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RND-C01 後

前回

 その日の真夜中。二人は初めて研究所の外に出て、列車に乗った。経理部から若干の金を拝借し、施設を脱出。夜明けまで建物の物陰や路地裏に隠れ潜み、空が白むと駅に向かって始発の列車に乗車する。行先は北でも南でも、どこでもよかった。研究所から遠くに離れさえすれば。
 弾丸のように駆ける急行列車はまたたくまにビルだらけの街を抜けて、高速道路を追い抜かし、まばらになった田畑や集落を通り過ぎ、鬱蒼とした山の薄暗いトンネルをいくつも貫いていく。そして今は崖に張りついた海沿いの線路を進んでいる。絵に描いたみたいに良く晴れた朝だった。

 目の前の風景が絶え間なく変化し続ける様からは、なかなか新鮮な感覚を得られた。まるでメリーゴーラウンドに乗ったら、きっとこんな感じだろうと思われる感覚が。酔っ払いそうになるくらいに、目まぐるしく魅力的な変化なのだ。それは向かいに座ったタブノキも同じようだった。
 タブノキは列車に乗り込んだ瞬間から、ずっと車窓に釘付けになっている。両手を窓枠にかけてしがみついている。相手の靴下の裏や横顔を見ながら、モルスはいつかの雪の日を思い出す。今の状況とは違うけれど、こうして一緒に窓辺にいるとなんだか感慨深いものがあった。

 列車がしばらく走り続けていた、ある瞬間。舌を噛みそうなくらいに車体が大きく右へぐらつく。同時に鉄板を引っ掻くのに似た不快な音響が、あたりに鳴り渡って停止する。駅のホームではない。線路の途中の変なところだ。どうやら事故が起こったらしい。

 停車時間が長く続いた。戸惑いと苛立ちを含んだどよめきが、次第に乗客たちのあいだに広がっていく。そんなものに耳を傾けているうちに、モルスには詳細がだんだんわかってくる。なんでも崖の上から人が降ってきて、走行中の列車とぶつかったのだという。今は実況見分や事後処理で手間取っているらしい。

「降りよう」モルスはタブノキに促す。
「ぐずぐずしていると追いつかれる。動くなら、早い方がいい」
「でも、駅員さんが困るんじゃない?」
「今さらだ。困っている人は、もっと困ってる」

 しかし彼らが立ち上がるまでもない。まもなく線路に降りるようにと指示するアナウンスが流れる。二人は他の乗客に紛れて降車して、最寄りに停車駅を目指す。断崖に寄せては砕け散る波濤の騒めきが耳にちらつく。どうも満潮か、それに近いらしい。崖下の潮騒がこちらに力強く迫ってきて、毛髪や服を濡らしてくるように感じられた。

 周囲の様子に気を取られがちなタブノキの腕を、モルスは引っ張って歩く。物珍しいのは彼も同じだが、今は立ち止まっている場合ではない。どれだけのあいだ、どれほどまで遠くへ行けるのかが彼にとっての一大事だった。
 何かもがある――。そうタブノキが呟く。彼は隣にいる相手の顔を垣間見た。上目遣いで空を眺めている。自分に注がれている視線に気づいたらしい。ふと横顔がこちらに向き、お互いに視線がかち合う。タブノキは訝しげな表情をしていた。まるで自分でも何を言ったのかを、そもそも口走ったという事実さえもわかっていないみたいに。

 最寄りの停車駅に着くと、乗り換えのために改札を抜ける。一刻も早く移動したいのだが、なかなかうまくいかなかった。まず他の列車はもちろんのこと、電車やバス、タクシーなどあらゆる交通機関が混雑していた。レンタル自転車も空になったまま戻ってこない。しかたがないので二人は線路沿いを歩き始める。

 どこへ、というあてはやはりモルスにはなかった。飛び出したときと同じように得体も、底も知れない衝動に突き動かされていた。そしてそれは激しいとともに、また危うくもある衝動だった。一度進むことを躊躇ってしまえば、前進し続ける原動力はたちまち失せてしまう気がしたから。
 はぐれないように彼はタブノキの手を握る。確かに握り返してくる力を感じながら彼は言う。

「置いてはいかないからね」

 相手は何も答えない。モルスもそれきり口を噤む。そのまま歩き続けて、いくらかしたころだった。突如、通り過ぎた二人の背後で、悲鳴じみた甲高い音が鳴り響く。
 自動車のクラクションだ。そうと理解した瞬間、斬りつけてくるような風が一陣吹き抜ける。ついで背中を強く押されるような感触がして、モルスとタブノキはシャンパンのコルク栓みたいに吹っ飛ぶ。

