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夏の童心



 まどろみの中、生暖かい風が私に触れた。瞼を開けて、視界に広がる景色をみて、これが夢であることを悟った。

 こんな夢を見た。


 森の入口に佇む少女を、私は遠くから眺めていた。
 私の年齢はその少女と同じくらいであったろうか、二十ばかり若返った自分が、森に続く畔道の真ん中に立っていた。
 夕暮れのひぐらしはけたたましく鳴き、瑠璃色の境界が幾分山の向こうに差しかかっている。


 暗くなる前に帰らなくては。そう思うが、自分と同年代のその少女を残して帰るのは気が引けた。
「日が沈むよ」
 後ろから声をかけ、少女の横に私は並んだ。少女は森の入口から向こうを見つめ続けている。私もそれに倣うが、なんてことはない。ただの森が無限に広がっているだけだ。暮れかけの斜陽とひぐらしの鳴き声が、帰らなくては、と私を急かす。
「じき夜になるよ」
 私の口調からは気持ちとは裏腹に、焦りの色が感じられなかった。そこでふと、私はどこへ帰ればいいのだろうか。そう思った。そもそも帰り道もわからなかった。どういうわけか、私は知らない場所にいたのだ。


「前までは、隣にあの人がいました」


 少女がぽつりと声を漏らした。丁寧な口調に、彼女のことを大人びて感じる。


「鳥のさえずりに耳を貸しながら、あの人との思い出に身を委ねる毎日です」


 辺りはいよいよ暗さを増していく。


「繋いだ手に伝わる温もり、木漏れ日を潜った森の中。木々は風にざわついて、照らす光を揺らします。まるで、僕らは二人、おとぎ話の中にいるみたいだね。そう、あの人が言いました。その思い出を、ここに一人佇み、思い出しているのです」


 少女の横顔は、伏し目がちでありながら、うっすらと笑みを含ませていた。
 陽の光は山の向こうに隠された。
 ひぐらしも盛りを越えて、夜がすぐそこまで来ていた。
 仄暗い森の入り口で、一日が終わろうとする寂しさの中で、隣の存在に、懐かしい高揚を鈍くなった感覚が思い出していた。

 繋いだ手の温もりは、確かに覚えていた。木漏れ日の暖かさも、吹き抜ける風の爽やかさも。


「帰らなくていいのですか」


 依然として、森の中を見つめ続ける少女が訊ねてくる。その横顔は、何故か寂しそうに見えた。
「そう言えばそんなこともあったなと、思い出していたんだ」
 彼女の手を取り私は言った。
 この温かみだったな、と思った。
 はっと目を見開いた彼女が、隣に並ぶ私の方へはじめて顔を向け、まばゆい光の中、微笑んだ。
 森にはいつしか明るさが戻っていた。
 蝉時雨の森の中、ここが帰るところだったのだと感じた。





 朝のまどろみの中、私はシャワーの音をなんとはなしに聞いていた。
 シャワーの音が止み、しばらくすると横に温もりが寝転んできた。
 私はそれに腕を巻いて歓迎する。
「おはよう。良い夢は見れた?」
 懐っこい口調に、彼女のことを愛おしく感じる。
「おはよう。まるで、僕らは二人、おとぎ話の中にいるみたいだった」
 少年のときの自分は、よくこんな恥ずかしい言葉を口にできたものだと感心した。
 温もりはふいに起き上がり、私の胸の上にそっと手を置いた。
 私は、まだ眠たい目を少しずつ開けながら、寝たままの状態で首だけをもたげた。
 温もりが、彼女がこちらを優しい顔つきで見下ろしていた。少しの間見つめていると、彼女が破顔する。いつにも増して、その微笑みが儚く美しく思える。彼女の後ろでは、夏の爽やかな風がカーテンを優しくたなびかせている。


 心地良い風が、足を撫でた。





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10年くらい前に大学の講義中に書いていたものです。

『夢十夜』の第一夜が神秘的で大好きです。やっぱ夏目漱石ってすげーんだなって思います。自分が書いたものを今読み返すと、もっと作中の間を持たせたかったなって思います。


Deen版の「Fate/stay night」のED、樹海の「あなたがいた森」を意識していたのでしょう。

前奏のピアノの切なさ、曲中の「あたし」の、森の中で想う「あなた」のこと、愛未さん(Vo.)が歌い終えた後の演奏の盛り上がりの後のピアノソロ。

「あなた」がいなくなった「あたし」の寂しさを、少しでも和らげたくて書いたようなものだなと、今にして思います。


アニメを観られない方にも、おすすめできる曲だと思っています。EDの映像も含めて。








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