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たとえばビールの泡のように

ゴドッ、と音がして栓が抜ける。うまく固定できていなかった瓶の底がテーブルにぶつかり、たちまち泡があふれた。

「下手っ」
彼女はそう言うと、ティッシュペーパーで応急処置をし始めた。僕も慌てて作業を手伝う。不意に手が触れ、彼女の高い体温を感じる。一通りの処理を終えると、彼女は拭くものを取りに台所に向かった。
僕は彼女に謝りながら、一滴でも多くビールを留めておくために瓶を左右に傾けてみたが、あまり効果はなきそうだった。ハートランドの瓶の中で、やや少なくなった疲体が揺れる。

やがて彼女が布巾を持って現れ、テーブルと瓶を丁寧に拭いた。
「申し訳ない」
僕は改めて彼女に謝った。
「別にいいよ。そんなにいいテーブルじゃないし」
嘘だ、と反射的に思う。無垢材と思しきどっしりとしたダイニングテーブル。一般的な大学生の部屋にあるような代物ではない。
そもそも、周りの学生たちの部屋にダイニングテーブルがあるのを僕は見たことがなかった。大体みんな、6畳ぐらいの1Kにニトリかどこかのベッド・ローテーブル・デスクを置いて、完結。
それに比べて彼女の部屋はリビングダイニングと寝室が分かれた 1LDKであったし、置いてある家具も明らかに高価そうだ。

テーブルを拭き終わった彼女は、それぞれのグラスにビールを注いだ。緑色の瓶から透明なグラスに移されたビールは、自身の持つ惑的な色を存分に発揮した。まるで生きているようだった。
彼女が微笑みながら自分のグラスをこちらに突き出してくる。彼女のグラスに自分のグラスを合わせると、キン、と澄んだ音がした。我が家にある 100均のグラスからは一生出ないであろう音だった。

しばらく僕らは他愛もない話をした。彼女はアルバイトと駅前にできた新しいベトナム料理屋の話をし、僕は自分が所属するバスケットボールサークルと大学の専攻の話をした。
「難しいこと勉強してるんだね」
「そんなに難しくないよ。でも、文系の学生なんて、自分が研究している簡単な問題をいかに難しそうに人に話すかということに腐心している生き物だから」

彼女は笑って、ビールを一口飲んだ。細い喉が揺れる。
僕は改めて彼女の顔をまじまじと見た。おっとりとした印象を与える大きなたれ目。小さくて形のよい鼻。ぽってりとした唇。やや丸目の輪郭を明るい茶髪が隠している。
抜群に美人というわけではないが、男受けのしそうな顔だ。

「急に家に来たいなんて言うからびっくりしたよ」
テレビのザッピングをし始めた彼女が、出し抜けに言った。チャンネルを一周してみたものの、興味の湧く番組はなかったらしく、よく見るようなクイズ番組が流れ始めた。
「いつも、こんなにすんなり男を家に上げるの?」
「まさか。でもなんか君ならいいかなと思って。で?何か話があるんじゃないの?」

彼女の目が僕の目を真正面から捉えた。思わずドキリとする。僕は一度息を整え、彼女を見つめ返した。心なしか彼女の頬が少し赤くなっているように見える。僕ははやる気持ちを抑え、一音ずつ正確に発音した。

「どうして僕を殺したの?」
彼女が目を見張る。部屋の空気が固まった。クイズ番組の音が遠くなる。



彼女と僕が出会った一ヵ月前の話をしよう。僕はその日、一人で近所のダイニングバーに酒を飲みに行き、同じように一人で飲んでいた彼女に出会った。若い女性が外で一人で飲んでいるのは珍しい。僕らはどちらともなく声をかけ、すぐに意気投合した。会話の途中で連絡先も交換して、僕は完全に舞い上がっていた。

異変を感じたのは3杯目のビールに口をつけた時だ。妙に頭がくらくらする。可愛い子と飲んでいるので緊張で早く酔ったのかと思ったが、そういう感じでもなかった。ふらつく頭で何とか会話を続けようとすると、今度は呂律が回らなくなってきた。明らかにおかしい。そう思った瞬間、強烈な睡魔に襲われ、視界が暗転した。