 ……気がつくと彼らは路上に倒れ込んでいた。視界は灰色に煙っていて不鮮明だ。自分が今どこにいて、何が起こったのかがまるきりわからない。理解できたのは全身が埃塗れで、胸の下にタブノキがいること。それだけしか。そうして粉っぽい空気の中で呆然と座り込んでいると、次第に煙は薄くなり周囲の様子が判然としてくる。

 まずたくさんの石が、眼前にごろごろと転がっていた。天然のものではなく、粉々になったコンクリート片だ。あたりには大小さまざまの欠片が、石畳の上に放射状に飛び散っている。振り返ってみると軽自動車が、建物の壁にのめり込んでいた。いや、前の方が踏みつけられた虫みたいに潰れているのか。いずれにしても運転席部分は見えない。ただ、車体ごと浮き上がった後輪がむやみに回転しているばかりだった。
 やがて、ひきつるようなすすり泣きがモルスの耳につく。弱々しい呻き声もそこかしこで上がり始める。また怒号や啼泣、そして苦し気な呻き声が二つのあいだに加わって、混じりあい、重なり合って響き始めた。

「行こう」

 モルスは腰を上げ、座り込んだままのタブノキの腕を引っ張る。相手はこちらを見やり、あっと声を上げた。そうして射貫くように彼の顔をじっと見つめた。なんだろう。彼がそっと自分の頬に触れると、冷ややかなものが指先に付着する。それが液体であるのは即座に理解できた。そこで彼は己の両目から、冷却水が流れていることに気づく。

「本当に行く?」
「行く。絶対に」

 そう訊ねてきたタブノキに、袖で眼元を拭きながらモルスは答える。たとえいずれ捕まるとしても、それまでになるべく遠くへ行ってしまいたかった。あの場所から離れたら離れた分だけ、誰かを傷つけられるような気がしたから。

 言葉もなくタブノキは立ち上がり、両手で自分の身体にまとわりついた粉塵や砂埃を払っていく。ついでにモルスの頭の汚れも取ってくれる。どんな小さな汚れも見逃さないという風な、とても真剣な表情で。だから、おのずと彼も唇が引き締まる。
 手際よく身だしなみを整えると、彼らはふたたび前へ進み始めた。お互いに支え合うように――絡まるように寄り添いながら、しっかりとした足取りで。そうして薄っすらと残る砂煙をかき分けて、戸惑いに支配された喧騒を通り過ぎようとしたとき。大丈夫ですか、と突然二人は声を掛けられる。

 振り返ると一人の男が立っている。灰色のブルゾンを羽織った、二十歳くらいの青年だ。同じように事故に巻き込まれたらしく、彼もまた身体中が埃まみれだった。本来はとび色だろう髪の毛は、今は小麦粉みたいに白っぽくなっている。そして額から血がだくだくと流れていた。

「どこか痛むんですか。何か、泣いてるし」
 青年は言う。
「大丈夫です。こう見えて、とても丈夫なんです」
「ええ、とても。とてもね」

 先に放たれたモルスの言葉に、タブノキがそうつけくわえた。ついで、こうも彼に投げかける。あなたは?

 まだ使っていない方のハンカチを相手に渡して、モルスとタブノキは歩を進める。二人の歩調は軽やかで、どこにも異常はない。

 ずいぶん歩いた気がしたのに、彼らはまだ街の中にいた。今は駅前から離れて、今は共同住宅が並ぶ街を進んでいる。風景の変化は緩慢で、列車に乗っていたときのような目まぐるしさはなかった。けれどもゆったりとしている分だけ、周囲に漂う空気を肌で感じ取れる。光と影。充足と欠乏。笑い声や嗚咽。覚醒と酩酊。ポジティブとネガティブ。この場所には様々なものが入り混じっていた。
 石畳の上で靴音が鳴る。青や赤や緑など色とりどりの壁や屋根が、通販サイトに表示されるおもちゃのように並ぶ。またセミ・ダッチドハウスのこぢんまりとした外観も、玩具じみた印象を強くしていた。こんなところにたくさんの人たちが暮らしているのだと思うと、なんだか感慨深かった。研究所内は二百人近く職員が右往左往していても、まだまだ余裕があった。そんな広い場所しか彼は知らなかったのだ。

