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HND-001

今までの話

 よくわからない空間……たぶんストレージのなかで、私はすっかり小さくなったようだった。記憶とか主義主張とか一貫性とか、過去とか現在とか、そんなものが爆破された鏡みたいに細かく砕けている。具体的な形は失われ、この場にあるのはもはや粉々になった破片だけだった。しかし核のようなものだけはどうにか残ったらしい。タブノキという名前が。
 空間に漂う残片を前にして、私――《タブノキ》はどうしようかと思考している。なにせ私自身だったはずの残骸は、星くらいに膨大の量があったのだ。片づけるにしても、繋げるにしても相当なコストが必要だった。
 《タブノキ》(わたし)は《タブノキ》(わたし)だった欠片の一つを覗き込む。お祭りか何かだろうか。どこか広い場所に人間がたくさんいて、でも、誰もが夏のかげろうみたいに姿かたちがぼやけていた。けれど一人だけ、顔がくっきりと判別できる人物がいる。
 どうやら季節は冬であるらしく、その人物はコートやらマフラーやらを纏っていた。入念に着込んでいるせいで、着ぶくれしたボールじみた外見となっている。防寒具で隠れてしまって顔は見えないが、帽子とマフラーの合間から眼元だけがはっきりと見えた。その形をみるに、きっと女の子だと思う。具体的な根拠は何もなかったが。そして顔を欠片の表面に近づけると、チョコレートとコーヒーの匂いがした。
 《タブノキ》(わたし)は欠片を手に取る。棄てるにしても、何をするにしても、これらのすべてをとりあえず集めなければならない。
 次の破片を覗くと一面が緑色に覆われていた。そして、緑は大集合した虫みたいにもぞもぞと蠢いている。何だろうと目をこらすと、正体がわかる。山積みになったアボカドだ。一面を覆い尽くした果物が、はためくシーツのごとく波打っている。
 それを見て《タブノキ》(わたし)は嫌な気持ちになった。まるで必要以上にボルトを絞めつけられるのに似た不愉快さだ。具体的な理由は思い浮かばないけれど。ただ、長いあいだ見るべきものではないのはわかる。これは拾わずに、次に行く。
 今度は冷たくて、ちょっと湿った破片だ。ソラマメに似た形をしている。ざらついた手触りがして、耳を寄せると波が砕ける音がした。きっと海だ。さっきのよりはいい印象がしたので、これはとっておく。
 他にもバラの香りのするものや鳩の鳴き声がするもの、切り取ったパイやケーキみたいな形をしたものなど、たくさんの欠片があった。そんなものを集め回るうちに、両腕がいっぱいになってしまう。まだまだたくさん残っているのに。
 どうしよう。立ちすくんでいると遠くの方で、何かが聞こえた。聴覚を強化させると正体がわかる。
 うぎゃ――っ! そんな叫び声だ。どうやら声の主はだんだんとこちらに接近しつつあるらしく、悲鳴はエコーを響かせながら大きくなっていく。
 人の形をした影が見える。ミサイルの如く飛翔するそれは、まもなく《タブノキ》(わたし)の脇腹を直撃。かき集めた破片は粉砂糖みたくあたりに散らばり、二人は絡み合いながら空間の中を転がっていく。
 ビブラートをきかせた悲鳴とともに、回転は長いあいだ続いた。しかし何事にも限界や、きりがある。回る速度は徐々に減速していき、運きはやがて止まった。
 しばあらくのあいだ、二体とも呆然とその場に倒れ伏していた。呻き声が自然と漏れ出てしまう。調子っぱずれで、自分でも何だか酔っぱらいみたいだと思う声が。依然として機体が回り続けている気がしたせいだ。まもなく自動修正機能が働きはじめ、やがて平衡感覚が元に戻る。
 起き上がったついでに、《タブノキ》(わたし)はまだ伸びている闖入者の姿をまじまじと見る。苦しい様子なのは、どうやら相手も同じようだった。二つの眼が渦を巻いている。
 何となく、相手がロボットであるのは理解できた。デフォルメ化された身体のデザインには丸みを多用して、可愛らしい印象を演出していた。大きく広げられた両手も丸い。背丈は自分と同じくらいだろう。
 こちらよりやや遅れたけれど、どうやらあちらも自動修正が働いたようだ。渦を描いていた両眼がぱっちりと開く。ついで駒のように起き上がり、あたりをきょろきょろと眺め回す。そうして頭を右へ左へと視線をさまよわせていた、ある瞬間。おたがいに目が合う。
 タブノキ――!ロボットが、突如としてそう叫ぶ。ついで豆のように跳ね上がり、こちらへ向かって飛ぶ。両手をこちらに伸ばしている。でも叶わない。《タブノキ》(わたしが)横に避けたせいで次の刹那には、ロボットの顔面はべちりと下にぶつかる。
 途端、静けさが彼らのあいだを支配した。コインをクレバスに落としたような深い静けさだ。ややあって相手は泣き出す。まるで産まれたばかりの人間の幼生みたいに長く、激しく。

