数学を学ぶこと

 よく数学を学ぶ意味は何か?問われることがある。学問を修めるときにはだれしも考えてしまうものである。数学はその代表例としてよく挙げられるが、私は数学科として学問を修めた立場としてこのことについて考えてみたい。

 私は母親に数学の話をすることがある。もちろん母親は好きでもないからちゃんとは聞いてないのであろう。そうして最後には「算数ができれば十分でしょ」とまで言われる。たしかにわざわざ買い物をするときに値段をx円とは書かないし、第一そんな表記をしているお店なんか誰もいかないだろう。つまり、母や言っていることは間違いではない。算数ができれば数の計算はできるし、生きてて直面するであろう大体の計算事は理解や解決できる。そういった意味では、算数ができれば十分である。

 数学を学ぶことの理由はある。もしそれがないなら学問として繁栄しないし、ましてや中学校の教科として存在しえないだろう。にもかかわらず、どうして数学を学ぶことの意義がわからないかというと、「数学ができる」ということが「難しい計算できる」と思うこと。数学は決して計算の学問でない。(もちろん、そういった分野も存在するが、王道とは限らない)大学で数学をすると、とにかく計算の学問とは思えなくなる。私は「少しのことを仮定し、その世界で導かれることを探求する学問である。」と思う。教育的観点でいえば、学生が勉強するのは正しくを導かれることを積み重ねる訓練。そして、それをどんな人にも論理的に説明できる訓練。こうしたことを学問にしているわけである。

 学校教育の数学は出来不出来が大きく校内でも差が開きやすい学問といわれる。当たり前である。私たちは、算数という根を生やし、中学になり、幹や枝をつくり、高校では更なる枝や葉を生み出すという構図上、根がない状態で画一的な授業、幹がないのに枝を生み出す授業をしても「そんなのできません」ということになってしまうからだ。すなわち、中高のスタートラインの時点で、すでに成長の差を埋め切れていないのだから差が生まれるのは必然である。このシステムは、出遅れると途端になじみにくさを加速させるのである。もちろんやり直しの機会を各単元で与えるように言われているが、とてもカバーできるほどではない。

 しかし思いだしてほしい。数学の教育価値は<学生が勉強するのは正しくを導かれることを積み重ねる訓練。そして、それをどんな人にも論理的に説明できる訓練。>であることだ。私たちは与えるべきなのはやり直しで数学のレールにのせることだけなのだろうか。この観点でいえば決してそうではない。日常の中で起こりうる数学、遊びの中の数学、は事実かなり存在している。がしかし気にも留めないし、いや正確に言えば気に留める機会すら与えられていないのだ。数学的素養を学生に少しでも数学を吸収させたいのなら、<知識を仮定しないことだ。>思わず、「こんなの数学なんですか?」と問いたくなくような内容を扱うのだ。(もちろん適切な内容を適切なタイミングで)あるいは、身に迫るリアルな問題を問うというのも一つだろう。そこから、自然に数学を吸い出し数学として学びを持っていければ、これほどよい数学の経験はないだろう。そうしてそれは先人たちが数学の分野を構築していくときの姿勢そのものに近い。

 これでは何を言っているかわかりにくいだろうから例を挙げるとする。例えば図形の対称性を考える授業をするときに「テトリス」を扱うのはどうだろう。「まず、そもそもテトリスのブロックは何種類あるか?」と訊ねてみてほしい。そうすると、やったことがある人は少し考えれば「7種類」というだろう。もちろん正解だ。そのあとに「ではなぜ7種類か説明してみなさい。」というとこれは途端に難しくなる。このときこそ「数学」である。ここまで部分に知識を仮定していない。(テトリスを知らない学生がいるならプレイ動画を見せればよい)こうして全員が同じ目線で挑める問題へと変化した。さあここから相手を納得させる説明ができるかどうかである。この訓練をしない学校教育は多い。やっててもできる子が答えてそれで全体が理解したとして流したりする。いろいろな答えがあるだろう。多分出てくるのが「書いたら7つしかなかった」や「ゲームには7つのブロックしかでない」とかあるだろう。それでは納得してはいけない、いや納得させてはいけない。せっかくのチャンスだから、こう言ってみるのだ。「君が書けないだけでもしかしたらほかの図形があるかもしれないよ」や「たまたまブロックが出てきてないだけで本当に少ない確率ででてくるブロックがあるかもしれないよ」と。数学の精神からすれば「書けないからない。」「見えないからない。」ではなく、<本当にない>ということを論理的に説明する必要がある。考えを発散させるのに論理的には収束させる活動がここでは求められている。何時間かけたっていい。でなければうまいヒントをあげればいい。そうして納得のいく説明を他人でき、<本当に7種類しかない>と分かったとき、この貴重な経験こそが数学を学ぶことの意義として大変な教育価値があると信じている。



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