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就活準備|短編小説 前編

 ついさっきまである男の物語を読んでいた。主人公の男は元々まともな人間だったが、本の読み過ぎで頭がおかしくなってしまった。今の世の中に彼が生きていれば、そこら中に走っている自動車を騎士の軍団か何かだと勘違いし突進していくことだろう。それを見て哀れだと思うかもしれないが、自分も彼と大して変わらないのかもしれない。SNSの見過ぎ、自己啓発本の読み過ぎ。彼と違って、実世界では行動を起こさないだけで無数の情報に毒されているわけであるし、考え方にはひどく偏りがある。男を馬鹿にできるほど公正で公平な屹立した人格を兼ね備えている奴は自分も含めてこの世にはあまり存在しないと思う。

 大学に入学した頃は絶対に就職活動なんてものはしないと豪語していたのにも関わらず、いつの間にか一定多数の価値観に毒され、リクルートスーツに身を包み、髪の毛を清潔な短髪に整え、会社で働いている人間以上に会社のことに詳しくなるための努力をしていた。悪しき通過儀礼を避けるためにおれは留学と休学を駆使し、大学生活を何とか延長していたわけであるが、結局のところ逃れられなかった。

 真っ当に就職活動をして新卒採用枠で採用される以外の選択肢を選べるほど、実力もアイデアも持ち合わせていなかった。まともに生きていく方法は他に見つけられなかった。かといっていつまでも悪い友達たちとつるみ、現実逃避することが正しかったとも思えない。他人を騙したり、少しばかりお金を持っている大人に援助を受けたりするほうが、よっぽど簡単に金を手にすることができたのは確かだ。だが、いつまで経っても上の階級に登っていくことはできないだろう。おれはこんなところで終わる人間ではない。もっと上の階級で認められるべき人間だ。そう信じていた。善悪の議論をしようとは思わないが、人からお金を騙し取って生きていくことは長きに渡って続けるべきではないはずだ。

 とはいえ、どうしておれは会社で働く人間以上に会社のことを知っている人間になろうと思えたのだろう?それが就職するためには必要であると認識し、自分を見失うほど真面目に取り組んでいたのだろう?中期経営計画を一言一句残さず読んだからといって入社したら突然社長になるわけでもない。面接で気に入られるための道具を取りそろえているに過ぎなかったが、おれは自分のやっていることを正当化していた。

 内定という結果だけが必要だった。内定をもらえさえすればよかった。そうなれば、一行たりとも会社の経営に関する資料など読みはしないと分かっていた。給料、待遇、福利厚生、同期や同じ部署の先輩に素敵な女性がいるかどうかを本当のところは知りたかった。だとすれば内定をもらっていない段階で本気になって会社のことを調べることが楽しいと感じ始めていたおれはどうかしていた。もっと冷静になるべきだった。

 翌日に第一志望である化学メーカーの面接を控えていた。おれは朝から部屋に引きこもっていた。役者さながら、自分とはかけ離れたキャラクターを演じる準備を進めた。経営理念を暗記し、口から離れなくなるくらい何度も唱えた。面接で聞かれることを想定して問答集も作った。大学のレポートでは決して達することのない文字数がwordに表示されていた。実際に面接が行なわれている部屋を想像し、目には見えない空気に向かって熱く語った。気が狂っていた。もしも洋太から電話がかかって来なければ、おれはその日のうちに別人格になっていたかもしれない。

 「この前に会ったのはずいぶん前だよな?」洋太は言った。「だってあれだろ?もうお前は大学を卒業したんだろ?まあいいさ。俺だってあれだぜ?別にその気になれば昼間の仕事もできるけど。でも、あれだろ?ほら税金だってさ、まともに払ったところでお役所の奴らは真っ当に働いたりはしないんだからな。泥棒よりもひどいかもしれないぞ。だって、あいつらはいかにもな感じを装って、正当な対価を受けているんだって顔をしてるんだぞ?ひどいもんだ。俺みたいな人間をゴミ屑みたいに扱うけど、奴らだって腹の底は同じじゃねえかよってな」

