トマ・ピケティ 「21世紀の資本」の抜粋(全文網羅)

【感想】
この本で述べられている内容自体は、経済学の専門的な教育を受けていなくても理解できるはずだ。(中学レベルの知識は難しいであろうが、高校レベルあれば十分)そして、筆者の主張を裏打ちするように、数式・データが提示される。この数式とデータの科学的側面の理解には、やや専門的な教育が必要かもしれない。

筆者は、社会科学者としての立場を強調する。数式に固執せず、データより現実を認識し、未来志向の意見・方策の提示がなされている。そのためには、社会科学者の間の協力が必要と考えているようである。

述べられている内容に目新しいものはない。巷で聞いたことがあるような内容ばかりだ。しかし本書では、これらはデータという客観的な指標とともに提示される。そのため、内容が事実として頭に刻み込まれる。そして、筆者の主張に沿うように事実が組み立てられおり、その思考回路が本書のエッセンスであろう。この思考回路が自然と吸収されるということが、本書が「教養本」と言える所以である。繰り返すが述べられる個々の内容自体は、それほど価値があるとは思えない。流れを掴み思考回路を吸収するためには、通読することが必要である。

個人的には、こういった著書で社会に訴えるという方法で、ノーベル賞を獲得できるのかに興味がある。


【抜粋】
収斂に向かう主要な力は、知識の普及と訓練や技能への投資だ。

この根本的な不等式をr>gと書こう。(rは資本の平均年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ。) p28

1970年から1980年にかけて、トップ1パーセントの所得がめくるめくほどの増大を遂げていることを発見した

社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない 人権宣言

資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出し、それが民主主義社会の基盤となる能力主義的な価値観を大幅に衰退させることなるのだ。

歴史分析と、ちょっと広い時間的な視野の助けを借りると、産業革命以来、格差を減らすことができる力といのは世界大戦だったことがわかる。

マルクスの主要な結論は、「無限の原理」とでも呼べるものだ。

先人たちと同じく、マルクスもまた持続的な科学技術進歩と安定的な生産性の向上の可能性を完全に無視していた。これはある程度までは、民間資本の蓄積と集積のプロセスに拮抗する力になる。

1913年から1948年にかけて、米国の所得格差は急激に下がっていた。

工業化の初期に格差が増えるのは、工業化がもたらす新しい富から利益を得る用意がある人々はごく少数だから、ということになる。

誰が何を所有しているかを問わずに、成長が長期的には自然に「バランスがとれている」とはじめから想定してしまうのは馬鹿げている。

収斂に向かう主要な力は、知識の普及と訓練や技能への投資だ。

階級戦争に世代紛争が取って代わる

過去数十年における高い資本/所得比率への復帰は、大部分が比較的低経済成長のレジームへ戻ったことで説明できる。

低成長経済では、過去の富が当然ながら重要性を大きく高めることとなる。というのも富のストックを安定して大幅に増やすためには、新規の貯蓄フローはごく少額ですむからだ。 p28

この根本的な不等式をr>gと書こう。(rは資本の平均年間収益率で、利潤、肺胞、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ。) p28

根本的な不等式r>g、つまり私の理論における格差拡大の主要な力は、市場の不完全性とは何ら関係ないということは念頭においてほしい。その正反対だ。資本市場が完全になればなるほど(これは経済学者的な意味での話だ)、rがgを上回る可能性も高まる。 p30

1900年代初期にパリとロンドンで実現された、GDP比で見た株式市場の総価値を富裕国が回復できたのは、やっと21世紀になってからだったという点を考えよう。 p31

率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。 p34

国民所得における労働と資本の分配率は、長期的に見てかなり安定してるという話だった。一般に言われている数字は、労働が3分の2、資本が3分の1というものだ。 p44

あらゆる産出は、何らかの形で、労働か資本に対して所得として分配されねばならない。賃金、給与、賞与、ボーナスなどとして支払うか(つまり労働者など生産プロセスで労働を提供した人に支払うか)、利潤、配当、金利、レント、ロイヤルティなどとして支払うかか(つまり生産のプロセスで支払いとなるか)のどちらかになる。p48

一部の民間利益団体がこうしたもの(大気や海、山、史跡や知識などの財産)を所有したいと思い、ときにはその欲求を単なる利己性だけでなく効率性の観点から正当化する。 p50