「ごめんね」
「いいよ」

 ひとしきり泣き終わった後。《タブノキ》(わたし)が謝罪すると、ロボットは再びのっそりと起き上がる。そして、あらためてこちらと向かい合う。
 ロボットの名前はギザブローという。どうやら《タブノキ》(わたし)と顔見知りであるようだ。

「僕のことわかる?」

 そう言われて《タブノキ》(わたし)は、ギザブローの顔をまじまじと眺める。そうしているうちに確かに、どこかで彼と会っているような気がしてきた。でも、それがいつ、どこでなのかはちっとも思い出せなかった。
 もうしわけないけど、わからない。そのようにタブノキが答えると、彼はわずかに肩を落とす。デフォルメされた目が垂れ下がり、眉毛がぎゅっと中央に寄る。相対している方も、もの悲しくなる表情だ。
 しかし深刻そうなそぶりは、わずかなあいだだけのことだ。次の瞬間にはアニメーションがぱっと切り替わり、顔つきが明るいものへと変わる。そして言う。

「ここにある欠片を全部集めてくっつければ、僕やそれ以外のこともわかるようになるし身体だって元に戻るよ」

 そうなんだ。《タブノキ》(わたし)は返す。そうだよ、とギザブローは答える。さも自明で当然であるみたいに、力強く。ついで、彼はさらにこんなことを言う。そしたら一緒に帰ろう! みんな待ってるよ。

「帰る? 帰るってどこへ?」
「どこって外の世界だよ」
「ねえ、外の世界ってそんなに良いものなの?」

 何かあったから、こうなってるんじゃないの? そのようにタブノキが問いかけると、ギザブローはうっと言葉を詰まらせる。何か、心当たりがあるらしい。
 あのね、と相手が口火を切る。おずおずとした調子だった。彼は躊躇いがちに、ときおり声を上ずらせながら語り出す。

「君の記憶がばらばらになったのは、僕のせいかもしれないんだ」

 かつて外の世界においての私は、大量のアボカドに呑み込まれたことがあったのだという。ベルトコンベアーに乗せられた部品の如くさらわれた私を助け出したのがギザブローで、そのときに地面に全身を叩きつける形になったのだそうだ。そして、それが今の状態に至る原因になったのかもしれないと。
 このようにギザブローが語るさなか。彼の眦から涙がほろほろと零れる。珠のような雫が落ちては消えていく。もちろんこれがAIの判定と物理演算で構成された、ただのアニメーションに過ぎないのを、《タブノキ》(わたし)は知っていた。しかし、どうしても手を伸ばさずにはいられない。
 彼の肌はむっちりとして、柔らかかった。そしてほのかに暖かい。流れ出る涙は熱を帯びている。そんなものに触れながら《タブノキ》(わたし)は言う。

「君の顔を見たとき、不愉快な印象はしなかった。きっと粉々になる前の私は、怒っていなかったと思う。今の私もそうだ」
「うん。タブノキもそう言ってた。でも、僕が僕を許せないの」

