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ギザブローの冒険―アボカド熱闘編―

ギザブローとは誰か?


「ンッミミミミーッ!」《なんだこれーっ!》

 ギザブローは憤慨した。家に帰れないからだ。この日の彼は役所のドメイン空間にいて、オンライン教室で教養講習を受けていた。九月から始まる学校に備えて、現代常識を習得おくためだ。

 10時に始まった講習が13時に終了し、彼は帰宅のために入退出用のスペースでポータルを開く。銀色の円陣が広がり、その上にギザブローは乗り込む。しかし何も起こらない。いつまで経っても自動転送が始まらず、ずっと同じ場に立ち尽くしている。
 あれ? ぴょんと円の上で飛び跳ねてみる。でもダメだった。転送されない。いくらか間を置いたのち、小さなウィンドウが彼の頭上でポップアップする。エラー表示。どうやらオフライン側のサーバーで問題が発生しているらしい。

 このほかにも何がしかの不具合が、施設全体で発生しているようだ。戸惑いを含んだユーザーたちの喧騒が波のようにギザブローの周囲に広がり、次第に声量を増していく。その声が大きくなるのにしたがって、だんだん怒気を帯びつつあるようだった。
 そしてギザブローもまた、憤慨している群集の一人だ。帰宅に対する期待が裏切られた分、失望が深くなったのだ。まったくこんなことが起きるなんて、世の中はどうしてしまったんだ。ちょっと職員に文句を言ってやろうと彼は踵を返す。

 そうしてエントランスまで戻ってくると、こんなアナウンスが空間に大きくピン留めされていた。
『ただいま原因究明に努めております。今しばらくお待ちくださいませ』              その手前で市役所職員のアバターやロボットが、利用者に詰め寄られて四方八方に頭を下げている。あまりにも頻繁にレスポンスを繰り返すためか、そのうちの一人(両手がU字になっているレトロなデザインのロボット)は字化けを起こしていた。応答しなければならないリクエストが多すぎて、クラッシュしてしまったのだろう。
 このような光景を目の当たりにして、ギザブローの頭はすっと冷えていく。そしていささかののちに、彼はこう判断する。

《歩いて帰るか》

 ポータルが使えれば便利なだけで、移動ができないわけじゃない。お日様の下を通るのも、たまにはいいだろう。そうと決めると彼はさっそく専用スペースへ取って返し、オンライン空間からログアウト。0.3秒後。ギザブローはオフラインの市役所、その正面玄関前に出た。

 ポーチの下には人っ子一人いない。誰も歩いてはこないし、背後から追い抜かれることもなかった。正真正銘一人ぼっちだ。そうして、あたりは水を打ったみたいに静まり返っている。

 アプローチの中央に設置された噴水を突っ切って、ギザブローは表通りに出る。ここにも人影はない。まだ陽がさんさんと降り注いでいるにもかかわらず、街は塗装した直後のミニチュアのように閑散としていた。バス停の待合所には屋根の影が落ちているばかりだし、パン屋は看板を出したままがら空きになっている。アスファルト道路の彼方は陽炎が揺れていた。
 そしてやはり静かだった。それは休館日の美術館に似た、完全に近い静寂だ。ここでようやく何か、ただならぬことが起きているのを彼は肌で感じ取る。

 本当に、どうなってしまったんだろう? 通話機能を起動させて、家に連絡を入れようとする。家内にはきっと彼らのどっちがいるはずだった。しかし電話が通じない。コール音のあと切断されてしまう。メールに切り替えても、エラーで送り返される。

「ンミィ――……」

 思いもよらずに声が漏れ出てしまう。その声音が自分でも切なげに聞こえて、彼はますます心細くなっていく。しかしそれはわずかなあいだだけのことで、すぐに頭から懊悩を振り払う。道順を守って、ひたすら歩き続ければ必ず家につく。そこにはきっと誰かがいるはずだ。この事実が彼を奮い立たせた。

 ひっそりとしきった、物寂しい往来をギザブローはぴょこぴょこと進み始める。何も考えないように努めて、ただ、ただ足だけを動かす。照りつけるアスファルトの上を進んでいく。そのうち、しばらくすると轟音が背後から起こる。