特に、蓄積と占有との境界線には注意が必要だ。 p51

資本はどんな形のものでも二重の役割を果たしてきた。価値を蓄積するものでもあり、生産要素でもあるのだ。p51

今日の先進国では、資本/所得比率(β)はだいたい5から6ぐらいで、資本ストックはほとんどが民間資本となる。例えばβは日本とイタリアでは6以上。 p54

富裕国の市民はそれぞれ2010年に3万ユーロを稼ぎ、18万ユーロの資産を保有しているが、そのうち半分の9万ユーロは住宅で、残り9万ユーロは株式、債券、貯蓄、その他の投資だ。 p55

株式の平均長期収益率は、多くの国だと7-8%だ。不動産や債券投資は3-4%くらいの収益率が多く、公債の実質収益率はときにずっと低い。 p57

地方社会における土地の平均収益率は4-5%くらいだということも述べておこう。 p58

貯蓄率が高いほど、そして成長率が低いほど、資本/所得比率(β)は高くなる。 p59

欧米が産業革命で実現したリードにより、世界に占める人口比率の2倍から3倍の世界産出シェアを実現できた。 p64 

主要先進国は現在、国内生産よりちょっと高い国民所得を享受している。米国、フランス、イギリスではGDPの1-2%、日本とドイツではGDPの2-3%だ。 p72

一部の富(住宅不動産や農業資本)はめったに外国投資家が保有されることはないので、ここから考えるとアフリカの製造業資本は4-5割超が外国人に所有されているらしく、他の産業セクターではもっと高いかもしれない。 p73

全体として1913年のヨーロッパ列強は、アジアとアフリカの国内資本の1/3から1/2を所有していたと推定され、そうした地域の工業資本の4分の3以上を持っていたようだ。 p74

富裕国の貯蓄と資本がだぶついていて、新規の機械整備追加の理由もあまりない場合(この場合、経済学者たちは「資本の限界生産性」、つまり新しく資本を1単位追加したことによる「限界での」追加の産出増がとても低いと言う)、その国内貯蓄の一部を外国のもっと貧乏な国に投資するのは、集合的に効率が高くなる。 p74

こうした国(日本、韓国、台湾、中国)はすべて、物理資本への投資、それ以上に人的資本に必要な投資を自力でまかなったのだ。 p75

世界経済への参加はそれ自体がマイナスではない。自給自足が繁栄をもたらしたことは一度もない。 p75

財やサービスの開放市場や、有利な交易条件からの恩恵のほうが、自由な資本フローからの恩恵よりもはるかに大きな利益をもたらしている。 p76

自由貿易からの利益は主に、知識の普及と国境開放で必要になった生産性向上からくるのだ、ということを多くの研究が示している。 p76

専門特化からくる静的な利益はきわめてわずかなものらしく、ほとんど影響していない。 p76

成長がゼロか、とても小さいときには、各種の経済機能や社会機能や各種の専門活動は、世代ごとにほとんど変化なしに再現され続ける。 p90

ヨーロッパにかぎらずどこでも、長期的な購買力改善と生活水準向上は、主に消費の構造が変化することで生じる。 p92

インフレがなくきわめて低成長の時期に、こうした金額がきわめて具体的で安定してた現実を反映しているということだ。 p112

明らかに社会構造はまるでちがうけれど、ものの見方や期待や上下関係を金銭的な言及との関連で描き出すことは、その頃も可能だったわけだ。 p116

常にリスク志向で、(少なくともはじめのうちは)起業精神にあふれているが、十分に蓄積すると、必ずレントに変わろうとする--それが資本の天命であり、論理的な目標だ。 p122

経済と産業の発展過程で、住宅は規模だけでなく質と価値の面でも重要性を増しているのだ。p125

取引の黒字を出して植民地を併合し、外国資産を蓄積する目的は、まさに貿易赤字を出せる立場に立つことだったのだ。永遠に貿易黒字を出していても、利益は得られない。モノを所有する利点は、労働なしに消費を続けられること、もしくは、とにかく消費を続けて、自分が生産するより多くを蓄積することなのだ。 p127

18,19世紀のイギリスでは、政府がときどき巨額の公的債務を抱えこんで、民間財産を増加させる傾向が見られた。 p132

財政赤字によって民間財産に対する需要が増加したせいで、その財産からの収益も否応なく増えn、国債へ投資収益に繁栄が左右される人々はさらに儲かった。 p137

19世紀、貸し手には気前良く利払いが行われ、民間財産はそれで増加していた。20世紀には、負債はインフレに埋れてしまい、返済も価値が減少しつつあるお金で行われたということだ。おかげで財政赤字は、実質的に国にお金を貸した人の資金で埋めあわされ、同額の増税をせずにすんだ。 p139

