見出し画像

揺らぎのない毎日なんて

会社の最寄駅、ホームの定位置に立って電車を待つ間に、ワイヤレスイヤホンを両耳に押し込む。そのまま音楽も再生せずじっとしている。乗り換えに都合がいい場所を選んで毎日そこに立つのだが、誰でも考えることは同じで、そのあたりの車両はいつもやたらと混雑する。今日は一本早いから混まないと踏んでいたんだけどな。出入口付近で明らかに人が溜まっていてぎゅう詰めになっているのに、少しも奥に詰めようとせずに悠々と座席の前に立ってスマホいじってるアイツらが大嫌いで、律儀に毎回睨んでしまう。こういう時、私は一生大人になんかならなくていいやと思う。人に迷惑かけられても涼しい顔してすべて飲み込むのが大人なら、私は一生クソガキでいてやるよ。周り見ろよ馬鹿が、という気持ちを視線に込めてみるが、人の視線を敏感に察知できるような人間なら、そもそもこんな傍迷惑な行動をとることはない。こちらだけが平静を奪われて終わる。無音のイヤホンがただの耳栓と化してることを思い出し、サカナクションを再生する。

大きめの地震があっても平然としている職場の人たちは、大半が東京周辺の出身で、「停電で電車が止まって自宅に帰るのが大変だった」のが彼らの震災の体験で、仕事ぶりを尊敬している同僚すら、緊急地震速報の警告音を声真似して笑っていて、そういうとこ、本当に嫌い、大嫌い。気持ち悪い。急病人がいても救急車もろくに呼べない大人たち。気持ち悪い。職場にいる時にだけは災害に遭いたくない。こいつらと死にたくない。こいつらのせいで死にたくない。中途入社5年目、この会社で何よりも学んだ教訓は、「自分の身は自分で守らなくてはならない」。仕事だって常にそう。誰も信用できないから自分が強くなるしかなくて、「〇〇さんもこの会社にすっかり逞しくさせられちゃったね」と先輩おねーさんに哀れまれる。私は昔から自分の死に場所にやたらこだわる。「こんなところで死にたくない」と思ったから地元を出たし、「今ここでくたばってたまるかよ」と歯食いしばってきたから今の私がある。生に対する執着が強いから、自分の納得いかないうちには何ひとつ終わらせたくなくて、「死んでたまるか」になるんだろうな。

けど、今ではそこまでカツカツじゃない。生ききらねば、みたいなの、全然ない。以前は人から指摘されるほど人生を急いていたけど、今の自分のままで自分のこと幸せにできると身をもって分かってから、そういうの、風が止まるようにピタリと止んだ。ただ暮らしを愛せる。不思議だ。自分のこと愛せるようになってから、自分のこと愛せていなかった時よりもずっと、目が見えるようになった。こんな自分ではだめだと否定し続けていた時には自分のことしか見えていなくて、雁字搦めになっていたのに、自分のこと愛せるようになったら、見える範囲が広がった。初めてコンタクトレンズつけたときみたいに視界が明るくなった。貰い受ける愛に気がつけるようになった。自分を大事にしてくれる人とそうでない人の区別がつくようになった。火曜日の朝、電話越しに言われた言葉は、私が11年かかって自分で自分にかけてあげられるようになった言葉そのものだった。

日が落ちても蒸し暑くて深く息吸えない。浅いところで息継ぎしている感じが、考え事して眠れない夜とか、肋間神経痛で胸が痛む時と似てる。ぼーっとする。呼吸のことしか考えられなくなる。だからサウナも苦手。そういうのはこれからもなくならないだろう。けど、自分で作ったご飯が美味しい。夕日が眩しいと嬉しい。ちょっと保湿頑張ったら肌の調子が良くなった気がする。涙出るまで笑えることがある。夜安心して眠れる。信じられる人がいる。いつ大丈夫じゃなくなっても私は大丈夫と思える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?