見出し画像

【小説】アネモネの花言葉

1年で、最も嫌いな季節がやってきた。

この前ようやく年が明けたばかりだと思っていたのに、気がついたらもうすぐ6月だ。
早起きして整えたストレートの髪も、シワを丁寧に伸ばしたスカートも、首筋につけた新しい練り香水も、全部台無し。高校生になってから、このなんとも言えないじめっとした空気が、特に苦手になった気がする。夏生まれだから、という尤もらしい理由をつけて、ホームルームまでに完成しなきゃならない英語の課題も、半分しか終わらせていない。雨の日はもっぱら、やる気が起きないのだ。

でも、今年は少しだけ違う。
今まで生きてきた中で一番、梅雨を心待ちにしている。
あいつが……帰ってくるから。

***


「なぁ、明日の放課後、ちょっと時間もらえない?」
5時限目の授業が終わり、校舎から少し離れた部室棟へ向かおうと、下駄箱で靴を履き替えていた時だった。頭にポンと置かれた掌を払いながら振り返ると、見慣れた大きな目が、真っ直ぐ私を見下ろしている。悠介だ。

「嫌だよ。部活遅くなるし、今日はお母さんに夕飯当番頼まれてるから」
悠介の肩越しには、そわそわしながら遠慮がちに待つ女子の大群が見える。ざっと、10人はいるだろう。そうか、今日は、バレンタインデーだった。

「安心しろ。お前の母ちゃんにも、許可取ってあるから。ほんじゃ、明日。部活後にいつもんとこな」
もう一度私の頭をぽんと叩いたかと思うと、数本のバットと泥だらけのスポーツバッグをひょいと担いで、グラウンドの方へそそくさと行ってしまった。

「美和! ほら、ラケット忘れてたよ」
気がつくと、部活仲間の芽衣が隣に立っていた。取り巻きの女子たちに睨まれながら困っている私を見かねて、助け船を出してくれたんだろう。

「わぁ、ありがと! 芽衣、私の気持ちをわかってくれるのはあなた様だけだよ」
「あれー? 今日はやけに素直じゃないの。ほら、私のこと、もっと大切にしなさいな」
芽衣は、スラリと長い脚が更に映える真っ白なランニングシューズに履き替えながら、背中をポンと叩いてきた。
ああ、悠介もこんな美少女が好きなんだろうな。
そんなことをふと考えた自分に少し驚きながら、急いで部活のミーティングに向かった。


悠介は、幼稚園の時からの幼なじみだ。実家は商店街で人気のお花屋さん。フラワーアレンジメントが趣味の私の母と悠介のお母さんは昔から仲が良く、互いの家族のこともよく知っている。昔は小さくて小猿みたいに駆け回っていたのに、いつの間にか私の背丈を追い越していた。今や平均身長もゆうに越え、175センチはあるだろう。小学3年生から始めた野球にどっぷりのめり込んで、しかもエースで4番。地元のシニアチームからも引っ張りだこで、隣町にはファンクラブなんてものまであるらしい。

それとは対照的に、私はものすごく平凡な学生だ。身長も体重も中の中。成績は普通より少し良いかな、くらい。幼い頃に一度母親とやったことがあるテニスをもう少しやってみたいと思って、高校に入ってからテニス部に入った。生徒会で書記もやっているけれど、正直誰も手を挙げないから渋々引き受けただけで、ほとんど取り柄はない。
お互い地元の高校に進学したから知り合いもチラホラいるけれど、地味な私と人気者の悠介の組み合わせをきっと疑問に思っている人もいるだろうな、と思う。面倒くさいから、何も説明はしないのだけれど。


翌日、午後6時半を回っていた。

悠介の言う「いつもの場所」は、河川敷近くにある公園だ。
ここに野球の試合を観に来たこともあったし、ブランコに乗りながら仲直りしたこともある。そういえば、気晴らしに、と無理矢理キャッチボールに付き合わされたこともあったな。昔から私はあいつに振り回されっぱなしなのか、と思うとなんだか悔しい。