イギリスの莫大な公的債務は、国富に目に見える影響は与えないこと、そしてこれがある集団が別の集団に対して負う債権に過ぎない。 p141

ドイツ企業の市場価格の低さは「ライン型資本主義」あるいは「利害関係者モデル」と呼ばれる特徴の繁栄らしい。 p152

1914-1945年はヨーロッパのすべての人間にとって暗黒時代だったが、特にベル・エポック期と比べて所得が激減した富裕層にとっては、なおさらだった。そのため民間貯蓄率はI-比較的低く(戦争の賠償金と、被害を受けた財産の再調達を差し引いたらなおさら)、その結果として一部の人は資本を切り売りして生活水準を維持した。 p156

イギリス、フランス、ドイツに関する詳細な推計を見ると、第二次世界大戦の不動産価格と株価の低さは、1913-1950年の資本/所得比率の減少要因として無視できないが、それでも減少分に占める比率は小さい。その比率は国にもよるが1/3-1/4ほどで、むしろ数量効果(国民貯蓄率の低さ、海外資産の損失、破壊)が減少分の3/2-3/4を占めている。 p157

不動産・株式市場価格の非常に強い回復で、資本/所得比率の回復の大きな部分は説明がつくが、それでも数量効果ほど重要ではない。この数量効果は、今度は成長率の構造的減少と関係していた。 p157

国民所得の半分超が労働に対する支払いにまわり、その労働所得のフローを、資本に対する所得フローと同じ(もしくはほぼ同じ)比率で資本化するなら、人的資本の価値は、そのあらゆる資本の価値を上回るに決まっているのだ。 p171

ある国が所得の12%を毎年貯蓄しており、当初の資本ストックが所得の6年分とすると、資本ストックの成長率は年間2%だ。つまり国民所得とまったく同じ比率であり、資本/所得比率は増加して、やがて均衡水準に達する。 p178

民間貯蓄に構成要素が二つあることも明らかにしておこう。民間個人が直接行った貯蓄(世帯可処分所得のうち、ただちには消費されない部分)、そして企業がその所有者である民間個人にかわり、直接的あるいは間接的投資を通じて間接的に行う貯蓄だ。この二番目の構成要素は企業が再投資する利益(「内部留保」とも呼ばれる)が占めており、国によっては民間貯蓄総額の半分にも達する。p184

さまざまな部門(家計、企業、政府機関)が保有する金融資産や負債の総額が、純資産より急激に増加したという意味で、これが富の構造を変えたのだ。 p201

特定地域のキャピタル・ゲインは、魅力が失われつつある他の地(小さな都市や、斜陽しつつある街)のキャピタル・ロスで相殺されることが多いようだ。 p205

18世紀、19世紀の資本のストックの価値推計は、労働と資本による所得フローの推計よりもおそらく正確だ。現代にもほぼ同じことが当てはまる。だからこそわたしは、これまでのほどんどの経済学者のように資本と労働の分配ではなく、資本/所得比率の変遷を強調してきたのだ。 p212

資産管理には規模の経済が重要 p214

追加分の収益率は、主に仕事にささげらえた労働に対する報酬で、資本による純粋収益(4-5%でも悪い収益率ではない) p216

普通預金口座を加えると、合計は国民所得の30%超、総資産のぎりぎり5%まで増える p217

実質資産は名目資産よりはるかに一般的だということだ。一般に、総家計資産の4分の3以上を占めており、9割りに達する例もある p219

最大の富は、もっともうまくインフレ連動しており、分散されていることがしばしばで、小さな富--当座預金や普通預金口座が典型的--が、インフレから最も深刻な影響を受けると考える根拠は十分にある。 p220

インフレが平均資本収益率に及ぼす潜在的影響はごくかぎれていて、見かけ上の名目効果よりはるかに小さい。 p220

生産関数の特徴は、資本と労働の代替弾力性を定めることだ。つまり、必要な財やサービスを生み出すための労働を、資本でどのくらい容易に代替できるか(あるいは、資本を労働でどれだけ容易に代替できるか)を表す。 p225

歴史的経験から見て、最も可能性が高いのは、数量効果が価格効果に勝るという結果で、この場合、蓄積効果は資本収益率の低下に勝る。 p230

資本/所得比率βの着実な増加、そして国民所得の資本シェアαの着実な増加を妨げる自己修正的なメカニズムは存在しないことは、ぜひとも指摘しておきたい。 p230

どんな形の資本でも(好例が農地)、ある点を超えると価格効果が数量効果を上回る。 p231

(労働と資本の相対的交渉力は変化しても)技術の構造形態--および資本と労働の相対的重要性--が変化しない場合、または技術の変化はほんのわずかにすぎない場合(私は、可能性のほうがありそうだと思う)に、資本/所得比率の増加が所得の資本シェアを引き上げる。 p232