 あら、とふいに頭上から声が降ってくる。見上げると、二階の窓から誰かが身を乗り出して、モルスたちを見つめていた。

「帰ってたの? なら、知らせてくれればよかったのに」

 相手はそう言って、こちらに何かを投げて寄越す。それに向かってわっと、声をあげながらタブノキが差し伸べる。いくらか身体が左右によろめいたが、投擲された何かをどうにかキャッチ。その受け止めた手のひらを、モルスは覗き込む。リンゴだ。艶やかな赤いリンゴがタブノキの手の中にある。
 上がってきなよ。そう言って相手は窓の奥へと引っ込む。

「どうしよう、これ返した方がいいのかな」

 なんか、人違いされてるみたいだけど。リンゴを手にしたまま、タブノキは口にする。

 窓の位置からあたりをつけ、彼らはその人の部屋に向かう。ノックをすると相手はすぐに顔を出す。二十代を折り返したくらいの、妙齢の女性だった。扉を開けるやいなや彼女は不審そうに、二人の顔やつぶさに眺める。そうしてタブノキの手にある物を目に留めるとあら、と眉根を寄せた。

 事のあらましを説明すると、早とちりしてしまったと相手は謝罪する。罰の悪さや恥、悲しみや照れくささが複雑に入り混じった表情だった。そして風に吹かれる梢の影や木漏れ日みたいに、それらの感情が一つの表情の中で絶え間なく移ろい続けている。
 そのような顔つきで彼女は苦笑いを浮かべながら、これとタブノキが差し出したリンゴを押し返す。

「いいの、どうぞもらって。おわびです」

 ついでにお茶を飲んでいくよう勧められる。これも何かの縁だからと。少し迷った末、モルスとタブノキはご同伴にあずかることにした。

 手ごろな面積を持つ部屋だった。心細くなるほどの広さはなく、息苦しくなりそうな狭さもない。調度品の多さや色合い、配置もまた適切だった。これは彼女自身の感性によるものだろう。心から生活を楽しもうとしているのがわかる内装だ。

 ティーカップとソーサー、そしていくらかのクッキーやサンドイッチとともに、三人は円形のテーブルに座る。他人の家で紅茶を頂くのは、二人ともこれが初めての経験だった。作法にまつわる知識はあらかじめ持っていたけれど、それとは別のところに不安がある。
 砂時計が落ちきるのを待つあいだ、彼女はずっと話し続けた。普段は工場でロボットの整備をして、生計を立てているそうだ。今日は休みで家の掃除をしていたのだという。
 また、この家に人が来るのは久しぶりだとも彼女は言った。家内の様子や、弾けるような口ぶりの端々から察するに、どうも一人暮らしであるようだ。そして人を待っている。それが誰であるのかは、けして明らかにしなかったけれど。
 茶葉の蒸らし終わったあとも話は続く。

「部屋の空気を入れ替えようとして窓を開けたら、あなたたちがちょうど部屋の真下を通りがかったの。そうして顔を見た瞬間にあの人だって、あの人がいるって思ったの。ちゃんと帰って来たんだって。遠かったせいかしら。こんな間近で見ると、ちっとも似ていないのに」

 そんな彼女の言葉に、タブノキはひたすら耳を傾けている。綱渡りをしているみたいな真剣な顔つきで。習い性なのだ。そして、ときどき紅茶を口に含む。同じようにモルスもときおりカップを傾ける。
 他人に手をかけて淹れてもらった紅茶は、とても良い匂いがした。陽の光をよく受けた葉っぱの香り。でも、土や雨水の生臭さはない。そのような感じの限りなく純化された芳香が、彼の嗅覚センサーに漂う。また透き通るような琥珀色の水面に、窓から入る陽光がちらちらと反射する様も好ましい印象を深くさせていた。

「ごめんなさい、自分の話ばかりで。退屈じゃない?」
「いえ、大丈夫ですよ」タブノキは答える。
「聞くという行為にも楽しみはあります」
「そうかな。そうだったらいいけれど」

 室内は静かになる。コインを落としたときに似た沈黙だった。その中でタブノキが紅茶を口に含む。これを皮切りに三人は順繰りにカップを唇まで近づけていく。そうしていささかののち、彼女が再び唇を開く。前言撤回――。

「やっぱり似てる。どこがって、ちゃんと言えないけど」
「よく言われます。その後で勘違いだったとも」
「やっぱり失礼だったかしら」
「いいえ。見間違いをするくらいに会いたい人がいるのは、素晴らしいことだと思います」

