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母のこと

 母のことを書こうと思う。大工の祖父と病弱な祖母の元に、4人姉弟の長女(1番目)として生まれた。

 自衛官の父と25歳でお見合い結婚。2人の子どもに恵まれ、パートをしながら頑張ってきた。

 現在は、私達家族(夫・息子3人・愛犬・私)と同居している。とてもよく働き、よく気付いて動いてくれる。まぁ、孫からは「せわしなく動いて口うるさいばぁさん」だと思われてはいるし、私とも多々衝突しているのも事実なのだが、育ててくれたこと、今こうして家事を手伝ってくれていることに心から感謝している。ありがとう。

幼少期

 祖母は、とても病弱な人だったらしい。心臓が弱かったと思うと話すが、詳細は分からないとのこと。おそらく入院していたと思われるが、あまり家にはいなかったそうだ。

 母は、4人兄弟で、下に妹、弟、末弟がいる。末弟とは7つ違う。

 祖母はあまり家にいない人だったので、妹と弟達の世話は母がしたそうだ。一番下の弟が小さかった時、夜泣きが酷くて泣き止まないことがあった。そんな時は、母が末弟をおぶって、自宅のすぐ裏の河原へ行って、子守唄を歌ってきたせたそうだ。だからなのか、未だに一番下の弟のことは小さいと思っている節があり、もうとっくに還暦を過ぎているのに、「ちゃんと暮らしているのかなぁ?」などと心配することがある。

 祖父も、大工の仕事が忙しかったらしく、帰宅するのは遅かったそうだ。だから、母が妹と弟達の保護者代わりとなり育てたところがあるらしい。が、本人はそれを苦と思ったことはないようで、「多分大変だったんじゃないかと思うけど、よく覚えていないなぁ。」と。

 食事の支度はした記憶もあるけれど、用意されていた記憶もあり、誰がいつ作ってくれたのかも分からないし、自分でどこまで用意したのかも覚えていないとのことだった。

祖父のこと

 大工をする祖父は、とても厳格な人だったそうだ。剣道は師範の腕前で、剣道教室を開ける資格を持っていたらしい。当時、そのような職で食べていけるのは珍しかった時代。それほどの腕前だった祖父だが、大工の道を選んだ。

 病弱な祖母のため、4人の子ども達のために、一生懸命働いていたのではないかと、母は言う。夜遅くまで帰ってこなかったから、あまり祖父と関りがなかったような気がするとも。

 しかし、4人兄弟の長女だった母はとても厳しく躾けられたようだ。いろいろなことを禁じられたそうだが、祖父は妹に甘かったとのこと。妹は自由奔放に暮らしていたと話している。

 母が心を病んだ時、「じいちゃんのことは、絶対に許さない。」と言っていた。理由までは話してくれなかったが、厳しく躾けられたことへの恨みがあったのだと思う。

 けれど、離れて暮らす今は、祖父のことを心から心配している。やっぱり親子なんだなと思う。

 私の憶測にすぎないが、母が辛いとき、傍にいてくれるはずの祖母は入院していたために不在。祖父も帰りが遅かったことから、誰にも頼れずに生きてきたのだと思う。

祖母のこと

 祖母は「○○(地名)小町」と呼ばれるほどの美人だったらしい。そんな美人を祖父がどう射止めたのかは知らないらしいが、皆が賞賛する美人だったそうだ。

 そんな祖母は心臓が弱く、あまり家にいなかった。入院していたのか実家に戻っていたのかは定かでないらしいが、自宅にいるときは、とにかくよく床に伏していたそうだ。

 祖母がなくなる時、祖母は母だけ床へ呼んだらしい。夜中だったそうだ。バナナが食べたいといった祖母に、バナナを剥いて食べさせた。すると、「ありがとう」と言って、そのまま亡くなったそうだ。これは私が小学生の時に聞いた話だから、もしかしたら詳細は違うかもしれない。母の、祖母との思い出はあまりないようで、このことだけ覚えていると話してくれた。