 「おいおい、用事がないなら無駄話はやめてくれよ。今はそんなに暇じゃないんだ」

 洋太はいつものようにおれのことなど構いもせず話し始めた。おれが追い詰められているのを理解してくれるかもしれないと思ったが、意味がなかった。

 「とにかく、今日の夜に飯食いながらでも事情は話すけど、警察に捕まるかもしれないんだ。嘘とか冗談を言ってるわけではなくて。俺が今までそんなしょうもないことをしたことがあったか?頼むからたまには俺を信用してくれよ。俺はお前の方こそ本当は嘘ばっかりつく人間だと思ってるけどな。それよりもあれだ、地元に帰っちまった彼女のことは心配いらないぞ。元気にやってるみたいだからな。まあ、今は離れて暮らしてるけど、まだ続いているし時期がくれば結婚もしようと思ってるからさ。お前はどうなんだ?え?俺にばかり話しさせてやけに静かじゃないか?」

 そのまま電話を切ればよかったものの、つい相手をしてしまった。明日には面接が控えていて、どうしても時間を作れないことを理解してもらおうとしたが、彼が話を聞くはずもなかった。それに、何もしなくても明日はやって来るのだから早々と区切りを付けてしまおうという誘惑にも駆られていた。全てを投げ出すのも馬鹿馬鹿しい程に、洋太は低俗な人間だという認識がおれの中にあった。記憶の奥の方から、彼の酒臭い口臭が漂ってきそうだった。

 「ただの1時間だけだから問題ないだろ?酒も飲みたくなければ飲まなきゃいいだけだしさ。ほら、あの時だってお前途中で帰してやったろ?忘れちまったのか?大事な用事があるのか知らんけど、友だち付き合いは大切にしたほうがいいぜ?」「今だってこうやって話してるだろう」「屁理屈はいいからさ、とにかくいつもの寿司屋で待ってるから絶対来いよ。お前の家だって知ってるんだからな。もし来なかったら火をつけに行くぞ」

 正直なところ、まだ充分に準備が出来ているとは言えなかった。何とか断ろうと思考を張り巡らした。他人の尺度からすれば事足りていると考えられたかもしれないが、おれは楽をして生きてきた人間だ。どちらかと言えば、洋太と同じような人間だ。掘り下げれば掘り下げるだけ、腐敗した薄汚いものばかりが出てきてしまう。ほころびを完全に隠す必要があると思った。面接官をするような人間は長年企業に勤め、国に税金を納めるといった、真っ当な人生を歩んできたような奴らばかりだと思ったからだ。おれはまだまだ役に入り切れていなかった。すぐに本性を見抜かれてしまうと思うと、不安で仕方なかった。

 「頼むから今回ばかりは許してくれよ、おれだってお前と会うことは嫌いじゃないんだ。むしろ楽しみなくらいだよ。どうせ会うなら今日じゃなくたっていいだろう?いろんなことが片付いてからのほうがもっと楽しく会えると思うんだ。酒だってたんまり飲めるだろうしさ」「まあ、いいじゃねか。とりあえず後でな」

 電話がかかってきたのはお昼頃だった。約束の時間までは数時間ほどあったが、何も手につかなかった。まだ明日のことを諦めたわけではなかったが、今さらあがいたところでどうしようもないという気持ちもあった。結局おれは導かれるようにして寿司屋に向かった。

 到着してもしばらくの間、洋太は現われなかった。1時間近く経ってようやくやって来た洋太は急ぐ素振りもなく、偉そうに肩を揺らしてこちらに近づいてきた。手には青い革製のクラッチバックを持って、ブランドのロゴが胸元に大きく書かれた白地のシャツを着ていた。相変わらず八重歯は欠けたままで事情を知らない人からすればジャンキーにしか見えなかった。

 「おい、早く中にはいろうぜ」場を和ませるか、もしくは遅刻したことを誤魔化すためにそんなことを言ったりする奴もいるが洋太は違った。彼にはモラルなどなく、思ったことをただそのまま口にしているというだけだった。

 「ふざけんなよ」そう言ったおれの言葉を無視して、洋太は無理やり肩を組んできた。そして、そのままおれの首を絞めるようにして店の中へ連れて行った。店内は学生と家族連れの客で賑わっていた。運良くテーブル席が空いていた。対面で向かい合うと洋太は真顔になって語り始めた。

 「あのさあ、俺は今までほんとに嘘がついたことがないわけよ。今日だってマジで深刻な話だから呼んだのよ。もしかしたら今日の夜にでも俺はこうしてはいられなくなるかもしれない。時間は限られているわけだから誰と会うかはめちゃくちゃ大切なわけだ。分かるよな?それなのに俺は女じゃなくてお前を呼び出した。分かるか?俺はやっぱり男なら友情を大切にするべきだと思うわけよ。だからさ、ほんの少しの時間くらい一緒にいてくれたっていいだろ?」

