見出し画像

神様に従う動機を考える

私は今まで自分のために生きてきましたが、これからは神様のために生きたいです。最近、そのように強く思える出来事がありました。

大変お恥ずかしいばかりですが、宗教的義務感や救いの恵みを失うことを恐れて、神様に従う芽が私の中には残っています。
これが世間の方々が考える、宗教信仰者が神様に献身する動機ではないでしょうか。

ただ今の私は、「神様の喜びになりたい」という動機が大きく育ち、心から喜んで従うことが多くなりました。
ですので、イエス様に従うが故に不利益を被ろうと良いのです。

だってイエス様のことを愛しているから、それが私の原動力だから。

これからもこの動機のままでいたいと切に願います。


私が、神様のために生きたいと心から思えた出来事は、教会の交わりでのことでした。
私が通っている教会には、資産が100億円単位であるのかなってくらいの教会員がいます。
その方の友達が酷い病を患い、3年ほど病床で凄まじい苦しみに合って、自殺を考えていたそうです。

3年間病床で苦しんでいる彼はとても才能に溢れ、病気にかかる前は高慢で人を見下してしまう節があったそうですが、苦しんだ末には、

「この病気が治るのであれば、その後は人のために生きたい。」

と、私はその言葉にとても重みを感じました。
私に、神様が働いている所に関心事が向くアンテナが立っているからでしょうか。

そして彼は、イエス様を知らない上で、そのような事を言っています。

「彼が人のために生きるのであれば、クリスチャンの私は神様のために生きることが常でなければいけないのではないだろうか。」

そう思えたのです。

そして私は病床で苦しんでいる彼に対して、

「彼が御国まで導かれますように。」
「彼がイエス様の子供となり、私たちの家族の一員となれますように。」

と祈ることが習慣になりました。
兄弟姉妹も個々で、彼の癒やしを祈っていました。

奇跡的に彼は、病の状態が好転し始め、回復へと向かっているそうです。
主の癒やしをほめたたえます。

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?