見出し画像

山田ピンポンショッキング③藤田兆治さん

第3弾!藤田さんのお話

地域の方にインタビューを行い、次の人を紹介してもらう。
「山田ピンポンショッキング」第3弾。

谷口さんからのバトンは、菊農家の藤田兆治さん(74)にまわってきました。
現在山田では数少ない菊作りをされている方です。また違ったお話が聞けました。

銀行員から百姓になるまで

出身山田、生まれも育ちも山田な藤田さんは、1948年生まれの現在74歳。
山田中学卒業後は長田区にある夢野台高校に進学。
その後、神戸銀行に就職しました。(現在は三井住友に合併)

銀行には30年間勤務し、50歳くらいまで働いていたそうです。
そんな藤田さんが仕事を辞めて菊農家になったのは、色々なタイミングが重なったからのようです。

元々就職の時から、いずれ百姓をしないといけないとは思っていたそうです。
家には女の人が多く、自分が動かないとしょうがない状況だったのだとか。
そのため、家の仕事を仕事の合間にする必要があり、遠方の転勤はしないでほしいということを会社に頼んでいたそうです。

辞めるきっかけとなったのは、遠方への単身赴任でした。
その時は、やはり家のことが大変だったようです。

そしてちょうどその時に金融危機があり、いろんな銀行が早期退職の希望者を募集していたこともあり、退職。

仕事自体は面白かったそうで、銀行の中でも成果を出すなど、存在感を発揮していた時期でもありましたが、自分の家に戻ってきて百姓になりました。
藤田さんの「戻ってきて、2回目の人生がおくれたらいいなと思った。」という言葉が印象的でした。

試行錯誤を重ねて、たどり着いた菊作り

まず最初に菊を作り始めたそうです。
山田は菊の産地だったので、周りの人は菊づくりの知恵があり、誰に聞いても教えてくれるような環境だったのだとか。

実際に作っている立場としては「楽しいけどしんどい」とのこと。
作業がたくさんあるので一人ではできないそうで、少なくとも2人必要なんだとか。
かといって、アルバイトを雇えばいいという話でもないようです。

かつて奥様が家内が入院した時にアルバイトを雇ったこともあるそうなのですが、経営的にかなり厳しくなってしまう、とのことでした。

他にも色々考えて、人に会いに行っていたそうです。

那須塩原で、和の花、りんどうを育ててる方と知り合ったり、
千葉の農業団体で洋花である「サンダーソニア」を作っていた成田の方の人たちとも知り合ったりなど、色々な場所に行っていました。
その時に、球根は面倒見やすいという話を聞いたので、山田でも作ってみたそう。
ちょうどそのタイミングで農協が直売所を作るという話がでたため、サンダーソニアを持っていったのですが、まったく売れなかったのだとか。
松田聖子やヤクルトの古田選手の結婚式で使われたということで、当時人気が出た「ユーチャリス」も作ったりもしました。 

しかし綺麗な花は限られた人には売れますが、広くは受け入れられず、多くは売れないようです。
いろんな花に挑戦して、たくさん失敗したそう。
そして、現在の菊に戻ってきたそうです。

また、山田は2輪菊の「山田菊」が有名ですが、そちらも直売所で売るのは大変なんだとか。
藤田さんは大菊と小菊を作っており、西区の六甲のめぐみで販売しているそうで、山田菊は今は作ってないそうです。

山田菊を作っている人は今は5人くらい?とはっきりしたことはわからず、育種の人ももういないみたいです。

藤田さんは、1つの方向を決めるとそっちに突き進むタイプ。
花と野菜は農薬などの管理が異なるため、野菜や他のものを作ろうとは思わなかったそうです。
菊作り一筋で、藤田さんは今日も菊を作っています。

