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戸塚田という光、あるいは星

六本木歌舞伎と月世界旅行を観た。
星が光っていると思っていたとS.J.G.を聴いた。

世界は2つに分けることができる。
任意のAとそのA以外。あるいは光一と剛。あるいは戸塚と塚田。
分け方はシンプルなようであり、その実、多様である。

特にこの戸塚田というもの、非常にコンプレックスな対照系であって、単純に任意のAが戸塚あるいは塚田、とも定義しづらい美しさがある。
塚という字を分け合う二人は、白と黒などというより、陰陽だ。

いん‐よう〔‐ヤウ〕【陰陽】
1 中国古代の思想で、天地間にあり、互いに対立し依存し合いながら万物を形成している陰・陽2種の気。 日・春・南・男などは陽、月・秋・北・女などは陰にあたる。 おんよう。

https://www.weblio.jp/content/陰陽

この「互いに対立し依存し合いながら万物を形成」という19文字がいかに戸塚田的であるか。

太陽と海、肉と骨。そして大嫌いで大好き。
本人たちが自身と相手のありようを語るこれらの短い言葉はまさに、単純な二項対立を超えた、陰陽の関係性だろう。
決して、太陽と月、肉と鉄、ではない。大嫌いだけでも、大好きだけでもない。

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六本木歌舞伎、塚の戸の方は、観客の中のマスを占める層が明るくない歌舞伎の世界と客席との橋渡しの役回りをする。現代から立ち返っての古典への一定の解釈を提示し、手を差し伸べる。

月世界旅行、塚の田の方は、明るく-それは底抜けに明るくガンクラブ会長を演じ切る。恐ろしく向こう見ずな野心の暴走、麻痺していく理性、という読みを提示することはない。


星が光っていると思っていた、戸塚は、ファンに歩み寄らない。一夜限りの欲望に囚われた愚かな動物たちの空虚な運動会を、隠さない。読みはそこに存在しない。戸塚祥太、それだけがそこに居る。
「君たちが光」で「星が光っていると思っていた」自分を愚かと言う。

S.J.G.、塚田は、ファンの目を持つ。好きな子いるの?いない!である。Everything Fantasyという留保を持ちつつ、過去の出来事・これからの未来というストーリーを描く。塚田僚一は、その中の一役者である。
「5stars 輝いてる限り 未来は笑ってる」、ファンは「聞いている」存在として最後に登場する。

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演ずること、表現すること。
そのありようが、美しい対照-そしてそれは場に応じて入れ替わる-を内包し、同じ時間に成り立っている。

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共に時間を過ごし生きる人間と人間は、互いに何かを分有し、何かを明け渡し、何かを掴んで離さない。
特に自我が固定され切っていない思春期にそばにいた人とは、強く複雑な相関が生じる。
さらには、自我と向き合い、自我が恒常的な更新に晒されることの多いアイドルという生業を持つ二人であるからして、今でも・これからも、これまでの土台の上で混ざり合い、反発し合う運命共同体であり続けるのだろう。

自ら光を発するものも、そしてどこかからやってきた光を反射するものも、等しく呼ばれるところの「星」という名を携えて。

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