目覚めたとき、僕は全裸で台の上に横たわっていた。
横たわる僕の腹を昼白色のライトが照らしている。背中の下に敷かれているシーツはやや黄ばんでいて、子供のころに行ったボロボロの町医者の診察室を思い起こさせた。
覚醒と同時に、男の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。声のするほうを向くと、小柄な東南アジア系の男とひょろっとした白人の男が激しく言い争っていた。二人とも汚い白衣を身にまとっており、アジア系の男の横には医療器具らしきものが並べられたワゴンがある。
何語かも分からない怒声を聞きながら僕は台の上で固まっていた。

二人の言い争いはだんだんとヒートアップしていき、ついにアジア系の男がワゴンを蹴り飛ばした。医療器具が音を立てて散らばる。
僕は思わず小さな悲鳴を上げた。白人がこちらを向き、僕と目線が合う。僕は反射的に二人がいる方と反対側に台を飛び降りた。二人と距離を取り、いざという時には台を盾にするためだ。

しかし、白人は僕を無視して倒れたワゴンに視線を移し、散らばった器具を集め始めた。アジア系の男はそれを憮然とした表情で眺めている。この状況で飛び起きた僕に、リアクションがない?
そして、僕はもう一つ不思議なことに気がついた。僕は台から飛び降りているはずなのに、台の上にはまだ僕が眠っていた、、、、、、、、、、、、、、

僕は、戸惑いつつ台の上の僕に近づいた。顔を見る。見慣れた自分の顔だった。腹のほうに視線を移すと、シーツが赤黒く染まっていた。
ライトの照らす先を恐る恐る覗いてみると、下腹がズタズタに切り裂かれていた。素人目から見ても医療行為とは程遠い、力任せに肉を割いた跡。赤黒い血と黄色い脂肪が混ざり合い、ピンク色のヒダを形成している。傷の隙間からは、内臓が露出していた。
あまりの光景に、僕は思わず嘔吐した。が、口から出たのは吐瀉物ではなく、白い煙だった。

えずいている間も、二人の男はこちらを見なかった。
僕はどれだけえずいても涙も吐瀉物も出ず、自分の死体にも触れなかった。
二人の男が片付けを終えるころ、自分が死んで霊的な存在になっていることを僕は理解した。と言うより、認めざるを得なかった。

なぜこんなことになったのか。僕は混乱する頭で覚醒する前のことを思い出していた―――あの女。彼女と飲んでいた時の不可思議な酔い方。何か盛られたのかもしれない。落ちる直前の映像がフラッシュバックした。
自分の死体をもう一度見る。自分の死の瞬間すら気づかないほど昏倒していた僕。普通の眠りではありえない。眠らされた後、麻酔でも吸わされたのだろう。
そして、大量の医療器具と険悪な雰囲気を見るに、僕を実際に切り刻んだのは多分、白衣のあの男たちだ。

しばらく目を瞑った。かなり長い時間。頭が追い付いても感情が追い付かなかった。泣くタイミングは逃していたし、そもそも涙も出ない。
目を開けた時、妙に落ち着いていた。後悔や恐怖はパニックの中に置いてきてしまった。僕に残っていたのは復讐心、それだけだった。

冷静になって、気がついたことがもう一つあった。霊体の僕のデニムのポケットにスマートフォンが入っている。生きていた頃使っていた機種と同じものだった。電源を入れると、ホーム画面に一つだけアプリが表示された。生前も使っていたチャットアプリだ。アプリを起動すると連絡先がたった一つ登録されていた。あの女の連絡先だった。

「昨日はありがとう、ちょっと飲みすぎちゃった。また会えるかな?」
冴えた頭と震える手で、僕はメッセージを打ってみた。5分ほどで既読が付く。
「こちらこそありがとう。めっちゃ楽しかった!また飲もうね~」
彼女から帰ってきた返事は、思った以上にあっけらかんとしたものだった。
僕はスマートフォンを強く握りしめた。閻魔かハデスかアヌビスかが僕に復讐のチャンスをくれたに違いなかった。