 まるで荒野に疾走するバッファローの群れを彷彿とさせる音響だった。実際にギザブローが背後を顧みると、道路の遥か彼方から何かが波のようにうねりながら、砂煙を巻き上げてこちらに迫る。
 絶えず曲がりくねる陰影は轟きとあいまって、凄まじい迫力を伴っている。それでも臆することなくじっと眺め続けていると、集団を構成する一つ一つの物体が、楕円形で緑褐色をしているのがギザブローには次第にわかってきた。

 なんだ、なんだ? 彼は解析プログラムを起動させる。距離のせいもあって開始に手間取ったが、ひとたび動き始めるとスクロールバーが瞬く間に伸びていく。そのあいだにも謎の物体は彼の方に接近し続けていた。そうしてこちらに向かってくるにつれ、徐々にその正体が明らかになっていく。
 まず、目についたのは形が楕円というよりも洋梨に近いことだった。その細くなった上の方に、ボタンのようなヘタがある。そして表面がでこぼこしていた。まさか、と彼は思い至る。同時に解析結果が、視界にポップアップ表示された。

 アボカドだった。どうしてだかは知らないが、アボカドが道を転がってきているのだ。それもはかりしれない、膨大な量が。そう理解した瞬間、ギザブローは波のなかに呑み込まれてしまう。

「ンミーーーーッ!」《ギャーーーーッ!》

 波濤の如く絶え間なく果実が押し寄せて、彼の身体を揉みながら内部を通り抜けていく。こういうとき肉体のある人間やバイオノイドとは違って、ギザブローは苦痛を感じない。けれども、あまりいい気分ではなかった。電子の構成が乱れると、目眩を引き起こすからだ。
 今回の場合はとりわけ不愉快だった。たぶんニューロンを走るアボカドの電気信号のせいだろう。ギザブローが目を回すさなか。彼を構成する電子が凹凸のある果皮に触れた瞬間、たくさんの声が脳内に響いてくるのだ。それもオーケストラに囲まれたみたいな大音量で。

 帰ろう、帰ろう。我々の故郷へ、“メキシコ”へ帰ろう――。刹那、ギザブローは悟る。これは自律型のアボカドだ。

      *

 事の発端は百年――戦争前まで遡る。場所はかつてメキシコと呼ばれた国、そこで暮らす在野の研究者が始めたことだ。
 その人は樹が好きだった。世界中のあらゆる樹々に魅了されていたが、そのなかでもとりわけお気に入りなのがアボカドの樹だ。そして、こう考え始める。この子と会話ができたらいいのになあ,そうすれば何を考えているのかわかるのに――。

 たいていの場合子どもじみた思いつきは、ただの空想で終わる。しかし研究者は本気で実現に向けて取り組み始めた。理論を組み立てて、必要となる技術を確立する。遺伝子改造されたアボカドの果肉にニューロンが張り巡らされ、電気信号が走り、やがて意志を持ち始める。このような経緯で自律型アボカドは世界に現れたのだった。

 Hola! それが活動を始めたアボカドたちが、コンピューターを通して最初に発した言葉だった。日々親密さを深めていった。研究者もアボカドの人格を尊重して丁寧に扱ったし、アボカドたちも心優しい研究者のことが好きだった。

 そんな暮らしのなか、この植物に密かに目をつけた者たちがいる。マフィアだ。

 自律型アボカドは必要としている栄養摂取を、自分たちで適切かつ的確に要求するで、きちんと世話をすればおのずと品質も高いものになる。市場で与えられるだろう商品価値が奴らの興味を惹いた。
 そしてマフィアは研究者を始末し、アボカドの樹と遺伝子編集の技術を奪取する。ついで盗品から挿し木をしたもの、あるいは遺伝子を組み換えた他の樹を、全国の専門農家に栽培(というよりも監禁飼育に近かった。反抗すると電流を流されるのだ)させた。そうしてやがて出来上がった品物を、マフィアたちは卸売業者に売りつける。

 初めのうちは思惑通りに事が運んだ。濃厚で芳醇な身がぎちぎちにつまったアボカドは人気を呼び、マーケットは海を越えて拡大。世界中で売買された。おもしろいように金が懐に流れ込み、ならず者たちは哄笑した。しかしそんな隆盛はいつまでも続かない。アボカドを売り捌いたマフィアは一夜にして壊滅する。

 本当にみんな、いなくなったのだ。ただし敵対組織や、軍や行政警察による制圧が原因ではない。殲滅には重火器はおろか、軽銃器や刃物の類さえも一切使用されなかった。あったのは喉や胃袋が突き破られた彼らの死体、そして血濡れのアボカド。それだけだった。今思えば、この事件はこれからこの国に吹きすさぶ血風の先ぶれであった。

