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悪魔のサンタクロース〜ネタバレ感想〜

凪だ。これは凪だ。

もうなんのやる気も起きない時間が、かれこれ1ヶ月ぐらい続いている。ここで勘違いして欲しくないのは、「仕事はそこそこにやっている」ということなのだが、仕事以外のこととなるとてんでやる気が起こらない。何より外に出ようという気分にならなくてだな、頑張って出たところで飲み屋で泥酔して二日酔いになるというふうにロクでもないこと夥しい今日この頃。完全なる凪である。まぁ、これまで20数年、凪ってない時の方が短いと断言できる程度には無気力な生活を送ってきてはいるが、これはどうしたものか。しょうがないから家で映画を観るほかない。人生より映画の方がずっと楽しい。

と言うわけで最近観た面白映画の話を。今回は「悪魔のサンタクロース 惨殺の斧」である。季節感がバグっているのはどうか見逃してほしい。いや、「ハロウィン」も「ロッキー・ホラー・ショー」も「13日の金曜日」も季節など関係なく年中観るわけだから、俺がバグっているわけではない。

さて「悪魔のサンタクロース 惨殺の斧」であるが、これは軽薄に作られたただの祝日ホラーなどではない....とカッコいいことのひとつも言いたいところであるが、これはまごうことなき「軽薄な祝日ホラー」である。サンクロースの格好をした殺人鬼が人をぶち殺して周る、以上。といった趣のスラッシャーホラーであるのだがその実、周到な人間ドラマが描かれた秀作であると言ってよいだろう。「バカな若者が殺人鬼に血祭りに挙げられることで溜飲を下ろす」タイプの爽快なスラッシャーホラーとは少々、味付けが違う。むしろ極めて陰鬱で重い後味を残す作品だ。

本作を語る上で欠かせない要素としては、「公開2週目にして上映中止措置を受けた曰く付きの作品」ということが外せないだろう。と言うのも、サンタクロースが殺人を犯す-という内容がPTAやキリスト教団体から猛烈な非難を浴びたからだ。「サンタが人を殺すなんて冒涜的だ!!」といった具合に連中は怒り狂ったわけだが、「冒涜的」などという理由で創作物に対して怒りを表明する人間は、決まって頭の何処かがおかしかったりする。また、この手の団体の「話の分からなさ」にはいつの時代も驚かされることばかりだ。「創作と現実の区別がついてないのはそちらではないか」と嫌味のひとつでも言いたくなってしまう。クリスマスを題材にしたスラッシャーホラーというと何も本作が初めてではない。本作以前には「暗闇にベルが鳴る」「サンタが殺しにやってくる」といった佳作があったわけだが、本作のような論争を引き起こすことはなかった。内容的にも、本作がとりわけ「過激で、冒涜的な作品」だとは思えない。しかし、なぜここまで苛烈なバッシングに晒されたのか?というと、コロンビア・ピクチャー傘下のトライスターという製作会社による「メジャー作品」であったことが大きい。また80年代の低予算ホラーブームも相まって悪目立ちしてしまった感は否めない。製作者としても上映前からのボイコット運動には面食らってしまったという。当然ながらソフト化されることもなく葬られた不運な映画であったのだが、2000年代後半から各国でちょこちょこソフト化され、2021年になって晴れて日本盤Blu-rayが発売されることとなった。時代が進むと多少は良いこともあるものだ。

さて、本作のお話は1971年から始まる。陰鬱なオープニングタイトルが終わり、家族4人のドライヴが始まる。向かう先はユタ州の精神病院。一家は幼い兄弟(兄のビリーはおそらく5、6歳、弟のリッキーはまだ赤子だ)を後部座席に乗せ、クリスマスイヴの田舎道を走る。病院には年老いて精神を病んだ祖父がいるのだが、こいつが主人公・ビリーにとっての第一の元凶となるとんでもないクソジジイであった。このクソジジイは家族が話しかけても、目を宙に泳がせ無反応を突き通しているばかりなのだが家族が席を外し、ビリーと2人きりになった瞬間、突然スイッチが入ったかのように喋り出すのだ。睨みを効かせながら「サンタってのはなぁ...クリスマスの夜になると悪い子を懲らしめにやって来るだぞぉ」と根も葉もないデマ情報をビリーに吹き込むクソジジイ。家族が戻って来ると、さっきまでの饒舌っぷりが嘘だったかのように定位置に戻ってしまう。そんなジジイの面倒を見ていても仕方がないので、さっさと帰路に着く一家であったが、その道中の彼らに悲劇が襲う。サンタの格好をした強盗に父と母が惨殺されてしまうのだ。命からがら生き残ったビリーと赤子のリッキーは孤児院へと送られることになる。この1日の出来事がビリーに深いトラウマを残すこととなる。