 そうだよね。突如としてモルスに水を向けられる。少し思案したのちに、彼は小さく頷く。嘘ではない。懐かしいと感じる思い出があるのは、基本的に好ましいのは事実だった。寂しさを和らげるのを経験則で知っていたからだ。それが良いことかどうかは、時と場合によるけれど。

「すみません。どういう風に言葉にすればいいのか、わからなくて」モルスは言う。
「二人ともお医者さんか、何かなのかな?」
「そんな風に見えましたか?」
 彼の後を、タブノキが引き継ぐ。
「仕事としての領域は重なり合うところはありますが、医師と呼ばれるのは違いますね」
「それに医療資格者ならもう少し人と話したり、話すのを聴いたりするのが上手だと思いますよ」
「ふうん。まあ、なんでもいいけど。でも、お医者さんらしかったのは本当。助かったのも」
 助かった? そう二人の声が重なり合う。
「そう。とても助かった。正直に言えば、危ないところだったと思う。もしあなたたちが通りかからなかったら、きっと待ちきれなかった」

 彼女はおもむろに匙をカップに入れて回す。ときおり匙が陶器に当たってきん、と細やかな音を立てた。

「だからあなたたちがお医者さんでも、そうでなくても別にいいんだ。私が持ちこたえたのは事実だし、素晴らしいことをしてくれたのには違いないんだもん」

 それからしばらくしてモルスたちはお暇する。どうやら日が西に傾きつつあるらしい。家々から伸びる陰が、わずかだが深くなっていた。建物を出て天を仰ぎ見ると、空の端が桃色に滲んでいる。そんな夕方の空の下。人通りの少なくなった街を歩いていると、隣にいるタブノキがモルスにこう問いかけてきた。

「これから、どこに行く?」
「行けるところまでいこう」

 そうして彼らは近くの停留所でバスに乗った。もうすでにダイヤの乱れは収まっていたようで、バスは定刻通りに到着し出発した。それで終点まで向かって、やがて降車する。それからは再び歩いたり、電車に乗ったりした。すっかり日が沈んで、あたりが夜闇に包まれても彼らは前へ、前へと進んでいく。

 モルスたちが捕まったのは、その日の夜半過ぎのことだった。一休みしていた四阿でリンゴを食べていたら、追手に見つかったのだ。二人はまたたくまに拘束され、研究所に連行された。

               *

 彼らが仕事を放棄して出歩いたのは、たった一日のあいだだけに過ぎない。しかしこの一日が世間に与えた影響は広く、深刻だった。
 世界中で何千人もの人間が死んだ。自殺か、その巻き添えだった。いろんな場所にいるたくさんの人たちが喉を切ったり、満ち満ちたバスタブに頭を突っ込んだりしたのだ。あるいはもっと過激に走行中の列車に飛び込むことや、車で建物に突っ込むこともあったという。

 二人の行いは当然ながら三原則に違反になる。とくに今回の場合は重大な結果をもたらしているので、事と次第によっては解体処分もありえた。
 研究員たちのあいだでも彼らに対する批判も大きかったが、同時にこのような疑問も出てくる。モルスとタブノキの補助が無ければ自らからを死に至らしめる存在とは一体何なのか、と。そして、どうして我々は自分たちの足だけで立っていられないのかと。これらの問いはモルスとタブノキの命をつなぎとめる要因にもなった。少なくとも、しばらくのあいだは彼らを起動させておく必要性が認められたのだ。

 二人と同等の――あるいはそれ以上の性能を持つ機械を、すぐに製造できないという事情もある。背後にある人間関係や事情も鑑みて下された判断でもあった。しかし処罰は行われなければならない。

 彼らはなかなか会えなくなる。タブノキは別の研究施設に移送され、二人は引き離された。罰なのでモルスは所在地を教えてもらえない。手紙すら書けない。検査やメンテナンスなど何らかの理由で同じ施設内にいても、対面できないようにタイムスケジュールが組まれた。そしてモルスとタブノキはこれっきり顔を合わせることはなかった……。

「意外と簡単にいけたねえ」

 ……ということはなく、通信を介して話をする。もちろん一緒にいたころよりもいくらか複雑で、迂遠な方法を使わなければならないが。けれども手間を惜しまなければ、いくらでもやりようがあるのだ。

「何か、嫌なことはされてない?」

 モルスがビデオチャット越しに訊ねると、タブノキは首を横に振る。その身ぶりの意味は当然知っていたけれど、彼はあんまり信じられない。でも、それ以上口を挟めなかった。いくら心配だといっても、あまりタブノキの事情に首を突っ込むと、逆に相手を軽んじることになってしまう。でも様子が気がかりなのは本当だから、なんだかやきもきした。
 そんな微妙な気配を察したらしい。念押しするようにタブノキはつけ加える。