復讐をするためには自分が何ができるのか知らなくてはいけない。僕は二人の男のほうを向いた。散らばった器具を片付けた後、二人は口論を再開していた。大方、僕の死の責任でも押し付けあっているのだろう。
僕は、アジア系の男に近づき、蹴り飛ばそうとしてみた。
しかし、僕の足は何の感触もないまま男の体を通過した。生体には触れないようだった。
生体だけが触れないのか。しかし、もはや生体ではないはずの自分の死体にも僕は触れなかった。物体も触れないのか。では、床は?立っているのだから、床には触れているはずだ。そう思って足元をよく見ると、自分が少しだけ浮いていることに気がついた。なるほど、幽霊は浮くものと相場が決まっている。

男たちへの復讐は叶いそうになかった。ならばせめて、あの女だけでも僕と同じ目にあわせたい。全ての元凶のあの女に。
しかし、何も触れないのにどうやって復讐すればいいのか。しばらく考えを巡らせたが、いい案は浮かばず、部屋を出て歩きながら考えることにした。
扉をすり抜けると、ほこりまみれの薄暗い廊下に出た。左手に階段を見つけ、下っていく。3階分ほど階段を下ると、外につながるガラス扉が現れた。外に出たところで改めて自分が殺された建物を見上げる。雑居ビルともアパートともとれる怪しい雰囲気の建物だった。今更だったが、少しだけ感傷に浸った。

ビルを出た先は細い路地だった。全く身に覚えのない道な上に夜だったのでしばらく同じところをぐるぐるしてしまったが、何とか大通りに出て人の波に乗った。誰も僕の存在を認識できていないようだ。一息ついたところで改めて携帯電話を取り出し、彼女とのメッセージを見返す。
何にも触れず誰にも感知されない僕が、唯一彼女とだけは連絡が取れる。彼女への復讐心が僕を現世に繋ぎ留めている証拠に思えてならない。

もう一度他愛もないメッセージを送ってみる。「普通に」帰ってくる。さらに送る。帰ってくる。何通かのやり取りを経た後、僕は彼女に電話をかけてみた。
何回かの呼び出し音の後、彼女は出た。
「どうしたの、急に」
話せる。誰にも感知されない僕が、彼女とだけは話せる。その事実に、僕はしどろもどろになりながら、会話を続けた。

しばらく世間話をした後、僕は意を決した。
「近々また会えないかな?できれば君の家で」
会うなら、外よりは彼女の家がいいと判断した。僕自身、今の体で彼女に何ができるのか分かっていない。彼女に対しても試さなければいけないことが沢山ある。たとえ僕の姿は人に見えなくても、復讐を成すには人目に付かない場所のほうが都合がいい。
会話がピタリと止まった。いきなり家は急きすぎたか。生きていたなら汗が滲んでいただろう。家のほうがいいとはいえ、彼女の繋がりが切れたら、僕は……。
「また急だねえ。いいよ、いつにする?」
突然の返答で我に返った。彼女と会える。腹に力が入るのを感じた。
どう復讐するかは決めていなかったが、とにかく前進はした。

彼女と会う約束の日まで、僕は自分の体で色々と実験をしてみた。しかし、相変わらず何も触れない。人に危害を加えるなどできそうもなかった。生理現象もすべて止まっており、腹も減らないし眠たくもならない。そもそも物が食べれない。どう彼女に復讐していいのか思いつかない時間が続いた。

霊体になって三日目の昼下がり、僕は焦っていた。彼女の約束が二日後に迫っている。もう時間がない。しかし、焦りに任せて大きく息をついた時、ある考えが僕の頭に浮かんだ。
僕は部屋を文字通り「飛び出す」と、チャットで教えてもらっていた彼女の部屋に向かった。僕と話せる唯一の人間、彼女の部屋ならあるいは……。


「どうして僕を殺したの」

彼女の目が色を失くしていく。テレビ番組の音はもう聞こえない。世界の中心が僕になった、そんな感覚が僕に宿った。静止した世界の中で、緩く昇るビールの泡だけが時間の経過を表していた。
僕は席を立ち、ゆっくりと彼女に近づいた。

