見出し画像

満月の美しさは、ロマンチストなナンパ師と、心で月を見る優しい女性が教えてくれた

「ねえ、お姉さん。ちょっと1杯飲んで行かない?」
 
電車を降りる少し前から、ふわふわした視線が気になっていた。新卒1年目、社会人としてひよっこの私は、会社帰りは決まってクタクタで、メイク直しも面倒くさいからマスクをつけて帰る。1分でも早くソファーにどすんと体を沈めたい気持ちでいっぱいなのに、そういう時に限ってこういう人は声をかけてくる。対策は高校生の時から決めている。何を話しかけられても無視をする、ただ、それだけ。
 
「俺、タクヤっていうんだけど。急に声かけちゃってごめんね。綺麗だなって、思ってさ」
ああ、これは厄介なタイプだ。その上、少し失礼だ。遠くからマスクの女性を見て綺麗かどうかなんて、きっとわからない。アンジェリーナ・ジョリーやエマ・ワトソンならまだしも、平均的なぽたぽたボディの私がそう見られるわけないことは、自分で1番よくわかっている。目線を合わせないまま、乗り換えの改札口を出た。
 
「月が、さ」
 
「……えっ?」
思わず、顔を上げた。しまった、と思った。
「今日さ、すっごく綺麗だと思わない? 月」
「あ、ああ……」
「電車から見えた月が綺麗だなって、思ったんだよね。君も見てたでしょ? 窓から」
「えっ、み、見てないです」
「君がずーっと外見てたから、ああ、この子は月を見てるんだなって思ったんだけど。違った?」

私は、電車の窓に映るくたびれた自分の姿を見ていた。コンシーラーでも隠せない目のクマと、よれよれのシャツにため息をついていただけだ。帰宅ラッシュの大勢の頭をかき分けながら、少しだけ見えた空を見上げると、確かにそこにはまん丸な月が輝いている。
彼はめげることなく、何も言わずに私の斜め前を歩き続けている。どうしたものかと考えたけれど、この手のタイプはもう少し歩いたら諦めて次のターゲットを探すに違いない。
「月が綺麗ですねって言うじゃない、ほら、あの漱石もさ」
まるで友達みたいな表現をするものだから、不覚にもふっと笑ってしまった。
「愛してるって、きっとあなたは直接相手に言えるでしょう。夏目漱石は、あなたみたいなタイプと絶対に違うと思いますよ。」
「ははっ、君、面白いね。嘘だと思うかもしれないけど、たまには月を見上げるのもいいものだよ」「はあ……そうですか」
「とりあえず、今日試してみてよ。あと、はい。これ、俺の連絡先。この近くに住んでるから、もし誰かと飲みたくなったら、いつでも連絡してよ」
シワひとつないグレースーツの胸ポケットから取り出された名刺が、私の手のひらにふわりと置かれる。流れるような作業で、拒む暇もなかった。
「それじゃ、また」
私がこれまで遭遇してきたナンパ師たちに比べると潔く、彼は乗り換えの改札口を目指してスタスタと歩いて行ってしまった。名刺を裏返すと、走り書きで電話番号とメールアドレスが書かれている。手紙や名刺を渡されることも初めてではないけれど、決まっていつも丁寧な文字で書かれていた。何枚も書いてストックしているんだろうから当たり前かもしれないが。
彼がたまたま狙って私に声をかけたのか、はたまた多くのターゲットの1人だったのかは知る由もない。どちらにせよ私がこの先彼に連絡することは絶対にないけれど、いつものナンパみたいな、黒くどろっとした空気は残らなかった。
 
それから5分くらい電車に揺られると、最寄り駅につく。自宅まではゆっくり歩いても2分だけれど、駅のロータリーを迂回してタクシー乗り場近くのベンチに腰掛けてみた。真上には、大きな空が広がっている。

まんまるに輝く月を見上げると、ほんの少しだけ深く息が吸えるようになった気がした。

そういえば、朝のニュースでアナウンサーが今夜は満月です、って言っていたかもしれない。月明かりにぼうっと照らされるだけで、こんなに癒されるものなのか。

悔しいけれど、私は心の中で、少しだけタクヤにお礼を言った。



***

 


ーーキキーッ。
昨日から読み始めたばかりのミステリー小説に没頭していた私は、その衝撃に思わず声を出しそうになった。
「緊急停止、失礼致しました。ただ今、○○駅付近で事故が発生したとの連絡が入りました」
イヤホンを片方だけ外し、車内のアナウンスを右耳で捉える。復旧するまで、最低30分はかかるだろう。今日も残業で遅くなったから早く帰りたいのに……。悲しさと悔しさを喉の奥の方に押し込みながら、読みかけの小説をぱたんと閉じた。
「お客様にお知らせいたします。この電車は、次の駅で少々停車します。ご迷惑をおかけいたします。運転再開予定は、決まり次第お知らせ致します」
すらすらと流れるアナウンス。きっと、事故や事件の場合を想定して何度も訓練しているのだろう。繰り返される台詞には、安心感がある。

