見出し画像

イン・ア・センチメンタル・ムード|ショートショート

おじいちゃんが心臓発作で倒れた。救急車で藤山総合病院に運ばれた

 僕は朝一から大学で西洋哲学の授業を受けていた。母からの知らせに気付かなければ、難解な内容にノックアウトされたまま席から立てなかったかもしれない。まだその日は授業が残っていた。けれど、おじいちゃんに万が一のことがあったら、単位が取れたとしても後悔することになる未来は明白だった。

 母からの返信はなく、一行の情報しか得られなかった僕はひどく不安になった。すぐにでも安否を確かめたかった。おじいちゃんから譲り受けた軽自動車に乗って病院へと急いだ。道中、無事であることを願い続けた。過ぎ去った夏の頃より空は一段と高く感じられ、心地のよい秋晴れだった。そのせいで、街には妙に穏やかな雰囲気が漂っていた。穏やかすぎて腹が立った。

 病院までは三十分もかからなかった。急いでエントランスに駆けつけると、受付からすぐ近くの長椅子に母とおばあちゃんが座っていた。僕が「おじいちゃんは?」と尋ねると「あら、心配そうな顔して。おじいちゃんなら大丈夫よ。安定するまではまだ時間がかかるみたいだけど。とりあえずは気長に待つしかないわね」と母が言った。あまり詳しいことを聞けないのは歯痒かったが、じたばたしたところでどうしようもなさそうだった。嫌な胸騒ぎを押し殺し、黙って二人の横に座った。会話を聞いていると、おじいちゃんのことではなく伯母の話題で盛り上がっていた。

 母はフィリピンに住んでいてもう十年以上帰ってきていない伯母のことを目の敵にしていた。結婚もしないで、自由気ままに暮らしているのが許せないらしい。母は不満を晴らすためなのか、普段から伯母の個人的な内情をぺらぺら喋っては、小馬鹿にしていた。

 心配した伯母も急遽帰国することになった。僕と同じように彼女も一行の情報しか得られていないようだった。夕方には日本に着く予定だと母が言った。おじいちゃんが上手く利用されているようで、僕からすれば快くはなかった。母とおばあちゃんはそんなことを気にすることもなく、伯母をこっぴどく説教するチャンスだとしか考えていなかった。

 しばらく待っていると、看護師さんがやって来た。何かあればすぐに連絡するので病院の外で待っていても大丈夫ということだった。二人が次第に伯母の話でエスカレートしてきていたので、近くの喫茶店にでも連れて行くことにした。病院にはおじいちゃんの付き添いで何度か来たことがあり、歩いて五分もしないところに店があることを知っていた。「喫茶店に行こう」と提案すると、「お茶代を払ってくれるなら行くわよ」と母に言われた。バイトで稼いだ少ない給料を削ることにはなるのは嫌だったが、病院にいて迷惑をかけるよりかはいいと思えた。

 爽やかな秋風に吹かれながら、僕たちは歩いて喫茶店まで移動した。平日の昼間だったので、広い店内には高齢者や学生が多くいた。各座席はパーティションで仕切られ、ブースになっていた。こういう店は何か秘密事や重大な話をするには使い勝手がいい。今日の母とおばあちゃんにとっては最適だった。二人はここぞとばかりに何種類かのケーキと紅茶を注文し、楽しんでいた。僕はブレンドコーヒーしか頼まなかった。二人の横でヘッドホンを付けながら、読書に集中しようとした。本を読んでいれば何も考えなくて済んだ。が、時より母に肩を小突かれ現実に引き戻された。

 「何?病院から連絡あったの?」
 「何もないわよ、おじいちゃんは大丈夫だから心配しすぎはやめなさい。それより、祐介はどう思う?アンドロイドになること。変な時代になったわよね」
 「周りでアンドロイドになった人はあんまりいないから、何とも言えないよ」
 「あら、そう。若い人の間では流行ってるって聞いたから身近なことなのかと思っただけ。だって、年齢がいってからアンドロイドになっても仕方ないでしょ?」

 今の時代、アンドロイドになることは特別ではなく、一昔前に脱毛サロンに行くのと同じくらい珍しくない選択肢の一つになった。母の言うように、年齢が若いからこそ受ける意味のある手術だという考え方は確かにある。

 アンドロイドになる方法は簡単だ。液体と一緒に極小のマイクロチップを血管内に注射するだけ。それだけで、そのときの見た目のまま変化しなくなる。髪の毛は減らなくなるし、しわは一つも増えなくなる。ただ、変わらないのは見た目だけで永遠の命を得られるわけではない。当然、身体機能は普通の人間と同じように衰えていくし、老人になってからどうなるかはあまりはっきりしていないことも多い。伯母は日本で広く認知されるよりも前に、その選択肢を選んだ一人だった。

