見出し画像

エセクリスチャンだった過去

宗教やってる人って、なんだか怖そうですよね。
僕はよく「あの人は宗教やってる人だ!」と言われます。
この国では、熱心な宗教信仰者というだけで、変な人の烙印を押されるそうです。

かくいう私はキリスト教信仰者でして、クリスチャンとしての旅路を3年以上歩んできました。私が聖書を学び始めた初期の信仰は歪んだものでして、世間の方々が想像する”宗教の人”そのものです。

私がエセクリスチャンだった頃に書いた、高校の卒業文集がこれです。


僕の高校生活を振り返ってみて、問題行動や奇行が多かった生徒でした。西洋医学やローマ法王、マスク、5Gは危険であるとネガティブキャンペーンをしていたこと、国会議員の選挙ポスターの目の前で、小声で「NHKをぶっ壊す」と呟いていたことが主な奇行であったと思います。そのため僕は、一度も同じクラスにならなかった同級生や他学年だとしても認知されており、比較的目立つ生徒でした。校内で見知らぬ生徒に話しかけられることが極めて多く、僕の周囲はいつも賑やかで楽しかったです。
 しかし高校入学当初は、できる限り目立たない穏便な高校生活にしようと意気込んでいました。なぜかというと、その頃は人間関係にに関心がなかったからです。しかしこの高校の生徒が、僕にとって話しやすい人達だったため、その意気込みはすぐに消えました。
 そして僕は十六歳のときに、プロテスタントのクリスチャンになりました。僕は内部進学予定なので、時間に余裕があり、課外活動に割くための時間が生まれました。その課外活動の過程で、僕はクリスチャンになれたのでこの高校に入って本当に良かったと思っています。これは僕の人生の選択の中で、最も重要な選択であったと考えています。
 僕は三年間の集団生活で、人を笑わせることが上手になり、コミュニケーションが人並みにできるようになりました。そして聖書の無謬性に気付け、信仰生活に時間をかけられたため、僕にとって最高の高校生活でした。


うわぁ・・・今読み返すと、とんでもない文章ですね。

私はこのとき、自分の力でイエス様に従おうと試みていました。一切を自分に頼り、聖書の言葉に従おうと努力した結果、高慢になり人の罪を赦せなくなりました。

そして聖書に従うためには、世の中のエンタメや快楽を全て諦める必要があり、そんなこともしたくなかったのです。このときの私にとって、神様の律法に従うことは、縛りプレイをして生きるようなものでした。

しかしながら次第に、自分を頼るのではなく、神様だけに頼り、「律法に従うことを私の喜びとしてください、罪を憎む心を与えてください。」と祈るようになりました。

そして今では、ノンクリスチャンとして生きるよりもクリスチャンとして生きる方が楽しくなったんですね。神様の御言葉に従うことが、自分の幸福になりました。私はこれからも、主にあって御言葉に立ち続けたいと思います。

今日からorangeというブログを始めました。継続して投稿したいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?