今日は、友人との飲み会に参加せず真っ直ぐ帰ると決めていたから、会社をいそいそと出て電車に飛び乗った。そのせいか無性に喉が渇いて、次の駅で一旦降りることにした。このまま乗っていても動かないのだから、どっちにしろ同じだろう。腕時計を見ると、22時を回っている。1人で飲み屋やファミレスに入ってもいいけれど、今日はなんだか気分じゃない。ホームの真ん中まで歩くと、自動販売機が3つ並んでいた。いつもならカロリーを気にして水かお茶を選ぶところだが、今はとにかくスッキリしたくて、数年ぶりに三ツ矢サイダーのボタンを押す。ひとくちゴクッと飲みこむと、思わずぷはぁっと声が出た。思ったより爽快な喉ごしに、驚いた。

電車は当分動く気配もないから、この際、サイダーを生ビールだと思ってホームのベンチで休もう。自分に言い聞かせながら人の少ないホームの端っこを目指すと、白杖を持った女性が歩いているのが見えた。私の母と同じくらいの年齢だろうか。電車からは離れた場所を歩いているけれど、少し困ったような表情に、見えなくもない。大丈夫かな。少し立ち止まって彼女を見ていると、躊躇いながら白杖がほんの少しだけ上がったように見えた。

ラジオのチャリティー番組で、聞いたことがある。白杖を高くあげるのは、SOSサインだってこと。でも、実際に見たことはないから、それがそのサインなのか、確信はない。でも、気づくと身体が動いていた。

「何か、お手伝いできることはありますか?」
「あっ……ごめんなさい。駅員さんがいらっしゃらないみたいで……今、どうなっているのかしらと……」
「さっき、前の駅で事故があったみたいで。しばらく動かないそうです」
「あら、そうなのね。教えてくれてありがとう。注意して聞いていたつもりだったんだけれど、ホームには全然情報が流れていなくって……」
言われてみれば、確かにそうだ。小さい駅でおそらく1人しかいない駅員さんは、改札の前で怒鳴るおじさんの対応に追われている。私は車内のアナウンスで状況を把握できたけれど、人の少ないホームはどちらかというとシンと静まりかえっている。

「あと、お姉さん。もう1つ、いいかしら。ごめんなさいね」
「はい、なんでしょう?」
「私、ついさっき指輪を落としてしまったみたいなの……あとで、駅員さんに伝えてもらってもいいかしら」
「ええ! それは大変。どんな指輪ですか?」
「金色の、細い指輪なの。ごめんなさいね、お忙しいのに……」
「いいんです、いいんです。私はこれからホームで休もうかなと思っていたところなので。奥にベンチがあるので、まずそこまで歩きましょうか。私の腕、どうぞ掴んで下さい」
「ほんとうに。ありがとう。こころ強いわ」

柔らかく笑う彼女を見て、緊張で強張っていた体の力がふっと抜けた。何せ、白杖を持っている方のサポートをするのは、人生で初めてだった。ラジオで聞いた内容をどうにか実践しようとしたけれど、想像よりずっと、難しい。

「よし、じゃあ、少しここで待っていてくださいね。駅員さんに伝えてきます」
「ありがとう。面倒かけて、ごめんなさい」
「全然いいんですよ! いってきますね」
彼女がベンチに深く腰掛けるのを見てから、改札前の駅員さんに声をかけようとした。けれど、お客さんの対応をしながら外部と連絡を取っているのか、見るからに忙しそうだ。

よし。どうせ暇なのだから、私が探そう。
半分まで減ったサイダーのペットボトルをリュックに押し込み、改札からホームの隅を注意深く見ながらゆっくりと歩く。隅から隅まで探したけれど、指輪どころか、金色の何かすらも、見つからない。そもそも、普段から私には落とし物を見つける才能がない。得意なのはむしろ落とす方だ。
10分ほど探したけれど、それでもやっぱり見つかる気配はなく、駅員さんに声をかけようと改札に向かったときだった。
一番広い改札の手前に、キラッと光るものが見えた。ドキドキしながら近づくと、金色の細い指輪が落ちている。真ん中に三日月のモチーフがついた、シンプルなリングだった。