β= s/gの法則が明示しているように、生産性と人口の永久的な成長のみが、永続的に追加される新たな資本と釣り合いをとれる。 p237

資本の収益率が5%の場合、この企業の産出価値の半分超が利潤になる。 p238

歴史的な低成長レジームへの回帰、特にゼロあるいはマイナスの人口増加は、論理的に資本の復活をもたらす。 p242

経験的に見て、資本/所得比率は上がると予想されても、それで資本収益率が大幅に低下するとはかぎらない。超長期でみると資本の使い道はいろいろある。この事実は資本による労働の長期代替弾力性が、おそらく1より大きいことに注意すればわかる。したがって最も可能性が高いのは、収益率の減少が資本/所得比率の増加より小さく、資本のシェアが増加するという結果だ。 p242
超長期でみると、技術の変化が資本よりも人間の労働にわずかに有利に働く可能性があり、そうなれば資本収益率と資本シェアは低下する。 p242

歴史的に見るとその所有からくる所得フローの重要性を確実に減らす自然の力は存在しないということだ。 p243

住宅は中流階級と小金持ちに人気の投資だが、本当の富は常に金融、事業資産が主体なのだ。 p269

真の「世襲(あるいは資産を持った)中流階級」の台頭は、20世紀の先進国における富の分配で、重要な構造変化だったのだ。 p270

総所得の格差が、資産格差よりも労働所得格差により近いことにも注目。 p272

20世紀を通じた所得格差の大幅な縮小は、ほぼ最上位の資本所得の減少だけによるものだ。 p283

資本所得が決定的に重要になるのは、トップ千分位、いやトップ万分位においてだけだ。トップ百分位全体でみると、その影響はあまり重要ではない。 p287

不労所得生活者(富から得られる年収で生活できるだけの資産を持つ人々)が優勢を占める社会から、所得階層のトップ百分率っを含む最上位層が、主に労働所得で生活する高賃金獲得者によって構成される社会へと移行してきたのだ。p287

両対戦間には高校教師や年季の入った小学校教師ですら、「9%」に属していたが、現在では大学教授か研究者、あるいはもっといいのが上級国家公務員にでもならないかぎり、この層に入れない。 p290

「9%」に食い込み、さらに「1%」の下層に登りつめたいなら、平均の4-5倍の所得が必要だから(平均所得が月2000ユーロの社会で、月8000から1万ユーロ稼ぐことになる)、医師、弁護士、成功したレストラン経営者になるのは良い戦略だし、大企業の最高経営者になるのとほぼ同じくらい(実際には半分ほどだが)一般的だ。 p290

労働と資本所得の比率が80対20%というのは、「9%」の所得構造のかなり典型になっている。 p291

1932年と2005年のフランスで、「9%」層での資本所得シェアは20%だが、トップ0.01%ではそれが60%になる。 p291

なぜ低賃金層や中間賃金層の賃金は、高賃金層に比べてインフレ連動するのだろう?労働者はある種の社会正義と公平性規範の考え方を共有しているため、最貧層の購買力急落を防ぐための努力が行われる一方で、もっと裕福な同志たちは戦争が終わるまで需要を我慢してくれと言われるからだ。 p298

多くの比較的未熟な労働者が徴兵される(あるいは、戦争捕虜収容所に拘留される)という事実もまた、労働市場における低、中間賃金労働者の相対的地位を高めたもしれない。 p298

その他のすべての仕事がほぼ完全に自動化され、各個人が教育、文化、健康の効用を、自分自身と他人のために追求する自由が極大化された理想社会だって十分に想像できる。 p320

最低賃金を課すのは単に公正だというだけでなく、賃金上昇が経済を競争均衡に近づけて雇用水準を増加させるという意味において、効率的でさえある。 p325

現在の米国における個人の技能や生産性の格差が、人口の半数が読み書きできない少し前(あるいは現在の)のインド、あるいはアパルトヘイト期(あるいはアパルトヘイト終焉後)の南アフリカよりも大きいなどということが本当にあり得るだろうか? p343

1970,80年代に超高額重役報酬などへの甘さを導き出した「保守革命」が米英を席巻したのは、おそらく他国に追い越されたという感覚がこれらの国にあったからではということだった。 p347