「本当に大丈夫。ここの人たちはいい人たちだから」

 ついで、そっちこそどうなのかと相手はこちらに問い返してくる。平気だとモルスは答えた。真実だった。いやがらせもされければ、親切にもされていない。針のむしろ、と表現するのとは違うが。でも誰もがモルスを、ちょっとでも触れたら膿が噴き出しかねない腫物みたいに扱った。

「最近ね、旧世界の乗り物にはまってるんだ」

 言葉ととともにウィンドウが開く。同時に戦争以前の時代のバイクや車、飛行機や船などの画像が表示された。フォルムが好きなのだという。機械が機械を愛でるという構図は、なんだか皮肉な気もしたけれど。
 行けるんだったら、自動車学校に行きたいんだけどなあ。タブノキは漏らす。このころは望んだ教育を受けられるのは人間のみで、ロボットや人造生命体は門前払いをされたものだった。あらかじめ設定された機能と決められた用途内で活動できれば充分だろうと。

「じっと見ているとね、なんだか不思議なんだ。どうして、こんなものが人類を滅亡寸前まで追い詰めたんだろうって。滅びるかもしれないところまで、造るのをやめられなかったのだろうって」
「なんなら今でも乗ってる人がいるしね」

 うん、とタブノキが返す。そうしてふと、目を伏せる。瞳に入り込んだ明かりが反射して、陰りの中で一筋の光が走った。そのさまにモルスは息を呑む。まるで本物の人間みたいに見えたのだ。
 そんな彼の様子には気づいていないらしい。タブノキは言う。

「その前に、私たちにはやらなきゃいけないことがある」

 二人はそれぞれの場所で仕事に励む。モルスは無意識に入り込んで修復し、タブノキは訪れた人の話に耳を傾け、ときには誰かの姿や言葉をトレースする。そのうち一気に跳ね上がった自殺者数は、おもしろいくらいに目に見えて減った。たぶんまた二人が仕事を放棄すれば、死者は再び増加に転じるだろう。いつのまにか、そういう仕組みが出来上がってしまっていた。

 多くの研究者や専門家、あるいはそれ以外の人々が、このままではいけないと考えていた。実際、そんな話をこのころの彼はちらほら聞いたものだった。しかし、モルスには――モルスだけではどうにもできない。またそれはタブノキであっても同じことだ。事の起こりはもっと昔から始まっていて、当座限りのことではないからだ。

 そのあいだにも季節は移ろい、時間は過ぎていく。あるとき決定的な変化が起こる。外国におけるバイオノイドの自由意志と権利について争われた裁判で、人造生命体を人間と同等に扱うべきとの判決が下ったのだ。その機運は瞬く間に世界中に広がり、ロボットや人造生命体たちの待遇が改善していく。規定用途以外の職種への転職も出来るし、おのおのの労働に見合った対価ももらえる。また、自由に教育が受けられるようになった。

 同時期にモルスは初めて銀行口座を開く。その月末に、お給料がそこに振り込まれた。レスキュー隊員がもらう月給より、少しだけ多めの金額だ。喜ばしいことには違いない。しかし彼は途方に暮れてしまう。このお金を、何に使っていいのかわからなかったからだ。

 税金や年金保険の支払い分はあらかじめ引かれているし、住居は研究所内にあるから家賃はいらない。ファッションには特に興味はなく、食べ物も人間とは違って毎日摂取する必要性を持たない。使い道がないのだ。そして何より自分が欲するものとは一体どんなものなのか、モルス自身でもわからなかった。
 でも、タブノキは違う。

「もう少しお金が溜まったら、免許をとろうと思うんだ」

 自動車学校のパンフレットをこちらに見せつける。入学はまだ先だが、今は空いた時間に法律や交通規則を少しずつ勉強しているのだという。しかし狙いは自動車ではなく、バイクの免許らしい。燃料代や維持費などを考えれば、そちらの方が身の丈に合っているそうだ。

「車なら一緒に乗れるのに」
「じゃあ、そっちが車の免許取ってくれる?」

 タブノキはそう返すに、モルスはえっと言葉を詰まらせて、つい戸惑ってしまう。こちらに問いかけてくる口調が、なんだか挑んでくるようだったのだ。今まで、こんなことはなかったのに。
 一体、どういうことだろう。口を噤んで考え込んでいると、相手は冗談だと言うのが耳に届く。ついで、何でもない風にこうも言う。