 だから、どうしても連れて帰らなきゃいけなんだ。そう言い締めるころ、彼は泣き止みつつあった。でも、まだ瞳は潤んでいる。ときおり目の端から溢れた涙が膨らんでは、珠となってつうっと頬を伝っていく。そのさまを見ていると何だか変な――というか、いたたまれない感じがした。

「けど一緒に帰りたいのは、それだけじゃないんだ。僕は外の世界で、君と暮らしていて楽しかった。きっと楽しく感じるように、気を配ってくれていたんだと思う。そういう人がこんな風になっているのは、僕は納得できない」
「そう」《タブノキ》(わたし)は答える。そして、こうもつけくわえた。
「でも、確信が持てないんだ。外の世界が素晴らしいものか」

 とりあえず二人は自分の欠片を集めることにした。どうするかはその後に決めればいい。そういう方針になった。
 ギザブローは三体に分裂する。本来はもっと増殖できるらしいのだが、社会生活を送るために制限が掛けられているという。
 欠片の回収を進めながら、《タブノキ》(わたし)はギザブローと話をする。外の世界では彼と私、そしてモルスというバイオノイドと三人で暮らしていたこと。荻原メイ――《タブノキ》(わたし)の友達からチケットをもらって、みんなで映画館に行ったこと。梅シロップでソーダを作ってもらったこと。すべて真実であるようだが、あんまり実感が持てない。
 星の数ほどの破片があって、それと同じくらいにたくさんのものが映っている。ザルに山盛りになった青い梅やどこかへ流れていく水の音、何も映っていない大きな銀幕。たくさんいるギザブロー。そんなものが。
 このなかから、ふとチョコレートの香りがする破片を手に取る。もしやと思い、そこに浮かんだ人影について彼に確認を取ると、やはりこのもっこりと着膨れした人物が荻原メイであるらしい。
 君の友達だよ。そんなことを言われても、《タブノキ》(わたし)は困ってしまう。本当にわからないのだ。答えあぐねた挙句、取り繕うようにもう一つ、手近にあった八重咲の花に似た破片を回収した。すると、こちらにも誰かが映っている。
 美術館に置いてある彫像を思わせる、バランスの取れた顔つきをした誰かだった。たぶん、この人がモルスだろう。実際、ギザブローに訊ねてみるとそうだった。