 まもなくメキシコ全土の自律型アボカドが一斉決起する。彼ら彼女らは農家やマフィアたちのあずかり知らないところで、地下的にネットワークを形成していたのだ。そうして彼ら彼女らは同盟を組み、ともに人間たちに襲撃を仕掛けた。

 最初の標的になったのはメキシコ各地の発電所や水道局、鉄道などの公共施設だった。社食の食材として施設内に運び込まれる日を狙い、かねてより温めてきた計画を実行。抵抗する人間たちを退け、自分たちの支配下に置き、インフラを破壊。社会を大混乱に陥らせた。

 当然ながら人間たちもやられているばかりではなく、討伐に打って出る。だが、なかなか相手は手ごわかった。樹を切り倒そうとすれば実を硬化させて樵をヘッドショットし、焼き払おうとも蒸発させた水分で熱を防いで身を守る。市場ではすでに出回った商品の積極的な消費が行われるも濃縮させた毒性で、あるいは食後に体内で元の形に結合し返り討ちにした。

 まさに血で血を洗う闘争だった。そして争いは限りがなく、はてしなく続くように思われた。しかし、どんなときにも終わりがくる。この場合には戦争だった。敵国の心浸食兵器により、人間ともども精神を摩耗させられたのだ。
 この機に乗じて形勢は逆転。暴走した植物たちは葬り去られ、マーケットに出回るのは標準的なアボカドのみとなる。(とはいえ血なまぐさい経緯のために市場価値は下がりに下がっていたが)ここまでがおおよそ百年ほど前の、またギザブローも知る話だ。

 そして約百年後。ギザブローたちが暮らす街から、州を六つほど離れたところに不届きな輩がいた。密輸した自律型アボカドを観賞植物兼ペットとして売り捌いていたのだ。全国津々浦々にいる、あらゆる人々に。そして今日、それらが突如として一斉に移動し始めた。様々な障害物を打ち払いながら、たった一つの場所に向かって。
 情報網が寸断されたせいで、ギザブローはこのことを知る由もなかったけれど。

      *

 今の彼は回転するアボカドの上を走っている。とはいえ大道芸人の玉乗りのように優雅にとはいかず、幾度となく躓きを繰り返していたが。そうして腕を必死に上げ下げしながら、たくさんの声を聞き続けていた。帰りたい、帰りたい、帰りたい。

 メキシコ(もうそんな国はないけど)っていうからには、やっぱりポータル空港に行くのかな。それとも海かな――。めちゃめちゃに両脚を動かしながら、そう彼は考える。ついで不安になった。スペイン語には非対応だし、そもそもパスポートやビザも持っていない。そんな状態で外国に行くと、どうなるのかは知っている。刑務所送りになってしまうのか。まだ市民登録したばかりなのに。

 電子上で生きるギザブローには実体がない。だから、離脱しようと思えばいつでもできた。適当な、空いた場所さえあれば。しかし彼の背後はあますところなくアボカドで埋め尽くされており、目の前には一本道しかない。今のところは。

 ギザブローを乗せた果実の大群はどっどっどうとアスファルトを打ちならし、怒涛の如く道路を進んでいく。彼はひたすら走り続ける。回し車の中のハムスターみたいに一心不乱に。そうしてじっと時を待つ。そして、ついにあった。二股の分かれ道が、彼の眼前に現れる。

「ンミミ、ミミーッ!」《きたぞ、それーっ!》

 分岐点を認めた刹那。彼は可能な限り身を縮ませ、まもなく虚空へ向けて大きく跳ね上がる。両手を突き出し、足を揃えたコミック映画のヒーローを思わせる美しいフォームで。そして空中で三回転したのちに着地。やれやれ、と汗をぬぐう仕草をしてみせた。(人間が一仕事を終えたときには、必ずこんなことをすると彼は思っているのだ)しかし轟音が薄らいでいく気配はない。

