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世界の中に暮らしている,という感覚(その2)

-アラフィフに英会話ができるまでの3つの習慣,という経験をシェアするためのシリーズです.(Episode#04)

世界につながる感覚の記憶(大学・大学院編)

高校までの英語の成績は,中の上くらいだっただろうと思います.それで,以前の記事に書いたように,大学受験の英語の参考書でちょっと視界が開けたんですよね.今思うと,英語の構造をざっくりと把握できたという感覚があって,長文読解などもわからない単語があっても全体を把握できるようになったというか.それで,大学に入って,英語のリスニングとかの授業がありましたが,それはあまり効果がなかったというか印象に残っていないんですね.それよりも,大学のゼミで「原著にあたる」というアカデミックな世界ではごく普通の話ですが,それを経験します.授業でも,英語で書かれた専門分野(建築)の教科書を毎週少しづつ読んで先生の解説を聞くということを繰り返していました.知らない単語を予習で調べ,何となく全体を通読しておくという習慣で,英語の授業よりも英文の把握力は養われた気がします.その成果もあったのか,別の大学の大学院に編入試験を受けた(当時その大学にはその分野を学べる院がなかったので)のですが,英語の試験の点が結構良かったらしいんです.まあ,たしかに大学院まで行くと,英語が分かって当然と言われそうですけど,まあ人並みでした.

それで,日本人の多くの人がそうであるように,決定的な欠陥があるわけです.喋れない,聞けない.書かれた文章では何とかなっても,会話となると話は別です.そのころ,院に新しく赴任してきたアメリカ帰りの女性の先生がいらして,その先生の授業がネイティブが喋る英語の録音を僕らに聞かせて,それでレポートを書かせるっていう.環境政策がテーマのネイティブの話なんて聞き取れるわけがなく.先生も諦めて自分で解説を始めてくれたのでみんな胸をなでおろしたんですけど,おそらく,その先生のメッセージは「君たち,これからは英語だよ」っていうことだったんだろうと思います.その時はピンとこなかったんですけどね.まだインターネットも珍しかった頃だし.僕の関心の中心はあくまでも専門分野の「建築歴史意匠」だったので,英語は二の次三の次でした.そして,英語のリスニングやスピーキングのスキルは,ついに耕されることがないまま,20年以上,空白期間を迎えるわけです.

それと,大学院に入って,フランス文化とその建築,特に「シチュアシオニスト」に興味を持って,これはフランス行くしかないなと思って,留学するつもりで民間のフランス語講座に通います.結局2年くらい通って,ある程度会話ができるまでになりましたが,いろいろあって,留学は諦めて,仕事を探します.そして,今いるデザイン学校の講師の職に就いたわけです.

そして空白の時間

仕事を始めてからというもの,日本ではほとんどの企業がそうであるように,まったく英語に触れる機会がありませんでした.これは,もう自分で何とかするしかないんですけど,当時は英語を喋りたいと思っていたわけでもなく,もう普通に自分のするべき仕事に向き合っていたわけです.ただ,これまでずっと書いてきた通り,デザインの世界では,やはり英語で表現したい場面がちょこちょこあるわけです.作品のタイトルとかですね,そういう小さな部分など.それで,何となく,英語は常に身近に置いておく,という感覚で過ごしてきたという気がします.

働き始めて,インターネットも普及して,21世紀くらいになってようやく一人一台仕事用のPCが与えられて,調べ物ももう何でもGoogleに尋ねるようなことが当たり前になったのって,ここ10年〜15年くらいだと思うんですよね.それまでは授業準備も書籍などの資料を元にしていたんですけど,ある頃から一気にネット上の資料が豊富になってきたことに気がつくんです.でも,僕が調べたいのは海外のデザインや建築に関するものが多いんです,専門分野として.そうなってくると,英語の記事にあたるしかないし,また,その充実ぶりに驚くわけです.情報の格差という点ではこれは大問題です.ちょっと焦る気持ちもありました.このままでは,日本のデザイン教育はマズいって.このインターネットが当たり前の時代に,日本語の情報のみで育つことへの違和感というか.ただ,当然英語の資料をそのまま学生に渡すわけにもいかないから,自分が間をとり持つしかない.そんな感じで,ちょいちょい海外の最新情報をチェックするようになったんです.

それから,これはずっと前から感じていたことなんですけど,パソコン社会になって直感的に感じた日本語の「重さ」も僕の意識の根底にあります.最初に知って驚いたのは,日本語は2バイト文字だということ.アルファベットの倍のデータ容量が必要なんですね.確かに,キーボードで日本語を入力するのにローマ字式でやると,そうなんですよね.つまり,日本語はデジタル環境にとってはアルファベットに比べてデメリットが多い.僕はある意味で建築を学ぶことで自然と less is better (Moreとまでは言わないけど)な思考が身についているためか,このギャップはどこか自分の中で耐え難いことのひとつです.システム設定も日本語にするだけで,英語と比べてメモリーも時間も消費する.そうして,自分の身の回りだけでも,できるだけ物事をシンプルにするには,英語をどんどん使っていったほうがいいぞ,という思考のベースができてきたんだと思います.

日本語の方が,結果的に文字数が少なく表現できるとか,そういうことはあるんですが,特にデジタル環境で日本語を処理するのに無駄な時間と労力を強いている,というのが気持ちが悪かったんですよね.そんなこと気にしている人が他にいるかどうか分からないんですし,僕の考え方がマイノリティだという自覚はありますが,そう思っちゃったものは仕方がない.そんなわけで,その点については悶々としながら過ごしていたわけです.

これは,今考えてみると,建築やデザイン的な思考に基づいたある種エンジニア的な理解なのかもしれません.日本語の構造と英語の構造を比較しているんですよね.倍半分,って言葉があるんですけど,何にどれくらい労力や資源が消費されるかっていう非常に経済的な視点でもあります.日本語と英語では,処理能力に単純計算で倍半分の差が生まれる.もっと広いスケールでいうと,そのために翻訳ビジネスや雇用も生まれるんでしょうけど,これは,文化的鎖国状態にあるということに繋がります.世界の多くの人々に広がるはずの社会の動きや何から何まで,日本は置いてきぼりを喰らっている.最近,BLMとか,LGBTQとか,いろいろ世界が動いていますが,日本は初動に付いていけてないですもんね.確かに,ここは議論の余地があります.それでいいのだという人もいるでしょうし,ここを詰めると極めて思想的政治的な話に展開しちゃいますので,何が良いとか悪いとか言うつもりはありませんが,事実として,そういう状態にあると言うことは自覚しても良いのではないかなと思います.

ただ,ずるずるとそんな空白の時間が過ぎて行きました.日常生活にはなにも影響がありませんでしたからね,ここは日本.英語がなくても何の問題もない.しかし,あることをきっかけに,この空白の時間を埋めてみようか,と思うような出来事がダダダっと僕の元に押し寄せてきました.その時僕はすでに48才でした.まあ,逆に30とか若くて働き盛りだったら,逆に英語を学び直そうなんて思う余裕がなかったかもしれませんね.運良く,ちょうど良いタイミングだったのでしょう.何が直接のきっかけだったのか,少し後で,自分で振り返ってみたいと思います.

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