もしも限界生産性が重役報酬を決定するなら、そのちがいは外部の動向とはほとんど無関係に、「非外部的」な差にのみによって、あるいは主にそれによって決まると考えられるはずだ。でも実際に見られるのはその逆だ。役員報酬が最も急上昇するのは、売り上げと利潤が外部要因で増えたときなのだ。 p348

同じような富の極度の集中-トップ十分位が資本の80-90%を、トップ百分位が50-60%を所有する-は、19世紀以前の多くの社会、特に中世や古代のみにならず、近代の伝統的な農耕社会にも見られることにも注意。 p360

一般的に、この4-5%という資本収益率の相対的な安定性(そしてそれが決して2-3%よりも低くならないという事実)の説明に使われる経済モデルは、現在が優先される「時間選好」という概念に基づいている。言い換えれば、経済主体は、どのくらい性急で、どのくらい未来を計算に入れるかを示す時間選好率(通常θで表す)によって特徴づけられる。 p374

この(資本)収益率は、平均的な人の性急さと未来に対する態度を反映しているため、この水準からあまり変わりようがないのだ。 p374

資本の弾力性はプラスであるが無限ではないのは、歴史が示す通りだ。特に収益率がほどほどの妥当な範囲内で変化しているなおさらだ。 p375

「完全」な資本市場(資本の各所有者がその経済における最高の限界生産性に等しい利益を受け、誰でも好きなだけその利率で借りられる)の存在に基づいた標準的経済モデルでは、資本収益率rが成長率gよりも早く上昇することを知った経済主体は無限の裕福さを感じることになり、(rがgよりも高くなるまでは)すぐに消費するために無制限に借金をしたがることになってしまう) p375

成長率gは構造的に低くなりがちだ(いったん人口動態の変化が完結し、国が世界の技術最前線に到達して、イノベーションのペースがかなり遅くなると、通常年間1%を大きく超えることはない) p376

g=1%でr=5%ならば、富める人は年間資本所得のわずか5分の1を再投資するだけで、資本を平均所得よりも早く増やせる。

21世紀には、スーパー経営者と「中級不労所得生活者」を兼ねられる。新たな能力主義秩序はこれを奨励するし、おそらくそのしわ寄せをくらうのは低、中賃金労働者、中でも財産がないごくわずかな人々だ。 p393

19世紀の平均相続年齢はわずか30歳だった。21世紀にはそれが50歳前後になる。 p404

高齢化社会では相続時期は遅れるが、富も高齢化し、後者が前者を相殺する。 p405

最大の富を所有する高齢者は、たいてい自分自身の生活に必要な額を大幅に上回る資本所得を享受していた。たとえば5%の収益を得て、その資本所得の5分の2を消費して、残りの5分の3を再投資したとする。そうするとかれらの富は年率3%で増え、85歳になると60歳のときの2倍金持ちになっている。 p410

ある閾値を超えると、資本は自己再生産して指数関数的に蓄積する傾向にあるという事実は変わらない。 p410

国民所得の20%にあたる年間相続フローが約30年続けば、国民所得約6年分という膨大な額の遺産や贈与が蓄積され、それが民間財産のほどんどを占めることになる。 p417

一般的に貯蓄率は国民所得のおよそ10%だ。 p418

可処分所得との比較は、今日の現実をもっと具体的に反映しており、相続財産がすでに世帯財源(これはたとえば貯蓄などに使える)の5分の1を占め、それがすぐに4分の1以上に達することを示している。 p419

労働所得トップ1%の人が持つ資産は、下層階級の約10倍だった。 p423

1789年に貴族が人口の1-2%を占めていたことを思い出してほしい。 p424

今日のフランスにおける社会階層トップ百分位は、相続財産とかれら自身の労働の両方からほぼ同額の所得を得ている場合が多い。 p424

それでも公式指標を見ると、1800年代のイギリスとフランスにおける1人当たり平均購買力は、2010年のほぼ10分の1ということになっている。言い換えれば、1800年の平均所得の20倍や30倍の所得では、現在の平均所得の2,3倍程度の生活しか送れないということだ。 p431

現代の能力主義社会、特に米国は敗者に対してずっと厳しい。なぜならその社会は、根底の人々の低い生産性は言うに及ばず、正義、美徳、能力が優れているから自分たちの優位性は正当化されると主張したがるからだ。 p432

