何かを犠牲にすることで果たして何かを得られるのだろうか

今回は【世界から猫が消えたなら】という映画です。あらすじは省略させていただきます。 


人に紹介するとしたら、
「数分毎に【ネコチャンカワイ-】となる映画です。」
と説明します。


それはさておき、
初っ端から大事なもの消し過ぎじゃない?と思った。
電話も、映画も、時計も、
私からしたら、
消されたら生きていけないよ!ムリ!
と思うものばかり。
だけど悪魔に
「命よりは大事でしょ?」
と言われてしまうとうーん…
そうなのかな?と思えてくる
悪魔、罪な奴だなぁ…


でも、いざ消えてみて
(というより消えることが分かって)
『僕』にとってその一つ一つがどれだけ大事だったかが分かる。
それが本当に辛い、心が痛い
涙は出ないけどジーンってくる感じ
心を抉るシーンのある映画はよくありますが、この映画はそれがずっと続きます。
電話、映画、時計、
うわぁ消えんのかあそれ…やめてあげてよ…
っていうのが何度も何度も押し寄せます。


で最後、猫を消すという悪魔。
もうね、
お願いだからやめてくれぇ( i _ i )
ってなったよ。
猫を奪わんでやってくれぇ( i _ i )

彼女もツタヤも人間だから、
『僕』が死ぬこと分かるから、
それぞれに気持ちが動いたりするんだけど、
猫にそれは伝わらない。
無邪気にニャーって言うだけで、
明日を当たり前に待ってる。
それが余計に辛いんです。
だって『僕』に明日は来ないから。


もう一つ印象深いのは、お母さんの思い出。
入院している時、
猫が存在する世界では、
安らかに亡くなっていったけれど、
存在しない世界では泣き叫んでいた。
存在する世界でも、本当はものすごく怖くて、痛かったんだろうなと思う。
それを猫の存在が、
レタスとキャベツが和らげてくれてたんだろうな。
ちなみに私はこの時点でもう、
猫ちゃぁぁぁぁあぁぁん!!!!!!
となってました。

で、猫は消さないことを決めた『僕』。
そして悪魔がもう一人の自分だと気付いて、
生きていたい!死にたくない!って思いが
自分が思ってるよりずっと強かったことを知った。
最初に余命宣告受けたときに、妄想で病院抜け出して叫ぶシーンがあるんですが、
その感情が、本当はずっと心の中にあったんだろう
「案外冷静だ」なんてナレーションが入っていたけど、
お母さん曰く、気を遣いすぎる性格だから
それもあってたぶん、自分も知らないうちに本当の気持ちを隠して、死ぬことが怖い自分を見て見ぬ振りしてたんだろう。

それとやっと向き合えたのは、
彼女、ツタヤ、親、猫との思い出とか、
お母さんの言葉とか、そういう、
本来は身近にあるはずの、
実際には遠くに押しやっていたものに触れられたから。


あ、何かを消せば生きられるっていう設定の辛さも、もしかしたら死ぬことへの怖さに通じるものがあったのかな?
漠然とした怖さに対して、何かしらの希望をもたせて、生きようとしていたのかな。
そして自分で気づかないうちにその世界を作り出してしまっていたのかな。


最後、全てを受け入れることに決めた『僕』は、とても健やかな顔してた。
何よりもね、猫ちゃんがずーっと可愛かったんだ。


で、佐藤健さんは本当にお上手な方ですね、と。
『僕』がだんだん自分の気持ちに素直になっていくところとか、
あの悪魔の嫌らしさ満点の笑顔とか、
同時にあの二役をこなしていたの、本当に凄いなぁと思う。
どう考えてもその辺にいるような方じゃないのに、何故かその辺にいる人間に見えてしまうのは、やっぱり実力ですよね。凄いや。

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