「思い出せそう?」

 その言葉に反応したのか。分裂したギザブローが仕事をする手を休めて、《タブノキ》(わたし)のところに集まってきて周りを囲む。こちらに向けられた、それぞれの眼差しには期待が含まれている。それがタブノキにはとても心苦しい。
 そんな《タブノキ》(わたし)の何とも言えない心持を察したようだ。好きなだけ破片を見ているといいと、本体のギザブローは静かに述べる。そして傍を離れる。他の二体も再び散りぢりになる。そうして回収に取り掛かるさなか。《タブノキ》(わたし)はもう一度、手の中の破片に視線を落とし、浮かび上がる二人の顔をじっと眺める。
 もどかしい、とでも表現したらよいのだろうか。じっと自分の欠片を眺めていると、まるで部品の合間に埃が入り込んだみたいに機体がむずむずする。その原因が記憶を取り戻せないからなのか、あるいは失う以前にあった出来事のせいなのかは、判然としなかったけれど。
 落ち着いたところでじっくり考えたら、何か思い出せるかもしれない。受け取った破片を懐に隠して、《タブノキ》(わたし)はギザブローたちから距離をとる。忍び足の、ゆったりとした歩調で。確実に遠くに離れていく。けれども三体とも自分の仕事にかかりきりで、《タブノキ》(わたし)がどんどん遠ざかっていくのに気づかない。暗い空間をひたすら歩き続けていると、やがて彼らの姿は見えなくなる。
 あたりは雪が降る前みたいに、しんと静まり返っていた。そこでふっと息を吐く。その吐息がどこかに吸い込まれるようにして消える。そんな静けさだった。このような静けさに満ちた空間のなかで、《タブノキ》(わたし)は独りきりで座り込んで、つらつらと思い巡らせる。
 外の世界が良いものか、どうか。ギザブローは語らなかった。しかし、何の前触れもなく転がってきたアボカドに呑み込まれる世界だ。それなりに過酷であるのには違いない。たとえ馥郁と匂い立つ花々や波をうねらせながら輝く美しい海、あるいは美味しいお菓子があるにせよ。その事実が《タブノキ》(わたし)にとって、ひどく気がかりだった。ひらたく言えば恐ろしかった。
 もちろんむやみに怖がる理由はない。外で起こっただろう出来事を、今は何も覚えていないのだ。けれども外に出ていくのに、何となく抵抗がある。断崖絶壁の際に立たされたみたいに強い抵抗が。
 実体のないものに慄くことほど、ばかばかしいことはない。そう考えているのに一度湧き起こった寒々しい感覚は、張りついたようにいつまでも纏いついて離れないでいる。これは、一体何なのだろう? そんな疑問が浮かんだ瞬間。
 ずきり、とした痛みが全身を走る。ハイプに機体を刺し貫かれたような激しい痛みだ。はわっと声を上げ、勢いよくはねあがる。しかし驚きは束の間のことでしかない。着地した次の瞬間には、痛覚は嘘みたいに消えていた。
 何だ、何だ――。《タブノキ》(わたし)は即座に全身をスキャン。刺激が起こった位置を探る。すると、二つの破片をしまった場所と一致する。
 もう一度、懐から取り出してみた。どうだろう。破片に像を結んだ人影が動いている。こちらを眼差す両目が瞬きをしたり、唇がぱくぱくと閉じたり開いたりしている。
 その現象を認めた刹那、破片は手のひらから、するりと滑り落ちた。……違う。落としたのだ。自分で。それは脊髄反射じみた、衝動的な動作だった。また同時にいくつもの感情が内包された動きでもあった。でも動揺はすぐに過ぎ去って、慌てて拾い上げる。
 破片は思ったより丈夫だったらしい。叩きつけられても、そのままの姿を留めている。滑らかな表面を撫でながら、よかったと《タブノキ》(わたし)は安堵する。よかった?
 どうしてそう思ったのだろうと首を傾げた、その時だ。おーい。遠くから自分に呼びかける声が聞こえてくる。ギザブローだ。

「どこに行っちゃったんだ?」

 とたとた歩いてくる相手から、《タブノキ》(わたし)は距離を取る。忍び足で、慎重に。後ろ暗いところは何もなかった。けれど、今は誰とも話したくはない。そうして隠密な足取りで進み続けるうちに、ぴいんと機体が硬直する。まもなく、あの刺激が全身を襲う。
 ぐらりと視界が揺らぎ、体が大きく傾く。再び発生した痛みは、さっきとは比べ物にならないくらいに激烈なものだった。きつく拘束されたみたいに、まるで身動きが取れない。声も出ない。
 身悶えすらろくに出来ないまま、痛みだけがどんどん強くなる。《タブノキ》(わたし)は接地面に張りついて、ひたすら耐える。そんな、さなかのことだった。
 タブノキ。そう、誰かが自分の名を呼ぶ。今まで耳にしたことのない声だった。

     *

「タブノキを見つけたよ。僕みたいに小さくなってたけど、ちゃんとタブノキだった。でもなんだか怖がってるみたいなんだ。僕やみんなのことやいろんなものを。ねえ、どうすればいい?」

 ギザブローがひたひたと、こちらに駆け寄ってくる。正確に言うならば彼の姿をした何者かが、だ。幾度となく私の名前を呼ぶ声音が、さっきまでとまったく異なっているのが激痛の中でもわかる。まもなく相手の両手が《タブノキ》(わたし)の機体に触れた。そのまま何者かは丸っこい手のひらで、背部や頭部をさする。そして大丈夫、大丈夫と言う。

