲山に移転して以来、一部のラジオ局の電波のみを扱う「ラジオ塔」となっていることはあまり知られていない。観光施設としては戦後有数の大成功を収めたのでよかったけどね。

*6……こんなに手稲山が好きなのにTwitterで「手稲山」と呟いたことはないらしいってマジ…??

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