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私の子供時代からの自伝(長文)。

中学生の頃から現在に至るまで

現在20代後半のぎりぎり若者のkinoです。
18歳で私立の通信制高校卒業後8年してようやく薬によってぼんやりした頭も復活してきました。今は通学制の大学に入って2年目になろうという所です。今繋がりのある施設の職員さんに勧められたのもあり、死にトリに載せる経験談を書こうと思い、この自伝を書きました。昔話が少し長くなりましたが、お付き合いください。
3.11の地震の記述がありますが、当時私は首都圏で地震に遭った事と、自身の事で一杯いっぱいだった事もありこのような感想になっています。そこの所ご理解頂けたらと思います。

 勉強を小学生の時からとにかく続けよう、やろうと意識させられて中学生の時に模擬テスト偏差値70を取ったことがありました。それから、学校の定期テストで学年2位になることも2度あり、勉強さえ出来れば友達が居なくても体育や実技が出来なくても社会人になれる。そう思い込んでいました。それを励みに、中学生の頃は勉強を中心に、部活や検定試験・委員会などあらゆることに全力に取り組んできました。頑張ると周りが褒めてくれるので、努力が正義だと思っていました。中学2年生で、希死念慮に繰り返し襲われるようになり、酷い落ち込み状態で授業中座っているのがやっとという状態が1週間以上続く事も何度もありました。

 その年の3月、学級委員に立候補して一年勤め、3年生を送る会の運営の準備に酷く悩んでいました。そして3年の先輩の卒業式の予行をするために、体育館に全校生徒が集められていた時、あの東北の地震が起こったのです。自分の中学は関東の内陸にあったため、震度5弱という事でしたが生まれて一番の大揺れを体験しました。体育館の照明が落ちそうなほど揺れていたのを記憶し、他の生徒は大パニックで先生の指示を聞く前に慌てて中庭に避難していました。私もつられて外に出て、中庭で立ちすくんでいました。泣いている生徒が一杯いて大混乱でしたが、私は学級委員だったので先生に整列させるよう求められ、いつもの号令を出して座るよう指示しました。揺れの後、私は何故かそれで心が楽になるのを感じました。すぐに帰宅命令が出たのですが、部活の知り合いに「一緒に帰ろう。」と誘ってもらい一人で帰らなくて済みました。

 家に帰ってテレビが倒れているのを目にし、慌ててテレビを元に戻しました。スイッチを付けたら停電はしてなかったらしく、東北の映像と大津波警報の文字が私の目に飛び込んできました。結局リアルタイムで東北3県の津波の映像を見てしまい、現実かどうか分からず呆然としてしまいました。それで思ったのは、
「中学校明日休みにならないかな?3年生を送る会が、地震で中止にならないかな?」
という事が大きかったのを今でも覚えています。しかし、思い通りには全くなりませんでした。私の学校は窓ガラス数枚割れただけの被害で済み、電気も水道も大丈夫だったので翌日も通常登校となり、行事も全部予定通りに行われました。更に、
「東北の人たちに黙とうをささげましょう、エールを送りましょう。」
と先生が教室で話していました。テレビも地震のニュースとACのCM一色でげんなりさせられました。しかし、地震のショックがやっぱり大きかったのか、学級委員の仕事やクラスでの生活が、3.11前よりぎりぎり耐えられるストレスに緩まった気がしています。何とか最後まで2年生の中学生生活一日も休むことなく乗り切れました。

 3年に上がり、クラス替えがありました。私に陰口や嫌がらせをした女の子とはクラスが別になりましたが、話せそうな少数の知り合いと一緒のクラスになることは無く、孤立してしまいました。一気に気分も落ち込み、委員会活動も立候補できず、勉強も頭が回らなくなってきました。福島から避難してきた転校生がその後しばらくしてやってきて、声をかけて一緒に話したりするようになりました。一緒の部活になり、放課後も授業後の休みも独りぼっちは何とか回避出来ました。その子の親御さんが、車でしか行けないショッピングモールに連れて行ってくれました。その後の夏休みに入院した際も親子で面会に来てくれて、それらの気遣いは私にとって非常に嬉しいものでした。

 その頃、私は入学してから女子バドミントン部に所属して、先輩の引退後は推薦で副部長を勤めていました。練習も欠かさず出て6月の大会の試合に参加した後、受験のため引退となりました。そこで燃え尽きてしまったのか、孤独感も強まり勉強どころでは無くなってしまいました。受験の夏休みに入り、ネットの情報で市販薬を飲み過ぎれば死に至ることもあるというのを見て、軽い躁状態の様だった私はドラッグストアを巡って市販薬を購入して一気に飲みました。家だとすぐばれそうだったので、外でやってしまった私は駅のデッキで座り込み動けなくなってしまいました。警察を大人の人が呼んでくれて、父が呼び出され総合病院の救急を受診し、小児科に入院することになりました。