 彼女は学生時代から海外を旅するのが好きだった。好きが高じて、一般企業には就職せず、フリーランスのトラベルライターとして生計を立てる道を選んだ。仕事柄、特定の土地に留まることはなく物は少なかった。ファッションや美容にはあまり熱心なタイプではなかった。そんな伯母が転機を迎えたのは三十歳になった頃だった。

 フィリピンに流れ着いた伯母はメトロ・マニラで十歳以上年下の男性と恋に落ちた。彼は伯母が滞在していたホテルで働いていた。いつか僕も伯母から送られてきた彼の写真を見たことがある。背筋が真っ直ぐで姿勢が良く、ホテルのシックな制服が似合っていた。ポマードで髪を後ろに撫でつけることで、彫りの深い端正な顔立ちを表に出し、鼻筋と輪郭の美しさを際立たせていた。

 彼はしつこくアプローチをかけた。伯母としては観光地でよくあるお遊びの一種だと思い、はじめは軽くあしらっていた。けれど、毎日部屋まで愛の手紙と一緒に花を持ってくる彼の真っ直ぐな姿勢に心が動かされていった。彼と接することによって、味わったことのない充足感を得られるようになった。

 伯母は「何か」を求めていろんな国をさまよってきたが、自分が探していた「何か」は彼からの愛だと悟った。愛が深まれば深まるほど、もっと年を取ってから愛されなくなってしまうかもしれない未来が怖くなった。そして、当時アメリカでしか受けることのできなかったアンドロイドの手術を受けることになった。今と違ってかなり高額な手術だったので、伯母は貯金のほとんどを使い果すことになった。それでも、ただ一つの後悔を除けば、アンドロイドになってよかったと伯母が電話で母と話しているのを聞いたことがある。

 母とおばあちゃんは何時間も伯母の話を続けていた。僕がうんざりしてどうしようもなくなってきた頃に、母のスマホが鳴った。祖父の容体が安定したという病院からの連絡だった。僕たちはすぐに歩いて病院に戻った。喫茶店の外に出ると、すっかり日は暮れていた。周りの建物の中では藤山総合病院のビルが一番大きく、辺りを照らす巨大な街灯のように煌々と輝いていた。

 エントランスに着くと、昔の母親によく似た女性がさっきまで座っていた長椅子に座っていた。ぼんやりと虚空を眺めていた。僕たちの足音に気が付くと、ゆっくりと立ち上がった。そして大きな瞳で真っ直ぐに母親の方を見つめながら「心配して損したわよ」と言った。

 ブルーのワンピース、真珠のネックレス、白いハイヒール。肩の下まで伸びたストレートヘアーはサテンのように表面がつやつやしてボリュームがあった。肌はもともと白く、綺麗に整ってはいたが、よりきめが細かくなり、昔以上に輝きを放っているようにさえ見えた。当然、顔や首元には加齢によるしわが一つもなかった。

 「こうでもしないと、どうせ来なかったでしょ?」そう言い返す母は、久しぶりに伯母に会えて嬉しそうでもあったが、アンドロイドになった姿を直に見るのは初めてで、本当に見た目が変化していないという事実に驚きを隠せない複雑な表情をしていた。おばあちゃんは伯母のことが自分の娘ではないように思えたのか、恥ずかしそうに母の背中に隠れていた。さっきまで威勢のよかった二人はすっかり静かになってしまった。

 あまり会話が弾まなかったせいか、伯母は僕の目の前に近づいてきた。「ゆうちゃん、大きくなったね」と言ってから、近くで見ても白く美しい肌をした両手で、僕の右手を握った。身内のはずなのに、変に緊張してしまった。何を言ったらいいか分からなくなり、うっかり気になっていたことを口にしてしまった。

 「アンドロイドになって一つだけ後悔してることがあるって母さんと電話で話してるのを聞いたことがあるんだけど、それって何?」
 「あなたのお母さんはお喋りさんよね」

 伯母は一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐに笑ってその綺麗な手で僕の頭を撫でた。

 「あの頃、彼も今のゆうちゃんくらいの年だったっけなあ。彼も一緒にアメリカへ連れて行けたらよかった」と独り言のように言った。

 僕は今朝の西洋哲学の授業で、教授が雑談がてら言っていたことを思いだした。

 「ある人にとっては残酷で、ある人にとっては幸せなのかもしれませんが、アンドロイド手術には副作用があります。皆さん知っていますか?主作用は知っての通り、見た目の保存ですが、その時の恋愛感情を保存するという副作用もあるんですよ…

この記事が参加している募集

#忘れられない恋物語

9,154件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?