「たとえ独りきりでも、いいことってあるものだよ」

 それから半年後にタブノキは免許を取得する。バイクを購入したのは、さらに一年後のことだ。そうして、ときおり高速道路に走りにでるようになる。週に一度、仕事が終わった後の真夜中に目いっぱいの速度で駆けるのだ。話を聞くと、風を切る感覚がおもしろいらしい。

「機体とか、私とか、囲いみたいなものがどんどん溶けていく感じがするんだ」

 タブノキは走ることにのめり込む。週末の夜ごと高速道路に繰り出して、朝まで帰ってこない。くわえて、こちらが心配になるくらいに速度を出す。しかしいくら周囲が苦言を呈しても、タブノキは馬耳東風だ。大丈夫としか言わない。外出禁止を命じても、勝手に抜け出す始末だ。

「本当に大丈夫?」

 うん、平気――。ざらついた画面の向こう側から、タブノキは返す。どうやら転校で何かのせいで通信環境が悪いらしい。音声も少しくぐもっていた。

「ねえ、いなくならないよね?」
「うん。でも、ここにいなくちゃならないって義理もない」

 そのままいくらかの年月が経つ。タブノキはついに事故を起こす。バイクがカーブを曲がり切れずに、ガードレールに衝突したのだ。上に跨っていたタブノキは、ものの見事に吹っ飛ぶ。高く舞い上がった後、高架下に叩きつけられる。
 悲惨だった。握りしめたらほろほろと崩れてしまう枯れ葉みたいに、タブノキの四肢はばらばらになっていた。目に見えるパーツから、ミリ単位の微細ネジに至るまでほとんどが分解されていたのだ。

 完全に解体したのちにリサイクル。そんな言葉が取りざたされた、しかし出来ない。モルスたちに代わる後継機は目下開発中であり、これが実用化されるあいだまでは替えがきかないからだ。だから今のところは破損した部品を入れ替えて、使い続けるしかない。

 数か月の修復作業を経て、タブノキは再起動する。慣例通り、モルスもその場に立ち会う。ゆっくりと相手の目が開く。しかし、なんだか様子がおかしかった。動作に落ち着きがなく、きょろきょろと周囲を見回している。まるで、いきなり知らない場所に放り出されたみたいに。
 あるとき。空をさまよっていた視線が、ふとモルスに留まる。まっそうしてじっとこちらを見据えたまま、相手はこう問いかけてくる。

「私はタブノキ。あなたは誰?」

 覚醒したタブノキは自分の名前の以外は何も覚えてはいなかった。モルスのことはおろか、自分自身が機械であるという事実でさえも。そして、はなから己を人間だと信じ切っている。今までと違うのは、タブノキの中できちんと物事の整合性があることだ。
 くわえて、それらしい経歴まで持っている。二十数年前に海沿いの街に生まれ、潮騒や浜辺を友達として育つ。小学校まではその町で暮らしていたが、親の仕事の関係で都心に転居。大学で心理学を研究する。大学卒業と同時期に、両親が事故で亡くなってしまう。それに伴う様々な手続きと並行して就職活動に励み、見事、研究所に籍を置くことになった。そして週末の余暇の中で事故に遭う――。このような内容の経歴を。

 研究員たちの分析によれば、これらの記憶は複数の人間からサンプリングされ、編纂されたものだという。すなわち今まで接してきた誰かから取得した個人情報を都合のいいように採用し、他者に聴かせても不自然ではないように切り貼りして使っているのだ。そして、この傾向は幾度かリセットをしても変わりはしなかった。

 事故当初と同じようにすべてのデータを削除したうえで、タブノキをリサイクルに出すことが検討された。だが、そのために必要な同意が取れない。タブノキ本人が、自分は機械だと認識していないからだ。かといって強引に事を進めれば法律に抵触するし、また真実を告げてアイデンティティを破壊させるのも倫理的な問題がつきまとう。

 議論の末にタブノキはもとの研究所(モルスがいるところだ)に戻され、『人間』のカウンセラーとして働かせることに決まる。
 異変が起こったとはいえ仕事ぶりは以前と変わりはしない。訪れる人々の話に耳を傾けて、ときおり相槌を打つ。また、投影の機能も適切な場面で使用された。どうやら機能を作動させるための判断は無意識で行われているらしく、何が起きているのかを本人はまったく気づいてはいないようだ。ただ依頼人もすっきりとした様子だから、自分は良い仕事をしたとだけ思っている。

