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連載小説|寒空の下(14)

 俺だけはどういうわけかクビにされなかった。嫌がらせをされることになるのだろうと思った。花蓮さんと笠原の代わりはすぐに派遣された。もともとは事務をしていた藤本という眼鏡の女性と、研修の時に一緒だった竹岡の二人だった。もちろん、木下と石田も残っていた。

 ショッピングモール側が決めた時間に沿って働く生活に逆戻りする羽目になった。防災センターと控え室の至る所には張り紙がされていて「飲酒禁止!労働時間厳守!賭け事禁止!」などと書かれていた。気持ち悪かったので全て剥がしたが、トイレから戻ると元に戻されていた。

 藤本が新しくリーダー的な役割を担うことになったらしく、みんなを集めて偉そうに指示を飛ばしていた。俺も強制的に集合させられた。基本的に女性の言うことなら、ある程度素直に聞くほうなのだが、気取ったショートカットのこの女に対してだけは違った。かけ離れた自分像を演じていて、実態がまったく追いついていないという感じだった。無論、話を聞く気にはなれなかった。

 藤本は「マニュアル通りに、誠実に働きましょう」と呼びかけた。俺はうわの空だったが、竹岡は振り子が壊れたみたいに激しく首を上下させた。彼は目上の人間が言うことは全て正しいと考えるタイプの人間なのだろうと思った。

 笠原が担当していた「東側平面駐車場出入り口」で働くことになった。前の場所よりもさらに暇になった。誘導をしなくても車が勝手に駐車場に入っていくし、買い物を終えた客たちは車に乗り込み、勝手に駐車場から出て行った。誘導する必要はまったくなかった。だが、懲りることなく駐車場に買い物カートを放置していく客が多く、見て見ぬ振りはできなかった。彼らと口喧嘩することが主な仕事になった。

 このポジションは反対側よりも日が当たった。しばらく働いていると、頭の中に南仏の絵画に描かれるような黄色が浮かんだ。タンポポみたいに真っ黄色な太陽。その光は人を開放的な気分にさせ、人間らしさを取り戻すのを助けてくれた。笠原の気が緩んでしまったのも仕方がなかったように思えた。俺は改めて彼のことが気の毒に思えた。だが、どこにいるか分からないし、会えたとしても何かをできるわけじゃなかった。大してお金がなかった。

 新体制になった初日、酒を飲むことはできなかった。労働時間よりも多く休憩を取ることもできなかった。控え室に戻れば誰もいないか、藤本がいるかのどちらかだった。彼女がいるときは必ずといっていいほど小言を浴びせられた。「制服の着方がだらしない・・・顔が疲れている・・・」執拗に繰り返してきたので、口を粘着テープでとめてやりたくなった。

 木下と石田は10歳くらい若返ったような顔をして働いていた。全ては彼らの思うがままだった。耐えがたい状況だった。南仏の光が消えた夕刻からは本気で車の前に飛び出して轢かれようと思うほどだった。このままでは命に危険が及ぶかもしれなかった。それでも花蓮さんと笠原の事を思うと、後には引けなかった。

 絶望の淵に追い込まれても俺には帰る場所があった。そこで俺は一人になることもできたし、静寂の中で本を読んだり、音楽を聴くことだってできた。生命を蘇生させ、人生を生き抜く力を蓄えることができた。だが、今はそうではなくなっていた。理恵がすっかり俺の部屋に住み着くようになってしまった。仕事を終えて帰宅すると部屋の中から手料理の香りがするようになった。

「おかえり」
「ああ」
「今日は豚の生姜焼きを作ったから一緒に食べよう」
「豚なんか食べれないよ」
「どうしたの?仕事で何かあった?」
「宗教上の問題があるって前にも言っただろ!」

 背中をさすってなだめようとする理恵を振り払い、冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した。そのままトイレの中に駆け込み、鍵をかけた。アパートの中で鍵をかけられるのはトイレしかなかった。俺は自治区を作り出した。

「気が付かなくてごめんね」扉越しに理恵が話しかけてきた。
「何が?」便器に座ってから、缶ビールの蓋を開けた。
「信仰のこと気が付かなくて…」
「仕方がないよ」
「今まで我慢して食べてくれてたんだね」
「他に食べるものがなかったからね。これからは鶏肉にしてくれるとありがたい」
「分かった。じゃあ、料理を片付けるから外に出てきてよ」
「ちょっとだけ一人にしてほしい」
「アルコールは飲んでもいいんだっけ?」
「いろんな宗派があるんだ」
「そうなんだね」

 理恵は扉の前から去っていった。一人になって安心した俺はものの数分で缶ビールを飲み干した。疲れが溜まっていたのか、便器に腰掛けたまま眠り込んでしまった。トイレの扉を開けたときにはもう深夜2時を過ぎていた。理恵はベッドで横たわっていた。キッチンには洗い流した白色の食器類が乱れなく並べられていた。あとから豚肉の生姜焼きを食べようと思っていたのだが、すでに生ゴミとして捨てられていた。仕方なく俺は炊飯器に残っていたご飯に卵を落し、醤油をかけて食べた。空腹はそれで満たされた。

 理恵がいるということは少しだけ暮らしの手間が省けるというだけだった。その代わり、広々と眠れるはずのベッドが狭くなり、睡眠を削っておしゃべりをしなくてはいけなくなった。誰かと一緒にいるためには無意味なことも愛せなくてはやっていけないのかもしれない。少なからず俺には、それがこの先こなせるようになるとは思えなかった。

つづく

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