彼女(ミシェル・ラモン)はその人々のキャリア、自分自身の社会的アイデンティティと社会における位置づけをどう見ているか、そしてなにがかれらを他の社会グループやカテゴリーから分けているのかを尋ねた。彼女の研究の主な結果のひとつは、いずれの国においても「教育を受けたエリート」はまず何よりも、自分たちが厳格、忍耐、勤勉、努力といった(そして寛容、親切などの)言葉を使って表現した、自分自身の個人的長所と道徳的資質を強調するということだ。オースティンやバルザックの小説のヒーローやヒロインたちは、自分の個人的資質を(本文では名前の挙がらない)使用人たちと比較する必要など決して感じなかった。 p434

過去に蓄積された富に依存して生きている登場人物はすべて、公然と非難されないまでも、通常は否定的トーンで描かれる。オースティンやバルザックだとそのような生き方は完全に自然であり、登場人物同士が何らかの本当の感情をお互いに抱くためにはそうした生活が必須ですらある。 p436

人的資本の譲渡は常に金融資本や不動産の譲渡に比べ複雑なため(人的資本だと相続人も努力が必要だ)、これが相続財産の終焉が公正な社会を生み出したという考えの幅広い-そして一部正当化された-確信につながっている。 p436

現在は所得分布の底辺半数の平均年間賃金は約1万5000ユーロで、50年のキャリアでは(退職後も含め)総額75万ユーロになる。これはおおむね最低賃金がもたらす生活だ。 p437

私たちの民主主義社会は能力主義的な世界観、少なくとも能力主義的希望に基づいている。それは、格差が血縁関係やレントではなく能力や努力に基づいた社会を信じているという意味だ。p438

時には経済的、技術的合理性は、民主主義的合理性と無関係だ。前者は啓蒙運動から派生したものだが、人々は後者がまるで魔法のように何となく自然に前者から生まれるものだと、あまりに平然と考えてきた。しかし、本当の民主主義と社会主義には、市場制度や、議会など形式的民主主義的制度期間以外に、独自の制度が必要だ。 p440

ドイツ当局の記録によると、年間贈与額は1970-1980年以前には総相続額の10-20%だった。それが次第に増えて、2000-2010年には約60%を占める。 p442

フランスやドイツでは1970-1980年以降、贈与が総相続額の60-80%に増大したのに対し、イギリスでは贈与は総額の約10%で安定したままだ。 p444

世界1人当たり平均資産は年間2.1%増加しており、世界の平均所得は年間1.4%増加している。 p451

国家機関や国際機関-およびほとんどの経済学者たち-が、本来担うべき役割を果たしていないことを際立たせている。民主的透明性のためにそうした情報は必要なのだ。 p454

『フォーブス』のランキングでは、ときに億万長者を三つに分類している。純起業家、純相続人、「財産を殖やした」半相続人だ。『フォーブス』のデータによると、純相続人の数は減少しつつあり、半相続人の数は増加しつつあるが、この三つの集団のそれぞれが全体の約3分の1ずつ占めているという。 p459

このビル・ゲイツ崇拝としかいいようのないものはまちがえなく、格差を何とか正当化したいと思っている現代の民主的社会の明らかに抑えきれないニーズが生み出したものだろう。 p461

基金の階層の上方に向かうほど、「代替投資戦略」が多い。つまり、プライベート・ファンドや、外国の非上場株(かなりの専門知識が必要)、ヘッジファンド、デリバティブ、不動産、そしてエネルギー、天然資源、関連製品(これらも特別な専門知識を必要とする。潜在的利回りは非常に高い)を含む原材料など、非常に高利回りの投資だ。(中略)手元のデータによると、最大の基金に年間およそ10%の実質収益をもたらしているのは、明らかにこれらの代替投資戦略で、小規模な基金は収益率5%でやりくりしなければならないようだ。 p466

実際には、必要に迫られたら規則は迂回できる。特に同族経営のまったく私的な財団と、本当の慈善団体とを区別するのはしばしば困難だ。(中略)つきつめると、財団のうちどれくらいが本当に公益性をもつのか、正確に見極めるのは非常にむずかしいのだ。 p469

ほとんどの人にとって最も単純な投資方法が、戸建て住宅を買うことだ。インフレ対策になるし(住居の価格はたいてい、少なくとも消費者物価と同じ速度で上昇するため)、家賃を支払わずにすむ。これは投資でいうと年間3-4%の実質収益に等しい。 p472