彼女の部屋に行った二日前、僕は彼女の部屋のドアをすり抜けようとした。そして、すり抜けられなかった。物が体にあたる感触。久々だった。
ドアノブに触れてみる。ひやりとした感覚が僕の指先を走った。触ることができる。ノブを回すと鍵がガチャガチャと鳴った。
僕の思った通りだった。彼女とだけは話せたように、彼女のものには触れる。
彼女への復讐心、それが僕をこの世に繋ぎ留めている。そう確信した。

そして今日、わざとビールをこぼして彼女に触れた。彼女にも触ることができた。久々に感じる人の体温。これからなくなるであろう体温。暖かいのにゾクリとした。

一歩一歩彼女に近づく。殺すほど憎んでいるのに、いざ目の前にすると少しかわいそうに思えた。反撃されないという自信が、手に掛ける者の余裕がそう思わせるのか。
彼女の横に立つ。動かない彼女の首に手をかけ、力を込めた―――はずだった。

力が入らない。
彼女の首にかけた手はピクリとも動かなかった。彼女の顔を覗き見る。
薄くわらっていた。
「つまんない男。どうせ、私への恨みで自分が成仏してない、とか思ってたんでしょ」
彼女の顔がこちらに向いた。目に侮蔑の色が浮かんでいた。

彼女は軽く肩をすくめ、続けた。
「霊感、ってね、霊を見る能力じゃないの。霊をこの世に留まらせる能力。霊がこの世に居れるかどうかは霊が決めるんじゃなくて、霊感を持っている人間が決めるの、、、、、、、、、、、、、、、
彼女はそこまで言ってビールを飲んだ。もはや余裕なのは彼女のほうだった。
「つまりね、君が今現世にとどまってるのは、君の力じゃなくて、私の体質。体質だから、望んで発動出来るわけじゃないんだけどね。好きに使えれば、イケメンだけ呼び出すのに」

彼の女は声を出して嗤った。
「君みたいな、女に鼻の下伸ばして寝首掻かれただけの人間が化けて出れるほど甘い世の中じゃないわけ。第一、今生きている人間って八十億人ぐらいしかいないんだよ。対して今まで死んだ人間は千億人以上。君みたいなボンクラがその千億人の中から選ばれるわけないってこと」

彼女が席を立つ。僕は全く動けずにいた。
彼女は部屋を見まわした。
「いい部屋でしょ、学生っぽくなくて。内臓ってやっぱり結構高く売れるんだよね。まあ、一発で何億とか何千万とかって訳にはいかないけどさ。でもね、私ぐらいのヒヨッコだと良い医者と組めないんだ。腕が悪すぎて表の世界を追われたようなのばっかり。」
小柄な東南アジア系の男とひょろっとした白人の男が脳裏に浮かんだ。
「そういう意味では申し訳なかったかな。私がもっと良い医者と組めるような立場だったら、多分君は死なずに腎臓の一個でも取られて、その辺の道端に捨てられただけのはずだから。まあ、君の運が悪かっただけとも言えるけど。」

彼女はまたテーブルに近づき、ビールを口にした。彼女のグラスが空になる。細い喉がまた揺れる。
「もう分ってるかもしれないけど、初めてじゃないんだよね、君みたいな人。人なのかな、まあいいや。そりゃ初めての時は驚いたけど、何人か続くともう慣れちゃった。セックスみたいなもんだね。ああごめん、君とはセックスしてないんだった」

完全に小馬鹿にされていた。
騙され、殺され、霊になって出た挙句に馬鹿にされている。僕の腹にふつふつと怒りが沸き上がり、すぐに爆発した。
「死ねっっ!!!」
気がつくと僕は叫んでいた。

「本当に格好悪いね、君。今まで来た奴の中でも最低だよ。何の趣向もないじゃん。まあいいや、そういうことだから。私のせいで現世の最後の言葉が、死ね、になっちゃってごめんね」
彼女の溜息とともに、僕の体は霧散した。

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