 祖母が亡くなった後、母は祖母に会ったそうだ。夜中トイレに起き、床へ戻ろうとした時のこと。閉めてあるはずの縁側の雨戸が全て開いていて、戸も開いていたらしい。庭のはずが竹藪になっていたそうだ。何でだろう?と思って眺めていると、そこに祖母が立っていたらしい。何も話さずに、ただ微笑んでこちらを見ていたそうだ。しばらく眺めた母が、「亡くなったはずの母がなぜ庭にいるのだ」とはっと思い、もう一度意識を向けて見直した時には、いつもの庭に戻っており、誰もいなかったそうだ。寝ぼけていたのかもしれないと話しているが、確かにそこに祖母はいたと思うとのこと。不思議だったなぁと話してくれた。

妹のこと

 妹は祖父に可愛がられていたと話す。そんな妹を嫉妬していた時期もあったとも。母が何かをしたいと言えば「ダメだ」という祖父だったが、妹が何かをしたいと言えば何でもやらせていたと。だから、好き勝手やっていた妹が羨ましかったと話していた。詳細はわからない。

弟のこと

 弟のことは、頼りにしていたようだ。心を病んだ時も、真っ先に頼ったのは弟だった。

 成人した弟が、家を出た時は悲しかったらしい。が、すぐに戻ってきたから安心して嫁に行けたと話していた。

末弟のこと

 まるで我が子のように思っている節がある。自分が辛いときでも、末弟のことは心配でならなかったようだ。未だに心配している。母の中ではいつまでも、おんぶしていた小さな弟のままでいるのだと思う。

女学生時代

 母は、数学の先生が大嫌いだったらしい。理由は教えてくれなかったが、とにかく嫌いで、授業中も反抗的な態度をとっていたそうだ。そして、数学は全く勉強をしなかったので、進路も何もあったものじゃなかったとのこと。私が勉強する意味を見出せなくなった高校3年の時、「勉強だけはしておきなさい。お母さんみたいに後悔するときが来るから。」と言っていた。

 手に職をつけようと理容科に進み、理容師として少しだけ働いたらしい。

父との出会い、結婚

 嫌だったけれど、お見合いをさせられたそうだ。母にその気はなかったが、父が母を気に入り、毎晩電話をかけて来たらしい。そして、祖父母(祖父は再婚をしていた)の勧めもあって結婚したらしい。おそらく、公務員だから安泰だとか、これほど思ってくれる人はいないとか、そんな理由だったと思うと話していた。

 父からの願いで、夕食には毎晩刺身を出していたそうだ。もちろん一番安い「ぶつ切り」だったそうだが、父はそれで満足していたし、母も一品作るものが減って喜んでいたそうだ。

 兄が生まれ、その次に1人流産したらしい(父が亡くなった後に何となく聞かされた話なので詳細は不明)が、最後に私が生まれた。家族4人、官舎で暮らした。

何が言いたかったかというと

 母は、当時としてはもしかしたら一見裕福な家庭に生まれたのかもしれない。が、そこには両親の姿があまりなく、辛いときも悲しいときも、一人で頑張ってきた様子が伺えるのだ。私には。

 自分が受けられなかった愛情を、兄と私に注いでくれたことには間違いないと思っている。本当にありがとう。

 父と母と兄と私の4人の家族については、追い追い書いていきたいと思っている。

 母は幼少期から苦労をして育ってきたと私は思っている。けれど、苦労はその後も続くし、今だって幸せかどうか分からない。私との関係も、世間のような母と娘の関係ではないだろう。一緒に買い物へ行ったり、食事へ行ったり……なんて、仲良し親子像とは全くかけ離れた関係。

 けれど、私は母に感謝しているし、母を大切にしたいと思っていることは間違いない。その気持ちが、私の態度にうまく反映されていないのが悲しい所なのだが。でも、私達家族が母を引き取った時、義母に「看取る気持ちで一緒に暮らしてあげて」と言われたあの時から、私は母に親孝行しようと決めて暮らしている。

 何をすれば親孝行になるのか?と、自問自答の日々を送っている。けれど、感謝の気持ちを持って接することだけは忘れずに暮らしている。

 と言いつつ、口やかましい母を叱ることも多々あり……申し訳なく思ってもいる。いつも言い過ぎたかなと反省はしているんだよ、本当にごめんね。

 そして、私達のために色々してくれて、本当にありがとう。心から感謝しているよ。

 一つだけお願いがある。何か好きなこと=生き甲斐を見つけてください。私以外に。

もしもあなたの琴線に触れることがあれば、ぜひサポートをお願いいたします(*^^*)将来の夢への資金として、大切に使わせていただきます。