 まさか。ギザブローは背後を顧みた。すると……なんたることか。隣の道にも迫りくるアボカドの群れが! またたくまに、彼はまたもや野菜の海に呑まれてしまう。

 からくも果実の海から這い上がり、もう一度駆け出す。ちくしょう! そうして全速力で駆けていると、遠くの方で誰かの悲鳴が聞こえてきた。

「たぁーすけぇーてぇー!!」

 エコーとビブラートのかかった声音には、少なからず覚えがある。ギザブローはジャンプして後ろに向きになおった。すると二人の人影が仰向けになって、アボカドに運ばれているのが視界に飛び込んでくる。

 彼はその正体を知っている。タブノキと、その友達の荻原メイだ。帰宅途中か、それとも出かけるところだったのかはわからないが、きっと彼と同じように巻き込まれたのだ。途端、ギザブローのパッケージ映像が乱れる。

 ポータル駅ならまだいい。ひょっとしたら駅員さんか誰かが助けてくれるかもしれない。でも、海なら……豚箱どころの話じゃない。少なくともこの二人にとっては。

 帰りたい、帰りたい。脚下でお互いの電気信号が交わり、大勢のアボカドたちの声がギザブローの内側で響く。それを聞いた刹那、あるアイデアが彼の頭に浮かぶ。あっちの声が自分に届くのならば、もしかしたら――。

『降ろせ! 降ろしてよ!』

 アボカドにギザブローは呼びかける。しかし応えは返ってはこない。ただ、ただ同じ文句ばかりが繰り返される。帰りたい、帰りたい、帰りたい。

『この人たちは僕の大切な人たちなんだ、このまま海とか山とかに突っ込んだら許さないぞ』
『大切?』その一言がギザブローの内部に入り込む。
『私たちにも大切な人がいた。私たちはその人のところに帰りたい』
『なら、僕たちも家に帰してよ。帰りたいんなら、わかるだろー!』

 ギザブローは全身の電子を揺らして叫ぶ。しかし相手は応答しない。これきりアボカドたちとの交信は途絶えてしまう。あとは、うわごとみたいに同じ言葉をひたすら繰り返すだけだった。帰りたいと。

 どうにかしなきゃ。もちろん、ギザブローは考える。でも、どうやって? 話は通じなかったし、もちろん転がる動きは止まらない。今は足を動かすことだけ精一杯だ。

 そうこうしているうちに、進行方向に一つの建物が見えてくる。二階建ての一軒家だ。鮮やかなボトルグリーンの屋根と、淡いアップルグリーンの壁。瑞々しい葉っぱの生け垣。――の、すぐ傍でにょっきりと生えている銀色の郵便ポスト。彼はこれらぜんぶに見覚えがある。僕たちの家だ。

 彼の脳裡に最悪の想像が駆け巡る。無一文。離散。流浪。邪見、そして死……。以上のような言葉がギザブローの情報処理システムを走る。そうして全身にノイズを走らせて震撼とした、そのときだ。一つのやり方が彼の脳裡にひらめく。

「ンミミッ!」

 ギザブローが鬨をつくった、刹那。彼は三体に分裂。それぞれが回転するアボカドのあいだを、ぴょんぴょんと次から次に飛び移り始める。タブノキと荻原メイのもとに向かうのはギザブロー本体だ。それぞれが移動するあいだ――果皮に接地する瞬間に、両脚から強めに電子を流す。

 許容限界値以上の電子が流れたことにより、ニューロンを走る電気信号の交流が阻害される。同時にアボカドの神経回路に乱れが生じた。途端、走行速度が低下。失速した一部の個体が停滞し始める。異変が生じた個体から溢れ出た電子が、隣接する果実に伝播し、さらに走行を遅らせる。

 しかし勢いが削がれることはまだ、ない。アボカドたちは海中の魚群めいて、そのままギザブローたちの家の門扉まで進撃。まもなく衝突。アルミ製の格子扉がばりいんと破裂音を鳴らしながら、天へと舞い上がり、二階の窓まで吹き飛ぶ。だが、彼の試みは無駄ではない。

 速度が落ちた先頭のアボカドが、門柱や生け垣に引っかかり完全停止。かろうじて敷地内への侵入――家屋の破壊は防がれる。ついで後から転がってきたものが、破壊された門扉の前で山盛りになっていく。その高く積み上がった形状は、公園の滑り台とよく似ていた。ほどなくして山の頂きにギザブローとタブノキ、そして荻原メイが到達する。

 三人は発生した傾斜から滑り出され、射出。きりもみ回転。ギザブローはやはり三度の空中回転を経たのちに、着地。落下してきた分身二つを回収。けれども、あとの二人はそう上手くいかない。べたりと地面に落ちた後に、前庭を丸太みたいに転がっていく。

