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四面書架②  自由の刑に処サルトル        芸術扁

 僕は色々な天才にめぐまれている。そのなかでも、ゴロ合わせの天才がいる。これでもかというほどの下ネタを駆使し、30年たっても忘れないであろう渾身のゴロを提供してくれる彼であるが、唯一そのような語句を交えずとも、脳裏にこびりつくものがある。それは、哲学者サルトルが提唱する「人間は自由の刑に処されている。」という文言とサルトルを掛け合わせたものだ。そんなことはさておき、僕はまさに今自由にいじめられている。あまりにも多くの選択肢から適切な解を選び抜くことは難しすぎる。間違った方向へ努力をし、水の泡になってしまうことを心のどこかで恐れているのだと思う。また、判断という行為は多くの疲労をもたらす。そのため、汗だくになりながら一歩進んで一歩戻るかのように、つまようじで石橋をたたいて渡る日々だ。そんな臆病な僕であるが、京大にある日本哲学科への院進と同時に医学部再受験を決意している。その決意の旨を忘れないうちに、ここに記したい。

 もともと芸術家、特にピアニストとしての道を歩むことを親からは期待されていた。そのため、幼いころから指が曲がるほどにまでピアノの練習を親の指導の下で行っていた。当時は癇癪をよくおこしていた。鍵盤のミスタッチを起こした指をはさみで切ろうとするほどであった。あまりにも、頻繁に癇癪をおこすため、母親は親子関係でのレッスンの限界を知ったのであろう、地元では有名なピアノ監獄所とよばれるほどに過酷な練習を強いられるレッスン場に6歳の僕を置き去りにした。そこでの生活は地獄そのものだった。シューベルトの見た目をした鬼教官に怒鳴られる日々であった。あの眼は、こないだ奈良で見た金剛力士像よりもはるかに怖かったのを今でも覚えている。ただ今になってはそのような過酷の練習のおかげで、ある程度動じないメンタルを獲得できたので感謝している。ピアノは高校2年生まで習っていた。しかし、中学生になると純粋に遊びたくなり、ピアノの練習は以前よりは格段と行わなくなった。小学校の頃に比べて、コンクールや演奏会の回数が増えてくる。気持ちはピアノから遠ざかっているのにピアノを弾かなければ公衆のまえで恥をかくため、恥をかきたくないがゆえに、いやいや頑張っていたのを覚えている。そのようなピアノに対する飽きのような感情は高校まで続く。そして、ピアノをやめる契機になったコンクールが訪れることとなった。高校2年生の12月。キタラでのコンクールのできごとだ。ラフマニノフのある曲を発表曲にしていた。今まで通り無難にやり過ごせると思っていたが、発表中にすべての楽譜が頭の中から飛び去って行った。なぜ飛んでしまったのかは、いまだにわからない。しかし、300人あまりいる会場で何も弾かないわけにはいかなかったので、その場で自分が思うラフマニノフを即興で演奏した。今まで即興はやったことがなかったので、完全に自暴自棄であった。もちろん指導教官にはこっぴどく叱られる。しかし、くやしいとも思わなかった。むしろ、うれしかった。ここで、今まで歩んでいたクラシック音楽とお別れをできるんだなーと思っていたのだと思う。その一件以降、クラシック音楽とは完全におさらばし、新しく即興音楽を始めるに至った。即興音楽はとても楽しい。心象が音象となって現れる。そこに是非も存在しない。だれからも咎められることもないし、発表会もコンクールもない。自由に、気ままに、競争のないピアノを楽しめるのだから。ようやく、自由をつかんだのだ。





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