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『風の電話』諏訪敦彦

 ヨーロッパ映画のように日本映画を撮ってしまう。即興演技の。あの諏訪敦彦が「風の電話」──岩手県大槌町に実際にある電話ボックス、そこではこの世にいない大切な人と通話ができるという東日本大震災のシンボリックな場所──を題材にした作品を創るとなると、心のざわつきとともに確信的に期待を高めつつ劇場へ足を運ばざるをえない。


 先回りしていえば、震災で家族を失いただ一人生き残り、その後広島は呉市の叔母のもとに暮らす17歳の主人公ハルがクライマックスでたどり着く3・11以後の神話的な場所は、(最)重要ではない。なにしろ、この映画は私が偏愛的に求める「行って帰る」物語なのであれば、なにより耽溺すべきはそのプロセスにあるのだから。諏訪敦彦も、そのあまりにも映画(虚構)を越えた現実として色がつき過ぎた場所を、ハルが偶然立ち寄るそれとして、ドラマの最初から目的=エンドとして意味づけることを避けるドラマツルギーによって、作り手と観る者双方の意図を図らず超える危険を回避している。


 出発前、前年の豪雨で被災地と化した広島の復旧途上の茫漠とした風景に紛れ込み、ハルはいたたまれずうろつき、震災以降おそらく初めて泣き叫ぶことに疲れ裸地に仰臥する、ジョン・エヴァレット・ミレーが描く「オフィーリア」を模倣するごとく。そして車で通りすがる公平(三浦友和)に上半身を抱き起こされる。


 この身振りは後半反復される。道中で出会った福島の元原発作業員の森尾(西島秀俊)と共に車の旅を続け、やがて大槌の実家があった更地にたどり着いたハルは、同じように奪われた土地をうろつき、泣き叫び、疲れ仰臥する。西島秀俊は三浦友和を模倣するようにハルの上半身を抱き起す。


 三浦と西島の身振りには、傷ついた者が傷ついたものを他者として接触できるわずかな点が表象されている。それは3・11後のわたしたちの、ひとつの可能性としての身振りとしてもあるだろう。


 「旅」を通してハルが出逢う人々。公平の母親で広島の原爆を経験した老婆、新たな命を授かった女性。クルド人難民のコミュニティからは我が国の排外的な入国管理体制を知らされる。それらのツーショットでは、片方の感情を他方が受ける。カメラは片方の背後から、感情を受ける他方の表情を捉える。その受動性によってこそ、人間の感情(の交換)が現される。映画とはこれだ、と確信するように。


 「生きるためには食わなければならない」。公平は苦い人生訓のようにつぶやき、「食え」とハルに繰り返し声をかける。この言葉に誘発されるように、映画ではいく先々でハルが食事を供される場面が繰り返される。ハルは言葉少なくうつむきながらもしっかりと食べる。共に食するよろこびを観て、わたしたちもそこに同席したくなる。


 旅のそこかしこで、風が吹いている。劇場の暗闇を介してそれは心地よく増幅されて、わたしたちは感知する。風はハルに対して素っ気ない。無慈悲に襲うようでもあり、しなやかに包み込むようでもあり。最後の電話ボックスでハルが「対話」するのは、かけがえのない肉親とのそれを擬装する自己内対話ではないのか。狡猾な死者同様、風はそんな軽率な疑問に答えない。答えないことで、ハルに応答している。

『風の電話』
監督:諏訪敦彦
出演:モトーラ世理奈/西島秀俊/三浦友和/西田敏行/渡辺真起子/山本未来
劇場:横浜シネマリン
2020年作品



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