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執狼記 1‐2

 事の発端は1年ほど前までさかのぼります。12月下旬の、降誕祭を間近にした日のことでした。私と若君は猟銃を背負い、雪の積もった森の中に入りました。牧場から脱走した子羊がどうも森に迷い込んだらしいと聞いたので、捜索しに来たのです。この時期は狩猟のシーズンではありませんし、遭難や獣との遭遇などの危険はありましたけれど、森林にまつわる事柄は森番の領域なので致し方ありませんでした。(本当なら私の師匠である祖父も同行するのですが、彼はYもいると知ると髭が重いと言って引っ込んでしまいました)

 若君も領地の管理者として、羊探しに同行しました。もちろん森の中は落命の可能性に満ちていますし、領民や使用人はたくさんいるのだから別に彼自身が出張る必要性はまるでありません。多分あまり自分の屋敷にはいたくない気分だったのでしょう。屋敷の使用人たちが息を潜めて主人の様子をうかがっているのを、Yがときどき煩わしいと言うことがあったのを覚えています。
 そういうとき彼はもっともらしい理由をつけては、人の目から離れました。もちろん立場上完全に1人になれるわけではありませんので、それでも今よりかはましという程度でしたが。そしてYにとってこの案件は、うってつけの息抜きの材料だったわけです。

 12月の森の中は昼間でも薄暗く、どこか陰鬱というかじっとりと重たい雰囲気でした。白樺の影の下に降り積もった雪と、長靴の下でもつま先が底冷えしていくような空気が、陰々とした湿っぽい感じへさらに拍車をかけていました。そんな道を私たちは雪を踏みつけながら奥へ、奥へと進んでいきます。そして、ある瞬間、溢れるような光とともに一気に視界が開けました。

 鋏でばっさりと断ち切ったように森が途切れて、私たちの眼前にはぽっかりと野原が広がっていました。きっと春から夏にかけてはさえざえとした若草に、数多の花々が彩るのでしょう。ですが、今はそんな華やかな面影などみじんもありません。ただ野原一面に敷きつめられた汚れのない雪に、まっすぐに降り注ぐ日差しが反射して、頭痛を覚えるくらいの眩さに満ちていました。

 その広い空間を挟んだ、向こう側。影絵のようになった森林を背景にして、2つの影が動いています。1つは黄色味がかった白色をしていて、しきりに跳ねたり転がったりを繰り返し、もう一方の黒いものは白いの後を執拗について回っていました。

 赫々たる雪の白さと遠距離のために、それらが何であるのかを私はなかなか理解出来ないでいました。しかし、その片方だけは比較的すぐに正体がわかりました。羊です。羊が悲鳴らしい哀れな鳴き声を上げなら、何かから逃れていました。

 鹿か? 熊か? もう一方の正体を見極めようと、私はじっと目を凝らしました。しかし対象物が動き回るたびに、雪が粉のように舞って、やはり正体を捉えることができません。

 そんなある瞬間に私の傍らにいる若君がほう、と溜め息を吐きました。つられて隣を見やると、彼はいつのまにかコートの懐から双眼鏡を取り出していました。芝居を見る時に使う、小さな双眼鏡です。
 やや間をおいてから彼は私の視線に気づき、双眼鏡から目を離し、見てみろとこちらに突き出してきます。そうしてレンズを覗いてみると、羊を追い回している黒い動物の正体がすぐにわかりました。

 狼でした。狼が獲物の羊に飛び掛かっているのです。

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ヘッダー:Marek Szturc @unsplash

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