 そうして一定の時刻が来れば、スリープモードに移行されるか電源が落とされる。それらの挙動はタブノキの内部では一度家に帰って、また出勤したと処理された。本当に、どこまでも都合が良かった。

 このような相手の仕事ぶりや暮らしぶりを、モルスはつぶさに目にしている。でも顔を合わせたり、話しかけたりはしない。お互いの接触が禁止されていたからだ。それが彼に与えられた罰でもあったけれど、下手に干渉すればどんな事象が発生するのか判然としないのも、理由として大きかった。だから、ただ遠くから様子を見ているしかない。

 手を伸ばせるのに、触れられない。そんなもどかしさと同時に、己の空虚さを彼は思い知らされる。タブノキと一緒にいる以外の楽しみについて、モルスはほとんど何も知らなかったのだ。タブノキが走ることにのめり込んだのが、今では何となくわかった気がした。

 僕もタブノキから離れて、別のことをすべきなのだろうか。でも、何を――? 彼にはわからない。しっかりと胸を張って好きだと力強く言える何かを持つ自分を、今まで想像さえしなかったのだ。

 そこで彼は普段なら手を出さない映画を観たり、音楽を聴いたりする。今まで遠ざかっていた休憩所に足を向け、自販機で軽食や飲み物を買ってみもした。山登りやサーフィンみたいな大仰なことは行えないけれど、これくらいならモルスでも出来た。

 そのうち買い食いから発展して、彼は己の手で食材を調理し始めた。そして料理というのはけっこうおもしろい。調味料の過不足や、材料の焼き加減の次第で結果がまるきり変わってしまうのだ。てんでばらばらの材料が、別の物質に変化するのも彼の興味を惹いた。タブノキほどではなかったが。

「なんだか楽しそうだね」

 タブノキが話しかけてきたのは、そんなある日の……昼休みのことだった。休憩所でぼんやりしていたところを、急に話しかけられたのだ。突然の出来事にモルスは戸惑う。下手なことを言って、今の微妙な均衡が崩れたら? 相手が再起不能になりでもしたら? 一体、僕はどうすればいいのだろう。

「うん。楽しいよ、毎日」

 少し考えてからモルスは答える。ついで、こうも相手に問いかけてもみる。君は――?

「どうだろう。でも、楽しそうな人を見るのはとても好きだ」
「自分も楽しい気分になれるから?」
「とは、少し違うかな。なんというか、良かったねっていう気分なんだ。こんなことを言っては偉そうだけど。それに……」
 初めて会ったときに、とても悲しそうな顔をしてたから。なんだか嬉しかったんだ――。こんなことを言うタブノキが、モルスはやはり一番大好きだった。だから、他の人間やバイオノイドの目を盗んで一緒にいるようになった。

 二人の仕事は毎日続き、タブノキはときおりリセットを繰り返しながら時が流れる。このところモルスは動作が遅くなった。チューニングをしても起動まで時間がかかるし、数秒ほど応答が遅れるのもしばしばだ。現行のOSと機体の規格が合わなくなったせいだ。口さがなく言ってしまうと時代遅れ、人間じみた表現を使うなら『老いさらばえた』のだ。
 同じことはタブノキにも当てはまる。仕事中にときおりフリーズしたり、急に再起動したりするのだ。(本人の中では居眠りとして処理されていた)これにくわえて、さらにいくつかハンデを背負っているのだから、求められるべき対応は喫緊の問題といえた。しかし、途はある。

 彼らが己の職務をこなすあいだにも、後継機の開発製造は着々と進み、この時点で実用段階に入っていた。最新のOSを搭載した、最先端の技術を以て製造されたバイオノイドだ。

 また先行機の二人から、いくらか機能が変更されている。モルスの修復やタブノキの傾聴する機能はそのままに、保管枠の拡大や人物をトレースする機能が削除されていた。今回の機械は《祈られること》からの人類の自立をアーキーテクスチャとして造られたためだ。二人が人類に対する庇護者や保護者とするなら、こちらは善き助言者というわけだ。

 モルスはこの後継機と会ったことがある。業務の引き継ぎについて話をすることがあったのだ。

 そのとき相手は過度の緊張で強張った、固い顔つきをしていた。けれど、肩にまとった雰囲気に不思議と安定感があった。ずっと己の身の回りのことを、自分の眼と手で選んできた――そんな自信が伝わってくるのだ。そして、受け答えする態度がとても素直で気持ち良い。返ってくる言葉のすべてに、爽やかな響きがある。どんなに打ちのめされても、自分は立ち上がれるというみたいに。