 ここまで言われて「おれは明日の面接のほうが大事だよ」と言い捨てられるほど自分の生き方に誇りは持てなかった。確信に満ちあふれているとさえ感じた洋太の言葉に感動してしまった自分が嫌だったが、本当にそうだった。すっかりこの屁理屈ばかりを並べているだけで中身が伴っていないくそ人間のペースに巻き込まれてしまった。

 「今日はろくに昼飯を食ってないからさ、寿司なんて30貫だろうが、40貫だろうがいくらでも食える気がするな。おい、とりあえずお前も10貫くらい一気に注文しろよ。遠慮することないって。おい、いつからお前はそんな女みたいなこと言うようになったんだよ」

 大量のネギトロが自動レールに乗って運ばれてきた。奢りだからこそ本当は自分の食べたいものを少しずつ食べていきたかったが、どうやらそんな決定権は渡されていないようだった。洋太は2貫ずつ一気に口に放り込み「うまいなあ」と言いながら、咀嚼音をくちゃくちゃと鳴らし、おれをまくりたてた。

 「お前はさ、これから新卒として採用されてさ、まともに働いて給料をもらうことが正しいと思ってんだろ?あ?大して金がもらえなくても社会的な体裁を保つことができれば満足するのか?尊敬するにはほど遠い薄汚いおやじの説教にも耐えてさ。それでストレスを溜め込んで。お金は全てじゃないし、やりがいとか社会貢献とかそういうことを考えるべきだってほざくんだよ。くたびれたスーツ着て、安い居酒屋に集まって愚痴を言うんだろ?くだらないと思わないのか?」洋太の口からはいっぱいに頬張ったネギトロが血のように垂れ落ちそうになっていた。

「言いたいように言えよ」

「お前たちみたいな人種はさ、1ヶ月働いたっていくらも稼げないかもしれないけど、俺らからすればそんなのはした金みたいなもんでさ。この前なんてあれだぜ、人に商材を紹介するだけで金がもらえるビジネスってのをやったのよ。それがまた儲かるんだよな。一緒に世の中を変えてみようぜとか、今の生き方に満足してるのかとか吹っかければまんまと乗ってきやがる。ちょこまか働いて、命が削られるよりかはよっぽどリスクが低いと俺は思うね。ちなみに、これが奴らに売りつけてる商材ってやつだ」

 洋太はポケットから小さなUSBメモリを取り出した。

「ここには、かなり儲けることができる投資システムが盛り込まれていることになってる。そう、なっているんだ。本当にそうなってるわけじゃない。実際には何1つデータなんて入ってない。未来は不確かなものだろう?だってお前さ、天気予報ですら未だに完璧には当たらないんだぜ?いくら情報網が発達したからといった確かなものなんてないだろう。お前が今目指してるもの、目指している場所だって数年後にどうなるかなんて分かったもんじゃない。だろ?」「それはそうかもしれないけど、お前らだって何も分からないだろ?」

 洋太は待ってましたと言わんばかりに両手を擦った。「だから、俺たちはその不確かな未来って奴を利用してるってわけ。分かるか?未来が不確かなおかげで好きなように描けるわけだよ。こんな風になれるかもしれない。あんなことが出来るかもしれないってね。不思議なもんで、みんなその不確かなものに対して強い希望を抱いているんだよ。自分だけはその不確かな未来において成功できる人間なんだってね…」

 言われてみれば確かにそうだった。おれだって不確かな未来に希望を抱いていた。会社に入って、働いて、お金を稼いで、好きなことをして。将来的には結婚をして、子どもを作って、家を買って。でも、明日車に轢かれるかもしれない。突然心臓が止まるかもしれない。そんなことは誰にも分からない。それがアメリカ合衆国の大統領だろうが、フィリピンのスラム街で暮らす孤児だろうが例外はない。ようやく好きに注文ができたトロサーモンを食べながらおれはふと考えてしまった。

 ただ、洋太の話に筋が通っているとは思えなかったし、人の弱みにつけ込んで楽に稼げたとしても、未来が明るいものになるはずがなかった。これ以上寿司を食べようとは思えなかった。おれだけ早々と皿をテーブルの端に寄せ、お茶の粉をお湯で溶かして飲み始めた。



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