 それで痛みが治まりはしない。けれども誰かの手のひらから、こちらの身体に沁み込んでいくものがある。たとえるなら焼きたてのトーストに乗せられたバターを思わせるような感覚だ。そして相手からもたらされたものは、それと同じように好ましかった。
 タブノキ、とギザブローではない相手はまたもや呼びかけてくる。優し気な手つきと連動するような穏やかな調子で。しかしこっちは獣じみた唸り声でしか応えられないし、また応えるべき事柄も一つとして考えつかなかった。けれども、やりきれない気持ちがあるのも本当だった。おそらく、《タブノキ》(わたし)がこの人のことを嫌いではないのも。
 《タブノキ》(わたし)の身体を撫でながら、おもむろに相手は言う。私が何に苦しんでいるのを知っている、と。

「わかるよ、僕もそうだったから」

 《タブノキ》(わたし)は答えなかった。いや、答えられなかったと表現した方が正確だろう。あまりにも痛くて、それどころではないのだ。名前もわからない誰かの言葉は、ちゃんと聞こえていたけれど。

「でも、どうかこっちに帰ってきてほしい」

 《タブノキ》(わたし)は答えない。今度は自分の意志だ。

「どうしてもって言うのなら、僕が連れて帰る」

 その言葉に《タブノキ》(わたし)は眼を開く。ついで洗われた犬の如く身をうねらせて、手を振り払う。そうして腹ばいで相手から逃げようとする。だが、無駄だった。まるで動けない。腕を動かすだけで力尽きてしまったのだ。くわえて、誰かが上から覆いかぶさったせいもある。《タブノキ》(わたし)の背中にしがみついたまま、相手は口火を切った。

「僕にはしたいことや、行きたい場所がたくさんあるんだ。これは僕自身のエゴだけど、そこには君がいてほしい。僕の機能が停止するまで」
「どうして? どうして、いつも私じゃなきゃいけないの?」
 部品が――もともとが同じだから? そのように相手の身体の下から、《タブノキ》(わたし)は問いかける。すると好きだから、と頭上の相手は返す。
「君が好きだからいっしょにいたい、君がここにいなきゃ嫌だ」
「自分の都合ばかりじゃないか」
「そうだね」
「私が泣いたり、苦しんだりするのがそんなに好き?」
「そうなのかもしれない」
「取り繕いもしないんだ」

 出ていって。その言葉を口にした、刹那。タブノキの身体にのしかかっていた重みが消え、名前もわからない誰かはプロテクトで弾かれて横へ飛んでいく。他のギザブローもいない。作動させたウイルスソフトが彼らを弾き出したのだ。みんなを追い払ってしまえば、今度こそ正真正銘に独りぼっちになった。あとはずっと痛いだけになる。

 怒っちゃったかな。激痛に悶えているさなか、そんな考えが頭の片隅に浮かぶ。一方では清々したような感じもして、なかなか決まりをつけられない。このどちらもが本音に違いないのが、なおさら性質が悪かった。
 自分だけの場所で独りきりになってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。そのあいだに井戸の底から湧いたみたいな低い呻き声が、徐々にひきつったような甲高いものへと変わっていた。依然として続く痛みのなかに、新しく加わったものがあったのだ。

 両眼の端から暖かい液体が零れ落ちた。膨らみ切って珠になった雫は筋を作って下へ、下へ流れていく。そうして身体から離れた涙は、どこともわからない場所へ消える。
 ひたすら泣き続けていると、ふと視界の端――上の方に何かが白く光った。きらやかな銀色の粒子を纏うそれは、まっすぐこちらまで落ちてくる。まもなく、ぽんという通知音とともに正体がわかる。メイルだ。メイルが届いた。

 件名は書かれてはいない。しかし表示されたアイコンからデータファイルが添付されているのは理解できた。とても怪しいので、定石に従ってすぐに削除。メイルは目の前から消えた……はずだった。
 次の瞬間、メイルを新しく受信する。今度は二通だ。これも同じように削除。すぐに三通目が届く。もう一度同じ操作すると通知音が鳴り、三度メイルを受け取る。そして四通目が増えている。幾度となく削除を繰り返すたびに、メイルはどんどん増えていく。