インフレがゼロだった19世紀、小口の貯蓄者が(例えば国債を買って)実質収益3,4%を手にするのは比較的容易だった。 p472

天然資源の開発による年間レントは、2000年代半ば以来、世界のGDPの約5%だ。1990年代はそれが約2%、1970年代前半は1%未満だった。 p477

世界の資本/所得比率進展の中位シナリオで、この国際的収斂プロセスが終わりに近づくにつれて、貯蓄率は国民所得の約10%で安定すると私は予測した。 p481

外国の(あるいはフランス在住の外国人の)買い手の増加を理由に説明できるのは、価格上昇のせいぜい3%だ。 p481

富裕国が今日、資産が自国の手を離れつつあると感じる主な理由は、民主的な主権が失われているためだ。 p482

報告されていない巨額の金融資産がタックス・ヘイブンに存在する。この金額は世界のGDPのおよそ10%に相当する。 p484

資本課税は、私的利害よりも一般的な利害を優先させつつ、経済的な開放性と競争の力は維持する。 p489

現代の所得再分配は、権利の論理と、基本的と見なされたいくつかの財についてはアクセスの平等という原理に基づいて構築されているのだ。 p498

格差の意味を定義し、勝者の立場を正当化するのがきわめて重要だということであり、これを狙って各種の事実の歪曲が見られるはずだということだ。 p507

所得分布の底辺50%は所得の40-45%を税金で持って行かれる。次の40%は45-50%だ。でもトップ5%と、それ以上にトップ1%は低い税率になり、トップ0.1%しか支払っていない。 p517

グローバル化が富裕国の最低技能労働者たちに重い負担をもたらすことを考えれば、原理的にはもっと累進的な税制が正当化されると言えるので、全体の構図さらに複雑性のレイアーが追加されることになる。(中略)累進課税は万人がグローバル化の恩恵を受けるようにするためには欠かせないし、累進課税の不在がますます露わになれば、最終的にはグローバル化経済への支持がなくなりかねない。 p519

米国の政治プロセスは1%に牛耳られてしまったのか?この発想は、ワシントンの政治情勢の評論家たちの間でますます支持を得るようになっている。 p537

保護主義は富を生み出さず、自由貿易と経済開放は最終的に万人の利益になる。ただし、それは一部の国が隣国の課税ベースを吸い上げて周辺国を犠牲にしない場合に限る。 p548

だが確実なのは、政治論争でしばしば行われてきたような、国債収益率を参照するのはほとんど筋が通らないということだ。最大級の財産は明らかに国債になんか投資されていないのだから。 p556

資本所得は健全な形で使われるべきで、たとえばよい仕事に対する報酬にすべきであり、真の信仰から逸脱しかねない無謀な商業や金融的な活動に首を突っ込むのに使うべきではなかった。土地資本はこの点できわめて安心できるものだった。というのも土地は、毎年毎年、毎世紀毎世紀、自己再生産する以外に何もできなかったからだ。結果として、社会秩序と宗教秩序もすべて不可侵に思えた。地代は、民主主義の仇敵になる前は(少なくとも土地を貯め込んでいる人々にとっては)、社会的調和のすばらしい源泉だと長いあいだ思われていたのだ。 p557

私有財産と市場経済は、自分の労働力しか売るモノがない人々に対する資本の支配を確実するだけが役割ではなかったということだ。 p558

保護主義には不等式r>gや、富がますます少数者の手に蓄積する傾向などを止める働きはまったくない。 p560

今後数十年で富裕国はますます資本統制に頼るようになる見込みが高い。 p561

人民元は交換可能通貨ではない。(交換可能になるのは、人民元に逆張りを試みるどんな投資家でも踏みつぶせるほどの準備高を蓄積したと中国が考えたときだろう) p561

再分配と世界の富の格差規制について、一見するともっと平和的に思える形態が移民だ。資本を動かすといろいろ面倒なので、ときには労働のほうを賃金の高いところに移動させたほうが簡単だ。 p565

イギリスでは、公的債務は国民所得2年分を上回ったことが二度もあった。最初はナポレオン戦争の終わり、二回目は第2次世界大戦後だ。 p567

民間資本に対する例外的な課税が、最も更生で効率的な解決法だ。それがだめなら、インフレが有益な役割を果たせる。(中略)公正の面でも効率性の面でも最悪の解決策は、緊縮財政を長引かせることだ。それなのに、ヨーロッパは現在、まさにこの手法を採っている。 p568

現状のままだと、政府は公的債務の残高に対して多額の利子(賃料ではなく)を支払わねばならないので、状況は同じ資産の利用に対して賃料を支払うのとあまり変わらない、ということはぜひ理解しよう。 p569

