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名もなき朝

 朝方の東京に垣間見える無防備さが好きだった。「冬の朝日はきれいだから」、ただそれだけの理由で朝の5時過ぎに起き、誰もいない駅で待ち合わせて多摩川へと歩いた。人は、とりわけ大学生の頃は、僕らの関係性に名前をつけないでおこうなどとくだらぬ予防線を張りたがるけれど、その頃の私と彼とはまさにそのステレオタイプにぴったりと収まるような二人で、あまりにも隙間なく収まっているものだから、どうにもこうにも身動きの取れない状態で、それが安らぎでもあれば波風でもあった。

歩いているうちに、これは私が少し遅刻したせいだったが、早くも空が色づいてきた。朱色や水色を混ぜた絵具を垂れ流すかのごとく、じんわりじんわりと都会の縁から染まっていく。鼻も耳も指先も冷たかったが、今感じられるだけの寒さを掬えるだけ掬いとって、一滴残らず身体に染み込ませたいと思った。寒さが滲んだ身体はこわばり、白い息が絶えず目の前を通り過ぎていたけれど、まるで音のするような寒さを頭の先から爪先まで感じていたかった。

河原に着く頃、辺りはすっかり朝日に包まれ、寒さはほんの少しやわらぎつつあった。近くにある自動販売機で買ったココアを渡され、無意識に両手で包み込む。寒さに浸していた指先は痛々しいほどに赤く、缶から伝わる熱でピリリと痺れた。春の日、冬の眠りから目覚めた動物たちは、あたたかさ故に身体がざわめいたりするのだろうか。日の光が滲み入るとき、彼らは何を思うのだろう。

あぁ、レンズにゴミが入ってる。NikonのD800でパシャリ、パシャリと瞬きしていた彼が呟く。せっかくいい写真撮れたのに、全部埃混じりかも。そう、いいね。よくないよ。埃とのツーショットだよ? 埃とのツーショットだね。

レンズの中に閉じ込めてもらえるなんて、夢みたいな話だ。私はその時はじめて塵や埃になってしまいたいと思った。

彼は再びカメラを構え、瞬きの音を辺りに響かせた。朝日は東京の無防備な姿を晒け出し、川面に無数のダイヤモンドを散りばめて、今日の訪れを祝っている。私たちはきっともう会うことはないのだ。街の輪郭が縁取られていく。やがてもう何も見えなくなる前に、私は目を閉じた。

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