当時の山田の様子

当時の山田小学校は3クラスで、1学年100人以上だったそう。
団塊の世代ということもあり、とても多かったようです。

山田中学校は、先生も有名な人がいたり、同級生で東大へ行った人がいたりと、とても優秀校だったそう。
山田中学校は地域を超えてくる人もいる、いろんなところからくるため、
「今までは勉強してなかったけど影響、刺激を受けた」とおっしゃっていました。
当時は「別勉」という、今でいう塾に行っている人も多かったみたいです。

その頃の中学校は8クラスで、1学年350人~400ほどいました。
成績順にクラスが入れ替わっていたそうです。

確かに、すごく環境が変化していることがわかります。
そんな経験を持つ藤田さん。活性化という意味では、いろんな人が入ってくるのはいいことだというお考えをお持ちでした。

山田の自然が好き

生まれも育ちも山田の藤田さん、山田のどんなところが好きなのでしょうか。

「自然が好き、自然と共に生きてたらそれでいい」

幼い頃、山に田んぼがあり、親が作業してた隣で遊んでたそうです。
こういう思い出に、すごく癒されるのだとか。

今は入っていくことが困難なため、畑をしていないそうですが。
そこには田んぼが一件しかなく、上から下の田んぼを見下ろせるという立地でした。

管理された自然、つまり里山が好きで、ものすごい癒されるそうです。
が、蛇がいたら嫌いだそうです笑

私も山田に来て約半年が経過しようとしていますが、里山の豊かさを実感しています。
人間が畑に水をはり、田植えをすることによって蛙の大合唱が聞こえる、おたまじゃくしがたくさんいる、それがかえっていく。
自然と人間との共鳴に感動する日々です。

鳥の声が心の中に響いてきたり、堆肥にカブトムシが産みつけたり、、、
そういう場所が今後もあったらいいなと思っているそうです。

もっと広い視点で。今後の山田に対する思い

今後の山田はどうなっていくといいと思いますか?と聞いてみると。。。

「山田だけではなく、地域外の人、いろんな人が交われるようなほうがいい。里づくり協議会の中だけではなく、もっとオープンに考えてもいいのでは」
というご意見を聞くことができました。

そもそも、山田小学校を残すことは必要なのか、というところから考えるべきだということもお考えです。
他所に行って山田に取り込めることもできるのではないか、そっちの方がもっと良くなる気がする。と思っていますが、他の人に受け入れられることは少ないようです。

中学校の時に色々な人に会えて刺激を受けたご経験から、
昔の山田中学のように、色々な世界を見れたり、いろんな考え方、荒波を知ることが小学校の時からできたらいいというお考えでした。

新しい人が来ることに抵抗はないようで、むしろいいことだと思っているそうです。
藤田さんのお住まいの地区は、空き家はすぐ埋まり、現在は空き家はない状況なのだとか。
今までのインタビュアー、前さん、谷口さん、藤田さんは同じ地区にお住まいですが、こういった考えをお持ちな方が多いからこそ、空き家がない状況があるのかもしれないと思いました。

最後に、山田の今後への思いを聞いてみました。

「新しい人がどんどんきて、今までの考え方なんて打破して、どんどん変えていったほうがいい」
「力強く引っ張れる人がトップに立てばいい。強力なリーダーが欲しい。」
とのご意見をもらいました。

今の山田は老夫婦二人の家がたくさんあり、若い人が少ない状況です。
その中で、新しい人には積極的にきてほしいとのことでした。

また、それと同時に、先頭を引っ張れる人もいた方がいた方がいいとお考えです。
なったから仕方ない。という人ではなく、地元の中で積極的な方がリーダーになったらいいと思っています。

まとめ

地元の方で、山田の良さを素直に聞くことができ、なんだか嬉しかったです😊

改めてこの里山の自然を守りたいと思いましたし、菊作りも含め、
それを繋いでいける世代が山田にどんどん関わってほしいと思いました。

全員が納得することは難しいかもしれませんが
地域の方々の意見をひとつずつ拾っていけたらいいなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?