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シリーズ 北海学園大学新聞の戦後史:第1回(1952年) 昇る朝日に光をあびて伸びよ賛えよ北海

警察予備隊が保安隊へ改組した1952年(昭和27年)、北海短期大学を経営する学校法人北海学園は北海学園大学の開学へとこぎ着けた。
独立した校舎も無いけど、とにかく北海道初の四年制私立大学が誕生したのだ。

ちなみに前号から今号の発刊までの間に住所が「札幌市豊平町八条七丁目六○」から「札幌市旭町八丁目六○」と変わったのにお気づきだろうか。ちなみに現在は「札幌市豊平区旭町四丁目一-四○」なので、地味にそこそこの頻度で変わっていることになる。
「旭町」の地名の由来は通常、この周辺で栽培されていたリンゴの品種名に由来するとされている。
だが、何にせよ大学開学とほぼ同時期に「旭町」が誕生したことと、本学第一応援歌一番の一節「昇る朝日に光をあびて伸びよ賛えよ北海」に関係が無いとは断言出来ないだろう。

同応援歌三番の「青いインテリや点取り虫と ちょいと違うぞ北海」の一節もそうだが、その若さに身を委ね、北大等への対抗意識を燃やしつつ生まれた本学の歴史に思いを馳せてみるのもよいだろう。

北海学園大学新聞創刊号(1952年10月18日)見出

・道内唯一の私大の発足を祝(ほ)ぐ/開拓者精神を行動原理に/北海学園大学開学記念祭典
 ・本学の躍進/校舎建築と夜間部
 ・発刊を祝す/学長 上原轍三郎
・大学に学ぶ者と/社会の負荷に応えるもの(学生自治活動に関連して)(補導部長 池田善長)
・日本人たることとの誇り(論説)
・戸津名誉学園長の胸像の完成近し
・新聞の発刊を祝して/理事長 佐藤吉蔵
・開発問題の講演/本学教授の活躍
・学生部長会議開く/本学池田教授が出席
・晴好雨奇
・「現代世界史」講義(告知)

裏面
・座談会 政治と学生/盲従性を排除/あくまでも主体的に
 ・破防法は当然/自由には責任を
   ・安定化への要望/候補者よ謙虚たれ
・バーナード・ショウを回想して(宮下幸太郎)
・映画紹介/青いヴェール
・現代の脅威を形成するもの/ブルガリヤにおける三つの事実(三森定男)
・ディズニークラブ/全国に発足
・北大で映画を製作(北大新)
・会告!!
・全道学生写真展開く(北大文化新聞発)

①道内唯一の私大の発足を祝(ほ)ぐ

ついに誕生した北海学園大学。その式典はどのような模様であったか、追う。

堅実なる経営と卓越せる教授陣容は(中略)道内はもとより東北地方に北海学園大学の名を高からしている(後略)

なかなかの自信だ。今の新聞会もどうせ記事内容に関して大学学生部の介入を受けているのだから、これくらい歯の浮くような文章を書いて我らが学園を称揚してほしいものだ。
この頃は東北にゃ私学は東北学院大学(1949年開学)しかなかったような時代だったので、札幌の私学が東北にもリーチしていたのだろう。
式典内では札幌市民ホールにて東北北海道高校弁論大会が開催されている。これ以降も東北と北海道の関係深化に貢献してくれたなら、東京一極集中に対するある程度のストッパー足り得たのだろうか。

さて、次は式典の様子を見てみよう。内容は講演・音楽(ピアノ)・映画の夕(『蛇の穴』とかいうよう分からん映画。多分暗い内容)と実に「文化的」だ。
記事中に「本学のもつ高い文化性を実用性とを遺憾なく発揮したプログラムといってよい。」とあるし、とにかく当時は大学生ならエリートであり、文化的でなくてはならないという意識があったのだろう。
その他にも全学レクリエーションと演劇部第一回公演(技術的には未熟だったようだ)が開催されている。

②日本人たることとの誇り(論説)

個人的には創刊号で一番好きな記事。内容は1945年1月にアメリカの地理学者ハンチントン氏
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3)
の「文明の原動力」(実業之日本社)の書の中にある「日本の有名な教授による智能係数の点から各国民の地位を定めた報告」を引用し、その日本人第一位、ドイツ人第二位、イギリス人第三位という結果に対する批判とともに(当時アメリカと交戦中だった)日本人について十分に科学的調査を行い得る、アメリカ人やユダヤ人とも肩を並べ得る国民だとした研究を引用し、敗戦後自らを「四等国民」と称していた(そして平和条約締結後には民族主義者になったらしい)知識人・文化人の類いを批判し正当に自らを認識し、国際バーバリズムを排して日本人に誇りを持とうというようなものだ。