資本税は他のどんな税金と同じく、人々が有益に(消費や投資に)使えたはずのリソースを奪うことになるが、これに対してインフレは(少なくとも理想的な形では)主に自分のお金をどうしていいかわからない人々に損失を与える。そういう人とはつまり、預金口座に大金を寝かせてある人や、タンス預金をしている人々だ。手持ちのすべてを実物経済資産(不動産や事業資産)を使ってしまった人は影響を受けないし、もっといいことだが、借金をしている人々にも害を与えない(インフレは名目負債を減らし、おかげで借金を背負っている人々はもっとはやく立ち直れ、新しい投資が出来るようになる)。この理想的なバージョンだと、インフレはある意味では遊休資産に対する課税であり、動的な資本を奨励するものとなる。 p575

富の格差を減らしたり、異様に高い公的債務水準を減らしたりするなら、累進資本税のほうが一般にインフレよりよいツールなのだ。 p575

政府も国民も中央銀行は政治的なコントロールから独立すべきであり、唯一の目的として低インフレを目指すべきだと確信していた。だからこそヨーロッパは国家なき通過を作り、政府なき中央銀行を創ったのだった。2008年危機はこの中央銀行業務の静的な味方を粉砕した。深刻な経済危機に、中央銀行は重要な役割を果たさねばならず、既存のヨーロッパ制度はそうした目先の任務において、まるで役立たずだということが明らかになってしまったのだ。 p586

論理的には、こうした(ユーロ導入による)通過主権の喪失は、各国が予想できる低利での借り入れが保証されることで補われるべきだった。 p588

既存の国家元首や財務大臣たちによる欧州評議会にはこの予算体の仕事はできない。かれらの会合は秘密だし、公開の一般討議はないし、当の参加者たちですら、必ずしも何が決まったのか確信できなさそうなのに、勝ち誇った深夜のコミュニケーションで、ヨーロッパが救われたと宣言して会合を終えるのが常だから。 p589

現行方式の問題点は、多国籍企業はあらゆる利潤を法人税がきわめて低い国にある子会社にわざわざ割り当てることで、とんでもなくわずかな税金しか支払わないですませるということだ。 p590

税制競争は通常は消費税への依存に向かうことを認識するのは重要だ。 p591

歴史的経験からして深刻な危機に際しては、緊急措置が必要となり、それが危機前には想像もできない規模にしばしばなりかねない点だ。そうした決定を憲法裁判所(または専門委員会)にケースバイケースで任せるというのは、民主主義から一歩後退となる。いずれにしても、判断の権限を法廷に渡すのはそれなりのリスクを伴う。実際、歴史的に見て憲法裁判官たちは、きわめて保守的な形で財政予算法を解釈するという残念な傾向を持つ。 p596

恥ずべき真実は、この巨額の国富がきわめて不均等に分配されているということだ。民間の富は公的な貧困の上に成り立っているし、これがもたらす特に不幸な結果のひとつは、私たちが高等教育に行う投資よりも債務の利払いに費やすお金のほうが今でははるかに多いということだ。 p597

「エコロジー的刺激策」の必要性をめぐる議論は、ヨーロッパでは特に盛んだ。多くの人々が、これこそ今日の悲惨な経済環境からの脱出方法だと考えているからだ。この戦略が特に魅力的なのは、現在多くの政府がきわめて低い金利で借り入れられるからだ。民間投資家たちが支出投資したがらないなら、政府が未来に投資して、自然資本の劣化見通しを回避してもいいだろう、というわけだ。 p598

本当の会計財務的な透明性と情報共有なくして、経済的民主主義などあり得ない。 p600

過剰な数式モデルはしばしば、単なる埋め草であり、内容の空疎さを隠す口実でしかなかった。 p605

18世紀や19世紀を研究すると、物価や賃金、あるいは所得や富の推移というのが自律的な経済の論理にしたがったもので、政治や文化の論理とはほとんどあるいはまったく無関係だと思えてしまう。でも20世紀を研究すると、こうした幻想は即座に崩れ去る。所得と富の格差を示すグラフや、資本/所得比率のグラフを一瞥するだけで、政治がいたるところに影響し、経済と政治変化が不可分に絡み合っているから双方をいっしょに研究すべきだとわかる。 p608

私は、あらゆる社会科学者、あらゆるジャーナリストや評論家、労働組合や各種傾向の政治参加する活動家たち、そして特にあらゆる市民たちは、お金やその計測、それを取り巻く事実とその歴史に、真剣な興味を抱くべきだと思うのだ。 p608

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