先に公園についた私は、見慣れた青いベンチの端に腰を下ろした。今日はよりによって部活の当番で、ジャグもボールも持っているから、右肩がもげそうなくらい重い。
荷物をドスンと置くのと同時くらいに、後ろから声がした。

「よ。待たせてごめんな」
「う、ううん。待ってない、今来たとこだから」
そっ? と笑いながら、すぐ隣に腰を下ろした悠介から、いつもと違う香りがした。なんだろう……石けんみたいな、新しい香り。泥だらけのユニフォームが少し縮んで見えた。また、身長が伸びたんだろうか。

「改まって、話って、なによ?」
「その話する前にさ、ちょっとこっちついてこいよ」
「えっ? なんで?」
私の荷物をひょいと担ぐと、にやりと笑った。
「ちょっと!どこ行くの?」
悠介がこんな風に笑うときは、大抵いたずらを始めるときと決まっている。ああ、また何かに巻き込まれそうだ。
半ば諦めた気持ちのまま、右腕をつかんでぐんぐん進む背中に、ついていくことにした。そもそも、抵抗したって、無駄なのだ。いつだって、悠介は私の前を歩いてる。憎たらしいやつだけど、正しい方向に導いてくれることは、ちゃんと知っている。

会話もほとんどせず、15分くらい歩いただろうか。
気がつくと、見たことのない裏道に出ていた。


「ほら、見てみろよ」

ふいに足を止めた悠介の視線をつう、と追いかけると、それは頭上に向かっていた。

「う、うわあ…………」

見たこともないくらいの、満天の星空が広がっている。

「な? 綺麗だろ。前に一人で来たときにさ、見つけたんだ、ここ」
「公園の近くなのに、こんな場所があるなんて知らなかった。わぁ、ほんとにすごい!」
「お前に、見せたかったんだ」
暗闇の中でも、照れくさそうに笑っているのがわかる。
こういうところ、昔から本当に変わらない。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも、いつも真っ先に私に教えてくれる。これが幼なじみのよしみ、というものなんだろうか。

「これは、オリオン座だろ。あっちは、おおいぬ座のシリウス。全天で一番明るい星なんだよな」
「そんなに詳しかった? 野球部じゃなくて、天文部みたいじゃん」
「うるせーな。でも、俺、星見るのは昔から好きだったんだぜ?」
「そうだっけ。あ、でも部屋に宇宙の図鑑とか、置いてあったね。懐かしい」
「お前は、獅子座だろ。獅子座が見えるのはいつだか知ってるか?」
「えー、7月じゃないの?」
「正解は、3月くらい。自分の星座は、生まれた季節には見えないんだよ」
「すごいじゃん、悠介! 物知り博士みたい」
たわいもない会話を、しばらく続けていた。今思えば、悠介にしてみれば、すごく話しにくかったんだろう。

「なあ、美和。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ」
「んー?」
いつもの様子と違う、ということは、昨日声をかけられたときから、なんとなく気づいていた。でも、事前に相談も何もされていなかったから、何を言われるのか全く検討がつかない。


悠介は、一度空を見上げて、深く息を吸い込んだ。

「俺、東京いくことになったんだ」

一瞬、周りの音が何も聞こえなくなった。

「えっ……」
「先月、俺ら東京の学校と練習試合やってたろ? そこの高校がさ、俺に来て欲しいって言うんだ。強豪校なのに、ピッチャー足りないんだってさ」
私は少し躊躇いながら、どうにか顔に出ないよう、表情筋に力を入れるので精一杯だ。悠介の顔をみたらなんだか泣きそうな気がして、しばらく空を見ていることにした。

「そうなんだ! すごいよ。東京行くの、夢だったでしょ」
「うん。まだ、家族と先生以外、誰にも話してなくて。でも、お前には早く言っとかなきゃって思ってさ」
「……いつ頃、行くの?」
「1ヶ月後には、もう行こうと思う。寮にも入るし、準備とかもあるからさ」
「そっか、良かったじゃん、ほんと!」