 これなら後を任せても大丈夫だと彼は思う。最新型だから性能が良いのはあたりまえなのだけれど、引き継ぎについて踏ん切りがつくかどうかは別だったのだ。しかし一つ懸念がある。タブノキが依然として自分を人間だと思い込んでいることだ。

 そこでタブノキには研究員としての仕事が与えられた。これから人間社会で生活するモルスの監督役。それがタブノキの最後の仕事だ。機種の交代とともに罰は終わったのだ。
 タブノキをリセットして、傾聴や投影の機能を停止。再起動させたのちに、施設所属の研究員として現行の所長から話をしてもらう。そして上司の命令にタブノキは従った。このような経緯で、二人は一緒に暮らし始めた。

            §

 共同生活を始めて一年足らずのうちに、たくさんのことがあった。一緒に散歩にしたし、旅行もした。アルバイトをした。凍結したロボットが解凍され、同居人に加わった。タブノキに友達が出来た。道を転がってきた大量のアボカドに家を壊された。自分たちで料理や飲み物を作って食べたり、飲んだりした。新しい友人を家に招待してパーティーをしようとした――。

 ンミミ……。ベッドの上に座り込んだギザブローが、小さく発生してうなだれる。そのすぐ傍にはタブノキがいて、今は静かに横たわっている。彼は長いあいだ、相手の枕元から離れなかった。たぶん、このあともなかなか去ろうとはしないだろう。

「まるで魔法が解けたみたいに彼の姿が消えて、そうしたら目の前にタブノキさんが倒れていたんです」

 解放祭の日。荻原メイを駅まで迎えに行くといって、出かけたままタブノキは帰ってこなかった。駅前で倒れたと研究所連絡があったのは、モルスたちが最後に姿を見てから二時間近く経ってからのことだ。テレポートで研究所に駆けつけると、タブノキは集中治療室に寝かされていて、その傍に荻原メイが寄り添っていた。

 研究員たちが提出した分析結果によれば、最後のリセットのときに停止させたはずの投影機能が悪さをしたのだという。何らかの――たとえば振動や衝撃などの――理由で投影機能が知らないうちにバックグラウンドで起動し、表層意識と矛盾を起こして大きな矛盾に追い込んだ。タブノキ個人の実存が危うくなるほどの矛盾に。……以上が彼らの仮説だった。

「私、なんにも知らなかった」
 自分のことばかりで。そう荻原メイが口にする。
「本人も知らなかったんです。一度こうだとわかった途端に、どうにかなってしまうから」

 どうにか。ボールを打ち返すみたいに、荻原メイは同じ言葉を繰り返す。どうにか、とモルスも送り返した。ついで、彼はこう続ける。

「自分が何者で、何という名前だったのか。どのような言語を使っていて、どこの誰と、どんな風に話していたのか。そもそも自分が伝えたいことは、その相手とはいったい何で誰なのか。そんなことがまるきり理解できなくなるんです。記憶や認識の繋がりがばらばらになって、そして自己が崩壊する。波に巻き込まれる浜辺のお城みたいに」
『ンミ』《ねえ》

 ばらばらのものが繋がれれば、目が覚めるんだよね? そうギザブローが横から訊ねてきた。けれど口を閉ざしたまま、彼は目を伏せる。そうだとも、違うとも答えられない。話を分かりやすくするための比喩表現だったし、そもそも具体的にどうなるとは見通せなかった。

 もちろんリセットを行えばここ一年の記憶が無くなりこそすれ、挙動は元に戻るだろう。少なくともこれまではそうだった。しかし今度の場合はわからない。そもそも機種の交代が行われたのは、モルスとタブノキの機体が自らの機能の行使――あるいは負荷に耐えられないからだ。
 もしかしたら期待通りに事が進むかもしれないが、そうでない結果になる可能性も充分にある。そして考えられるなかで最もネガティブな結末を、まだ自我が幼い相手に口にするのが彼には憚られた。

 深い沈黙が室内に広がった。まるで重荷に身体が支配されたような静かさだ。あまりにも重苦しくて、溜息や呻き声すら出せないというみたいな。その、さなかのこと。

《僕、ちょっと行ってくる》

 ギザブローちゃん? と、荻原メイが呟く。そうしてモルスが顔を上げると、彼の姿は室内のどこにもいない。

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