 入院して2日くらいで点滴は外れましたが、1週間入院していました。中学校と家の生活は地獄で、それに比べると初の入院生活は天国の様でした。そして、外出訓練の後、退院して受験勉強をしようと思ったら全く勉強が手に着かず、問題も何も解りませんでした。数学が特に駄目で、得意科目の英語か、漢字の書き取りのプリントをこなす事しかできず大きくショックを受けました。しかし、入院時から熱心に面倒を見て頂いた小児科の先生が理解ある人で、勉強も学校に行くこともしなくてもいいと私に行ってくれました。塾も英語教室も行かなくなり、夏休みはひたすら総合病院の小児科の主治医と研修医の元に毎日通っていました。ボランティアを勧められ点字制作体験に申し込んで行ったり、保育園の子供と遊ぶ実習体験に研修医の人と参加したりして過ごしていました。1000羽鶴を折ることを勧められ、1000羽折り紙で鶴を折り、病院にあげました。正直それはかなり迷惑になったかなと思いますが。本当に総合病院の先生方にはかなりお世話になり感謝してもしきれないです。紹介で、教育支援センターに行き、適応指導教室に通う事も夏休み明け決まりました。

 夏休み明けは中学校には一日も通いませんでした。その代わり、最初は適応指導教室という公営のフリースクールに何日か通いました。自分の市の場合、最初は心理士の職員と個別で卓球やボードゲームをしながら過ごすことから始まりました。しかし、すぐに集団に入らないといけないと思い足がすくんで通えなくなってしまいました。小児科の先生に話したいと思って、総合病院に行って診察予約をしたら、その先生と話すことになりました。そこで、紹介されたのが思春期精神科病棟で、しばらく入院してゆっくりする事でした。親も呼ばれて、その日中に精神科の病院を受診出来るように紹介状を貰いました。思春期精神科病棟のある病院は私の県でも珍しかったのですが、ちょうど家から歩いて30分くらいの近所にある病院でした。それまで一度も名前も聞いたことも無かったのでびっくりしましたが、両親と一緒に思春期精神科外来を初めて受診しました。私に先生が
「入院したい?最初はかぎのかかる部屋からだけど大丈夫かな?」
と聞いてきました。私が入院したいと答えたので、翌日その病院の思春期精神科病棟に入院することになりました。

 入院してから、それまでの人生で一番穏やかで辛くない生活が始まりました。暴れて薬の量が限界まで増え、片足とお腹を拘束されて保護室で2週間閉じ込められたこともありましたが、それでも気分は本当に楽でした。3か月と当初言われた入院生活は半年になり、中学3年の卒業式の一週間くらい前に退院しました。入院中に高校の事が気になり、通信制に行ける事を知り通信制のサポート校に見学に行き、作文を書いたり面談をしたりして入学が決まりました。退院後すぐの高校入学は主治医に反対されましたが、無理しない範囲で高校に通う事を前提に行ける事になりました。

 それから、後は早足の記述になります。高校生の時は数か月の入院を数回繰り返しながらも何とか3年で卒業し、知的障害者がメインのB型作業所に卒業後すぐ通い出しました。3か月でそこは耐えられず辞めて、入退院を今まで短期メインで50回以上繰り返しました。短期バイト、長期バイト、手作業の別の作業所、デイケア2箇所と通う場所を転々としました。そのうち、高校の学び直しをしたいと思い、独学で勉強するようになりました。放送大学に入学し、それでも諦めきれず日本文学を学べる通学の大学を受験しました。試験の難易度は低かったため、奇跡的に入試日に大学に足が向いたため合格。現在は8浪の大学1年生として大学に籍を置いています。春は哲学の授業、情報学の授業に多く出席して、何とかオンデマンド配信の必修科目2単位ゲットしました。秋から一気に気分が落ち込み、休学届を出して休学中です。この春、学費を振り込めば自分の大学は留年が無いので大学2年生になります。しかし、体とメンタルが恐ろしく消耗してしまいました。今まで数年間、精神障害の人と交流する施設に通っていたのですが、そこで職員と利用者に多大な迷惑行為をしてしまったため2か月の利用停止を言い渡されたところです。大学の事で、私の身の回りの人を振り回すのはいけないなと思い、退学するか除籍になるか必死に悩んでいます。

 まあ、本当に30年足らずで色々私の人生あります。すごい疲労困憊です。私がもがいている間、世の中は発達障害者という新たなカテゴリーを作り、すみ分けを強化して誰もが傷つき過ぎない世界へと変化してきました。私としては、今の若者に同じ思いをしてもらいたくは無く少しでも楽に穏やかに生きて欲しいので、羨ましいと思いながらも変化を受け入れたいです。傷ついて孤立して死ぬしかないと思い込む辛い人たちが一人でも減ってくれることを強く願います。

読んで下さり、ありがとうございました。


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