時勢のノリに流されず学問を貫いたハンチントン氏に敬意を払いつつ独立回復期に揺るがない誇りを持とうとする。これほど大学新聞に相応しい論説があるだろうか。このような記事が創刊号に掲載されたことは北海学園大学新聞70年の誇り足り得るだろう。

③座談会 政治と学生

全体的にはやや反共チックなこの座談会。プチブルのご令息らの通う当時の北海学園大学の校風を象徴するかのようだ。
以下、特徴的な一節を引用し、軽めのコメントを付け加える。

「S―共産党の人々は日本の子供を守りましょうといっていた。日本人を第三人者扱いしている。彼等が日本人でない証拠自ら暴露したものだ」

これは日本共産党がソ連共産党(というかコミンフォルム)の指示で動いていた当時の世相が窺える内容だろう。後に日本共産党はソ連崩壊に際して巨悪のなんちゃらを諸手を挙げて歓迎するとかコメントし、北方領土問題に関しては全千島の返還を要求するようになった。

その点(*空間的契機の重視の必要性)から大学もまた地域社会の一環をなすものであるから空間的契機の支配をうける。地域的制約を蒙る。本学は北海道という地域的制約を蒙る。従って我々は北海道という地域的条件を通じて社会的政治的に経験することが必要である

本学の精神は開拓者精神である。
我々は、開学から現在に至るまでの70年間ずっと学生のほとんどが北海道民であり、就職先もまた道内であるというような大学の学生である。

我々はどうしようもなく学園生である限り、どうしようもなく道民でもあり続けるわけで、「北海道」そのものに背負わされている(背負っている)「開拓の地」というキャラクターを人の身に宿すための機関のひとつの学生であるとすら言えるのだ。

しかし我々の多くは「滑り止め」という現実的妥協から本学への進学を選択し、「学園から道外への就職は難しい」と言う。

これでは「開拓者精神」という名の「道民化」、もしくは北海道の社会経済をデザインする亜インテリとなるための精神を学びえず、ただ利害のために生きているようで、なぜか北海道からは出ない不甲斐ない道産子を排出するばかりだ。

むろん、これは建学の精神からは外れるのだけど、こうやってなんとなく地域に残り、地域に貢献することこそ健全な郷土愛のひとつの在り方なのかもしれない。

④戸津名誉学園長の胸像の完成近し

浅羽靖亡き後の北海学園もとい苗邨学園を牽引し、札幌商業学校と札幌豊陵工業学校の設立に携わった戸津高知。

戦後の公職追放の流れによって名目上は学園の理事長の座を追われた彼の胸像があるとは知らず、元記事を読んでからこの件がどうなったのかとネットで調べても現物の写真が出てこない。

仕方なくWikipediaに頼ったところ、どうやら札商もとい北海学園札幌高校の校庭にあるらしいと判明(?)した。
本当に同地に存在するのかは分からないので証言を待っている。

胸像について妄想する。札商の校庭に戸津胸像を作ろうとしたのは北海高校の前の浅羽ちゃん像の対になる存在にしようとしたからではないかと。
もしも、そのロジックが本当だとすると、本学の代表は大学と関係ない南部忠平ということになるが大丈夫だろうか?
諸君が上原初代学長は北大からの輸入品だからいやだ!と言うなら北海学園大学一期生(だっけ?)にして半世紀以上学園に君臨した森本前理事長などいかがか?
それでも胸像向きのビジュアルじゃないとか言う輩がいるなら、我らが敬愛する北海学園大学学長兼学校法人北海学園理事長であらせられる安酸様などはいかがだろうか????????最高だぜ?????????


⑤北大で映画を製作(北大新)

北大の映画制作の記事を転載するなんて初期学園、どんだけ北大の精神的植民地なんだよ……などと憂慮していたが、どうやら本邦初の学生制作映画(ほんとう?)らしい。
北日本旺映社とかいう詳細不明の会社の協力を得つつ、技術提供は北日本映画社(現存か?)だというからわからない。タイトルもわからないし、そもそも完成したかもわからない。全学生からシナリオを募集していたくらいだし芸術性は二の次だったのだろう。

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