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その名作との出会いは|『羅生門』/芥川龍之介

教科書を閉じ、机に置く。腕を組んで、その表紙を見つめた。
「現代の国語」。目は教科書を捉えていたが、頭の中では京都の町を下人が走っていた。
高校一年生、私は初めて『羅生門』を読み、愕然としていた。

小さなころから本を読むのが好きだった。
絵本から始まり、仕掛け本、児童文学、児童向け小説、普通の小説、エッセイetc…。
本とともに成長してきたような子供であり、学生時代だった。
小学校でも中学校でも図書委員だった。

高校一年生当時、私は山田詠美と阿刀田高に傾倒していた。
山田詠美の描く、瑞々しい恋愛。エロティックなのに嫌みがなくて、耽美的でピュアな男女の風景。美味しそうに描かれる煙草と酒。
阿刀田高が仕掛ける、予想だにしないどんでん返し。そして背筋がスッと冷えるようなホラー描写。一転して、毒と笑いに溢れるエッセイ。
一田舎の高校生では味わえない世界を見せてくれるのが本だった。

しかし、文豪たちの描く所謂「名作」は意図的に避けていた。
まだ自分が十分に楽しめないと思っていたからだ。あえて言語化すると、「文豪たちの描く世界観にまだ自分は読書人としてふさわしくないんじゃないか」と言うような思いがあった。
読んだことがあるのは、中学校の教科書に会った『走れメロス』ぐらい。『走れメロス』は大名作ではあるが、平易な児童文学でもある。

そして、いざ教科書内にて対峙したThe・名作、『羅生門』。
日本の文豪の中でもとりわけ名高い芥川龍之介、そしてその芥川龍之介作品の中でもとりわけ名高い『羅生門』。
次の国語の授業から『羅生門』が取り扱われる。私が最初に読んだのはそんなタイミングである。

最初の文章に目を落とす。そんなに読みにくくない。
次々読み進める。大判のページを目が追っていく。
『羅生門』はかなり短い。ものの10分で私は読み終わった。
そしてこの記事の最初の文章に戻る。私は愕然としていた。

ピンとこない。
これ、面白い?
暗いし地味だし。ニートがババア蹴とばしただけ。何も解決してない。
これが日本文学の最高峰?ほんとに?
ショートショートより満足感ないよ?

芥川ファンがこれを読んでいたら申し訳ないが、私は全然楽しめなかった。
「文豪たちの描く世界観にまだ自分は読書人としてふさわしくないんじゃないか」とかいうレベルの話ではない
私は『羅生門』に何の感情も抱けなかった。
親近感も憧れも憎悪も。食べるものに困ったことないし。とはいえ、食べ物無かったら盗人ぐらいやっても仕方ないとか思っちゃうし。もう本当に無を吸収しただけである。

その後、国語の授業で下人の心変わり描写や人間としての善悪判断などの話を聞き、「ほーん」となったものの、相変わらず作品自体を好きにはならなかった。テストは別に苦労しなかったので、表面上は理解できていたのだと思う。

自分は名作系向かないのか…とも一瞬思ったが、そのあとに授業でやった『こころ』はずっと好きなので、そういう訳でもなかったらしい。
ただただ『羅生門』が合わなかったのである。

そして、『羅生門』のことなど忘れ、大学生として東京で生きていた時、私はある曲に出会い『羅生門』のことを思い出す。
斉藤和義のデビュー曲、『僕の見たビートルズはTVの中』である。

この曲の序盤の歌詞。

欲しい者なら そろい過ぎてる時代さ
僕は食うことに困ったことなどない

斉藤和義『僕の見たビートルズはTVの中』

この曲、斉藤和義氏がデビューをする頃にはもうロックの王様ビートルズは現役ではないことから、ロックの一つ時代が終わった後に自身がデビューすることのやりきれなさが唄われている。それと同時に物が多いにもかかわらず閉塞感に溢れた現代の様子も描かれている。

その頃の私は、東京の片隅で一人、何物にもなれないが何かが大きく不足してもいる訳でもない大学生活を送っていた。
美味しい思いをしている人間は多少後ろめたいことをしている場合が多いということも見えてきていて、何かやりきれない気分だった。
斉藤和義氏の感じた閉塞感とは若干毛色が違ったかもしれないが、この曲は私に刺さった。

この曲を聴いて、「こういう倦んでる感じ、分かるなあ。」などと思いつつ、「食うことに困ったことない」って私もどこかで感じたことあったなと思案していると、脳内にふとあの下人が顔を出した。
そうだ、羅生門を最初に読んだ時の感想である。

頭の中の下人は、続けて私に話しかけてきた。
「俺も倦んでたんだぜ」と。ほう。
改めて、『羅生門』を読んでみると、なるほど、あの頃より下人の気持ちが理解できる。
私と下人では立たされている窮地具合に天と地ほどの差があったが、東京で一人で生きて行くのに倦み始めている自分は、下人のニキビのようだった。
『羅生門』が名作たる所以が少しだけ理解できた。

そして、東京で何とかサバイブし、田舎に引っ込んで家族を持ちアラサーになった私が今、改めて『羅生門』を読んでみる。
全然響かなかった。高校生の時に戻っている。
と言うことは、いま私のメンタルは安定しているのかもしれない。倦んでいないのだろう。
そりゃそうだ。妻も子供も最高に可愛いもの。
家族が私を羅生門の入り口から引きずり出したらしい。

日本文学きっての名作を自分のメンタルのバロメーターに使うなんて罰当たりだろうか。
私の中の下人は「恨むまいな。」と云っている。





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