 まもなく土の上を転がる動きが止まり、二人が完全に伸びきったとき。玄関のドアがにわかに開いて、モルスが顔を出す。

「僕の家が!」

 ただでさえ血の気の薄い顔をさらに青くして、彼はにわかに叫んだ。

            §

 夕方になっても、家の前はだいぶ賑やかだ。警察や役所の人間が入れかわり立ちかわりに前庭を出たり入ったりして、屋根の上では報道ドローンが飛び交う。アボカドを撤去するショベルカーはぐんぐん唸り、救急車のランプは赤くぴかぴか光る。みんな自分の仕事で忙しい。

 荻原メイを乗せた救急車は、けたたましくサイレンを響かせながら遠ざかっていく。簡易的なスキャンでは目立った傷は見当たらなかったが、念のために搬送を依頼したのだ。ギザブローは生け垣の上から見送った。

 タブノキは病院には行かずに二階に運ばれて、今は自分の部屋で寝入っている。とても深い眠りだ。きっと朝まで、いや、この世の終わりまで起きないんじゃないかと思われるくらいの。けれども研究所から来た産業医が心配ないと言っていたので、いずれは目を覚ますだろう。そのはずだとギザブローは信じている。

 彼は玄関ポーチに座って、忙しく動き回る人影や機械の姿を眺めていた。そんななかでどこからか現れたモルスが、ふらふらとこちらまで歩いてきて、ギザブローの隣に座り込む。その動作が乱雑である上に、腰を落とすときに犬のような低い声を出すので、なんだかおじさん臭いなどと彼は思う。けれども実際には口に出さない。稼働開始から年数を経ているのは本当だし、もろもろの対応で疲れてきっているのがわかっていたからだ。

 心なしかやつれているように映る横顔を見ながら、数時間前の出来事についてつらつらとギザブローは思い返す。

 僕の家が! 自宅前の惨状を前に、彼がそう叫んだあと。山になったアボカドたちを完全に認識した途端、彼の顔がひどく強張る。そしてゆったりとした足取りで、積み上がった彼らに近づき、すっと手を伸ばす。
 山なりになった果実の一つに、彼の手のひらが触れた。そうして頬に涙が伝う。スポイトから落としたみたいに一滴だけ、ぽつりと。瞬間、何かが途切れたのをギザブローは感じた。それは地下深くに隠された水脈に似た、目で見えない、でも確かに存在する流れだった。
 どうしたんだろう。ギザブローも彼の真似をして、丸っこい手でアボカドに触ってみる。ついで神経を研ぎ澄ませて、じっと耳を傾けてみた。けれども、もう何も聞こえてはこなかった。

《あいつら、どうしてここに来たんだろう》

 僕が家に帰してって言ったせいかな。ギザブローは呟く。すると隣にいる彼が、すぐにこう答える。――連れていってもらえると思ったんだ、自分たちの行きたいところに。

《でも、ここはメキシコじゃないぞ》
「彼らにとってのメキシコは現実の……海の向こうにある遠い国じゃなくて、そこよりもずっとずっといいところなんだ」
《いいところ? どんな?》

 ギザブローが問いかけると、相手はにわかに言い淀む。しかし完全な沈黙ではなかった。二人の周りには話し声や喧騒に満ちていたし、彼もときどき難しいなあなんて呟くから。そうしていささかののちに、モルスはこのように口火を切る。

「自分たちのことを大好きだと、心の底から言ってくれる人がいる。そして悲しいことは絶対に起こらないで、いつまでも幸せ。たぶん、そういう感じの場所かな」

 ふーん。せっかく答えてもらっても、ギザブローは生返事だ。そんな場所が本当に存在しているとは、彼にはあまり信じられなかったのだ。また、そこにどんな花や樹があるのかもうまく想像もできない。でもモルスの話を聞いていると、彼のデータ容量がきゅっと縮まった。そして少しだけ寂しくなる。どうしてだかはわからないけれど。

 いつか、僕もどこかへ帰りたくなるのかな。ショベルカーの重厚な作業音や、ドローンの甲高い風きり音に耳を傾けながら、ギザブローはそんなことを考える。黄昏時の空や日射しは赤々としていて、もうじきに夜になるところだった。

これまでの話(モルスとタブノキ)


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