「見つかりました! これで、合っていますか?」
小走りでベンチに近づくと、彼女は少し微笑みながら指輪を丁寧に触った。
「そう、これよ! ああ、本当によかった。お姉さん、本当にありがとう。どうやってお礼をしたらいいか、わからないわ」
「わぁ、良かった。お礼なんて、いいんです。お力になれて、嬉しいですから」
彼女は心から嬉しそうににっこり微笑んで、その指輪を大事そうに右手の薬指につけた。

「私も、隣に座っていいですか? 電車はまだ、動かなそうなので」
「もちろんよ。もう少しあなたと話せたら、とってもうれしいわ」
それから私は、彼女とたわいもない話をした。今はまっている趣味や好きな食べ物のこと……どうしてそんな話をしたのかは、よく思い出せない。彼女が嬉しそうに質問してくれるものだから、1つ1つ答えただけだったかもしれない。

「お姉さん、もしかしてあなたの家族や身近な人に私みたいな人がいたりする?」
「えっ……いいえ。どうしてですか?」
「本当に? だって、さっき私に声をかけてくれたから。てっきり、慣れているのかと思ったわ」
「実は、声をかけるのも初めてでした。ずっと緊張していたんです。あっ……でも、私の親友は、耳が聞こえなくて。彼女から教わったことは、本当にたくさん……数えきれないくらい、ありますね」
「素敵なご関係なのね。あなたの話し方、とっても優しくて、すごく安心できるわ。初めてなんて、信じられないくらいよ。きっとその親友さんが、あなたの優しい心をもっとほぐしてくれたのね」
綺麗な言葉選びをする彼女の心が、とても美しく、眩しく見えた。それに、親友のことを褒められると、私も嬉しい。

「私の名前、サツキって言うんだけれどね。花が咲くの咲に、お月さまの月で、咲月。だから、昔からこの指輪を大事につけていたのよ」
「三日月のデザインですものね。素敵です」
「今夜は、本当に、月が綺麗よね」
「……えっ」
咄嗟に、失礼なことを言ってしまった、と慌てて口を塞いだ。鼓動がバクバクと大きくなってくる。
「ふふ。今、私が見えていないのにどうしてわかるの?って、思ったでしょう」
「ごめんなさい……私、そんなつもりじゃなくって」
「ふふ、全然いいのよ。見えなくてもね、お月さまの輝きって、わかるものなのよ。三日月も素敵だけれど、やっぱり私は満月の夜が好きだわ。なんだか、気持ちが、すうっと落ち着くの」

ベンチに腰掛けながら、停車中の電車越しに見える真っ暗な空を見上げる。そこには、あの日と同じくらい大きな満月が輝いていた。
「すっごく、綺麗です、月。今日は、満月なんですね。そういえば……数年前、ある人がきっかけで月を見上げることがしばらく習慣になったんです、私。でも、最近また忘れてたなぁ」
「あら、それを気づかせてくれた人は、きっと恋人ね?」
「……違うんです。その人、ナンパ師で」
「ええっ、そんなこと、あるのかしら」
「月が綺麗だから飲みに行こうって言われたんですよ?  今思い出しても、変なナンパ師でした」
「ふふっ。ロマンチストなナンパ師さんね」
2人でけらけら笑ってしばらく話を続けていると、アナウンスが流れた。

「お客様にお知らせいたします。電車の運転を再開いたします。大変ご迷惑をおかけいたしました」

「咲月さん、やっと動きそうですね、電車」
「あっという間だったわ。あなたがいてくれたお陰ね」
「私こそ、です。ちょっと気分が落ち込んでいたのに、咲月さんと話したら落ち着きました。あと、こんなこと言いたくなるのも月のせいかもしれないですけど……」
 サイダー味の唾をひとつ、こくりと飲み込む。

「私、今日、咲月さんに会えて良かった、です」
咲月さんは少し驚いた様子で、またふふっと微笑んだ。
「うれしいわ。でも、なんだかその台詞……夏目漱石の名言みたいね。次は、大切な男性に言ってごらんなさい。満月の夜に。あなたに会えてよかった、って」
ふふふと笑いながら2人でもう一度だけ夜空を見上げて、私たちは電車に乗った。


***
 

満月の夜に私が思い出すのは、家族や恋人、遠く離れた親戚でもない。一度しか会ったことのないナンパ師のタクヤと、心で月を見る優しい笑顔の咲月さんだ。

少し疲れた時、うまくいかない時、苦しくてどうしようもない時……そんな時こそ、空を、月を、ゆっくり見上げる時間を作ろう、というのが今でもマイルールになっている。

2人にはあれきり会っていないけれど、きっと、今も同じ月を見上げていると思う。


タクヤはともかく、咲月さんは、絶対に。

この記事が参加している募集

スキしてみて

ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺︎ いただいたサポートは、今夜のちょっと贅沢なスイーツとビール、そして今後の活動費として大切に使わせていただきます…⭐︎