時は経ち1974年。孤児院で暮らすビリーは抑圧的なシスターに苦しめられていた。こいつがビリーにとっての第二の元凶となるクソババアである。あまり「クソジジイ」やら「クソババア」といった言葉は使いたくないのだが、この連中は「クソジジイ」もしくは「クソババア」としか形容出来ない程に、「クソジジイ」であり「クソババア」であるので、汚い言葉遣いを許して欲しい。何はともあれ、心に深い傷を負ったビリーはクリスマスが近づくと情緒不安定になる。サンタとトナカイが惨殺されている絵を描いて周囲をドン引きさせているビリーに対してこのクソババアは取り付く島もなく、「躾」と称しベルトで尻を叩き抑圧していく。また「ピューリタニズムここにあり」といった様子で潔癖かつ禁欲的な教育を施し、ビリーに「セックスに対する悪感情」を植え付ける。こうした日常により、ビリーの心の傷はより深く抉られていく。

このようにつらつらと書いていることから分かるように、この映画普通のスラッシャー映画にしては惨劇までの前置きが長い。丁寧であるとも言うべきか。と言うのも、本作はビリーが物語の主人公でありながらスラッシャーでもあるという珍しい設定になっているからだ。大概のスラッシャー映画は、この2つが分離しているのだが、本作はビリーがスラッシャーに至るまでの過程を丁寧すぎるほど細かく描いていく。幼い頃の悲劇と抑圧的なピューリタニズムが、彼にトラウマを植え付けていく様は陰鬱としか表現出来ず、まさしく「不幸の幕内弁当」というような様相を呈している。観ているだけで鬱々として来ること間違いなしだ。ここまででも、スラッシャー映画としてはだいぶ特異な感触を持った作品であることが分かるだろう。

ここからが本番である。さらに時は経ち1984年。青年になったビリーは孤児院のシスターの口利きでおもちゃ屋の倉庫係の職を得る。ちなみに、口利きをしたシスターは唯一ビリーに対して優しさを持って接した良心的な人物なのだが、ここに来て「クリスマスにトラウマがあることを知っていながら、ビリーをおもちゃ屋に就職させる」という大ポカをやらかしている。おもちゃ屋などクリスマスの最前線ではないか!人は良くてもとんでもない間抜けである。しかし不幸な育ちながら、気風の良い好青年に育ったビリーは同僚からも好かれ、身を粉にして働く。しかし、今年もやって来るクリスマス.....徐々に様子がおかしくなってくるビリー。そしてクリスマスイヴの夜、ついに彼のトラウマが爆発し、惨劇の幕が上がるのであった。

本作は前述した「惨劇に至るまでの周到なセッティング」が後半までよく効いている。それ故に「深く傷付いた人間の復讐譚」という(復讐の相手はもちろん孤児院のクソババアだ)、一本筋の通った極太の物語が中盤以降、輪郭をあらわにする。一方、本作はスラッシャー映画である、という「ジャンル映画」としての要請がストーリーテリングとの落差を産んでしまっている部分がある。やはりスラッシャー映画である以上、「それなりの人数」が「面白おかしく」殺される「サービス殺人」がないと始まらないわけだ。その意味で言うと本作は、終盤に差し掛かったあたりで一気にボディカウントを稼ぎだすきらいがあり、シーン自体は創意工夫に富んだ面白いものなのだが、その反面ストーリーが停滞してしまうのが惜しい。それらが必ずしもストーリーやビリーのトラウマと結びついていないとも言い切れないのだが、構成としてあまりスマートとは思えない形でサービス殺人シーンが訪れるので、印象としてはストーリーに停滞感が漂ってしまう。

一方、「可哀想な人物」を主人公としたことで、「殺人鬼の視点を共有させられる」というスラッシャー映画の定石は(ソフトな形ではあるが)守られている。他のスラッシャー映画の殺人鬼に比べ、ビリーは共感性が高いからだ。スラッシャー映画は安全圏から観ている観客の視点とスラッシャーの視点を強引に共有する。そうすることによって、心に去来する「(怖いもの見たさの欲望や卑近さに代表される)後ろめたい『何か』」を楽しむジャンルだと言っていい。と同時に、スラッシャー映画が一部の人間から忌避されるのは、そういった「視点の強引な共有」それ自体が「暴力」として立ち現れるからだろう。

ビリーの復讐譚は終盤にかけて然るべき盛り上がりを見せていく。不幸と抑圧に支配されたビリーが一矢報いるのか....という寸前で彼の復讐は成就されない。背後から銃撃され、殺したいほど憎かったクソババアに見下ろされながら絶命する可哀想なビリー。最後まで後味の悪い話である。ビリーの念願は、彼の死に際を側で目の当たりにした弟・リッキーに託されたのであった.....というのは2作目「悪魔のサンタクロース 鮮血のメリークリスマス」のお話。

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