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マイケル・ジョーダンの背番号を、ニックネームにもらった幸運


ドットライン上のPRボスの登場🏀


彼の名はDusty Kidd。当時の彼のポジションは、アジア・パシフィック地域のPR Director。NIKEのアジア各国のオフィスに広報担当を置こうと、着任早々に当時のアジアの売上げの大部分を占めていた日本にやってきたのだった。自分の直接の上司はナイキジャパンのマネージャーだったり、マーケティング・ディレクターだったりしたのだが、その後、彼は私にとってドットライン、つまり点線で結ばれる上司と部下の関係になった。これはナイキの各部署で、そしてLenovoでも同様だった。

"#23"というニックネームの誕生。


その当時の私は、ナイキジャパンの”コウ・セン”こと、広報・宣伝チームで、展示会と広報を担当していた。"Future Order"という半年先に市場に投入する製品の受注会を全国の主要都市で開催するのが展示会業務。そして新製品の情報を提供したり、「ポパイ」や「ターザン」「ホットドッグプレス」などに商品を貸し出したりするのが広報の仕事だった。

Dustyさんは、日本でジャーナリストもしていたそうで、ソニー創業者の盛田昭夫氏にもインタビューしたことがあるという。片言の日本語を使うDustyさんと、英語、たまに日本語で、最初は広報を日本でしっかりとおこなう重要性から始まったのだが、その後、話題のほとんどは互いの趣味のNBA🏀になり、意気投合!
「こんなにNBAのことを知っている日本人に初めて会った!」と驚いた彼は、私のファーストネームがアメリカ人には難しいので、マイケル・ジョーダンの背番号の数字、#23をニックネームにしようと提案
その後は”Hi, twenty-three!”という感じになったのだった。

世界中のNIKEで人気者になれたのもニックネームのおかげ。


私はその後、名刺の英語面にはミドルネームに"#23"を入れるようになった。おかげで、プレスツアーでアトランタに行き、アトランタのNIKETOWNに一行を連れて行った時も、いろんな店員から"You, Twenty-three?"と声をかけられる。なぜみんな知ってるのかを聞いたら、私が店長と交換した名刺がスタッフルームに貼られ話題になっているということだった。
アトランタ五輪を前にNIKEの本社のあるポートランドで、グローバルのPRミーティングがあったのだが、初めて会う南米のPRスタッフからも片言の英語でとても仲良くなったのも、このDustyさんにもらった"#23"というニックネームのおかげだった。


二人の一番好きなNBA選手について語った晩。


Dustyさんは偉そうに振舞うことは一度もなく、私のことを常に"Brother"と呼び、「君が日本市場のことを一番知っているのだから、君が決めたことをすべて尊重する」と言ってくれる素晴らしいボスで、自分にとっては父のような存在だった。
ある時、日本の社長が解任されることになり、そのプレスリリースやQ&Aを出張先で準備していた時、「もし引退したら一番寂しくなるNBA選手って誰だと思う?」と私に聞いてきた。
"Sir. Charles"と私が答えたら、彼も、僕も同じだよと笑った。
そう、ゴジラとの対決CMで話題となり、日本にも来日、エースコックの豚キムチのカップ麺のCMにも出演した、チャールズ・バークレー(Charles Barkley)のことだ。

1992年代々木第二体育館で開催されたNIKE FORCE TOURでゴジラと再会したSir.Charles


その歯に衣着せぬ物言いで、たまに物議をかもすのだが、勝利への執念はすさまじく、プレイオフでのNY. ニックス戦で最後のシュートを外し、フロアに倒れこんで涙を流した彼の姿は今も忘れられない。
そんな彼の横で、Sweep(片付けた)を象徴するモップ掛けをニックスの選手はしていたのだが、親友マイケル・ジョーダンは、Eastern Conferenceのファイナルでニックスを叩きのめしたのだった。


チャールズ・バークレーとのエピソードはたくさんあるので、またの機会に。
今回はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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