強がっているのは、バレバレかもしれない。
悠介がこちらを見ているのはわかっているけれど、やっぱりまだ涙をこらえられそうになくて、ずっと天を仰いでいる。

シリウスという星が、涙のしずくみたいにゆらいでいた。

「ごめんな、一緒にいてやれなくて」
「なに、言ってるの。一緒にいなくたって私は大丈夫だよ」
「心配だよ、色々とさ。ほら、お前ってノロマだし」
「ひどいなぁ、確かにちょっと抜けてはいるけど、生徒会に入ってからしっかりしたでしょ」
「俺からしたらまだ危なっかしいよ。同じクラスの健太には気をつけろよ」
「なんで、健太……?」
「え、お前気づいてないの? あいつ、お前のこと好きなんだぜ」
「そっ、そうなの? いや、いやぁ、あんたこそ、東京で女の子誑かしたりしないでよね」
「俺がそんなことするわけないだろ、ははっ」

気がついたら二人とも大声で笑いながら、草むらに寝そべっていた。

「悠介。私、あんたのこと誇りに思うよ。夢の第一歩になるね」
悠介は、身体を半分起こして頬杖をつきながら、反対の手で私の頭をぽんと撫でた。
2月の冬風の中、掌のあたたかさが心にじわりと染みた。
それと同時に、ああ、本当に行ってしまうんだな、と思った。

「おめでとう、本当に」
「ん」
「応援してるから」
「ん」
「ファンクラブにも入ってあげるし」
「ん」
「たまには、電話とかLINEもしてよね」
「ん」
「相談とかものってあげるし」
「ん」
「いじめられたりしたら、私がやっつけに行くから」
「ん」
「大きな試合がある日は教えてよ。テレビとかで観るし」
「ん」
「だからっ……」


ほんの、一瞬だった。


私たちは、その日、初めてのキスをした。


漫画に描かれていたレモンのような甘酸っぱい味ではなく、大粒の涙のせいで、すごくしょっぱかった。


空には、冬の大三角が輝いていた。

***

それからの1ヶ月は、驚くほどあっという間に過ぎた。

学校の友人や家族とも別れ、私はバス停まで一人見送りに来た。

「忘れ物ない? これ、母ちゃんからおにぎり持って行けって」
「ありがと。母ちゃんにもよろしくな」
「うん。それじゃ、悠介。元気で行ってきてね!」
「おう、見送りありがとな。あ、そうそう。これ、選別。部屋に飾っとけよ」

大きなスポーツバッグの後ろに隠れていた袋から取り出されたのは、青と紫のお花がメインの、小さな花束だった。

「え? 綺麗だね? うん。ありがと?」
「なんで、ハテナばっかついてんだよ? 6月に少しだけ帰ってくる予定だから。ほんじゃ、元気でいろよ!」

最後にまたポン、と私の頭を撫でると、うれしそうにニカッと笑いながら、真っ白なバスに乗り込んでいった。

雲一つない青空は、晴れ男の悠介の門出を祝福しているみたいだった。

私はとても晴れやかな気持ちで満たされながら、白いバスの背中が見えなくなるまで、見送った。


あの日、渡された花を調べてみると「アネモネ」という花だということがわかった。
花言葉は、「はかない恋」「期待」「固い誓い」
そして「あなたを信じて待つ」。

母に教わりながらドライフラワーにして飾ったスワッグを見つめながら、ふと、心に決めた。

もうすぐ帰ってくるあいつに、今度は私が贈ろう。少し遅くなったけれど、お気に入りのチョコレート。それから、綺麗なアネモネと、白い薔薇の花束を。

この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

野球が好き

ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺︎ いただいたサポートは、今夜のちょっと贅沢なスイーツとビール、そして今後の活動費として大切に使わせていただきます…⭐︎