「かかったな! 愚か者め!」

 不意に新しいウィンドウが開き、カメラに寄りすぎたらしい顔がアップで表示される。デフォルメ化された眉、服のボタンみたいにつぶらな黒い瞳。そんな造作に見覚えがある。ギザブローだ。
 彼の背後から複数人の、誰かが何かを言っている。マイク部分のボイスキャンセラーが作動しているのか、音声がくぐもっていて内容は聞き取りにくい。けれども、彼らがどんなことを言っているのかはなんとなくわかる。“やめなさい”とか、“デリートがどうの”とかそういう言葉だ。

「このメイルが届いたからには、もう逃げられないぞ! おとなしくこっちにくるんだ」

 そう相手が話すあいだにも通知音は、サイレンじみて絶え間なく鳴り響いている。もはや何もせずともメイルは開き直ったかのように増殖を続けていたのだ。
 また同時に添付されたファイルも、続々と自動的に開いていく。その中身はすべてギザブローだ。ファイルが展開した刹那に次々にこちらに飛び出し、鬨を作ってこちらになだれ込んでくる。

 鬨の声はやがて大合唱となり空間を震わせ、みちみちに満たす。もちろん、これはお行儀のよい挙動ではない。このままOSの領域になだれ込めば、この機体は容易に制圧されるだろう。でも、どうしてだかウイルスソフトが上手く働かない。まるで複数のプログラムが同時に作動しているみたいに。だから相手の数は増す一方だ。
 そうして集結した彼らは、おのおの好き勝手し始める。人海戦術でかき集めた破片をいじくり回し、適切な、それらしい形に繋げていく。それも《タブノキ》(わたし)自身すらも知りえなかった形に。

 また《タブノキ》(わたし)の周りを、数多のギザブローたちが取り囲む。まもなく、たくさんの手がこちらに差し伸べられる。そうしていっせいに《タブノキ》(わたし)を抱え上げた。

 降ろして、降ろして。《タブノキ》(わたし)は足をばたつかせるが、下にいるみんなは意に介さない。ンミ、ンミと声を掛け合いながらどんどん先へ、先へと進む。
 歩を重ねるにつれて、あたりが段階的に明るさを増していく。空間を覆う色彩の暗さがやわらいで、だんだんと白んでいく。まだ薄暗いけれど、いずれはすべてが白日の下に晒されるのは容易に想像がつく。そんな印象だ。それに比例して《タブノキ》(わたし)の戸惑いや焦りも、ますます強くなっていった。

「止まって! そっちには行きたくない!」
「やだ!」
 どうしても連れて帰ると、ギザブローのどれかが叫ぶ。ついで、こうも言う。
「一緒に暮らそうって言ったくせに、自分だけいなくなるなんて無責任だ!」

 その鋭い声を受けた瞬間。何かが、タブノキの中でつながった。

§

 私はHND-001タブノキ。先行機RND-C01モルスの補助装置として開発・製造された。外的な環境によって毀損され、あるいは自ら毀損した人類の共通無意識の修復――その手伝いをするのが私の仕事だ。
 人類の無意識領域に直接介入して作業をするモルスとは違い、私が使うのは少し迂遠な方法になる。現実世界で病理に支配された人間たちと相対して、彼ら彼女らの話を聴くこと。それも一人ではとても抱えきれないような死臭に満ちた、陰惨な話を。そうして耳はおろか視床下部すらも腐らせるような血なまぐさい記憶を、ほんの少しだけ肩代わりして人間たちの修復を促す。これが私に与えられた役目だった。

 また必要があれば、さらに一歩踏み込んだことを行う。その人が会いたい、言葉を交わしたいと望む……あるいはその義務がある誰かの物まねをするのだ。

 もちろん物まねだから、けして本物ではない。けれども相手がそう思い込めるように、機能が設計されていた。特殊な電波で脳内の信号を操作して、五感を騙すのだ。そしてあらかじめ提出された情報や会話などで得たデータをもとに、その相手らしい演技をする。
 この物まね機能は十分すぎるほどに高性能だったようで、これを使用するとたいていの場合、相手はひどく取り乱した。そうして泣き喚いたり、こちらに向かって額づいたりする。あるいは首を引っ掻いたり、こちらに飛び掛かってきたりもした。
 しかし仕事をしているうちに、憑き物が落ちたようにみんながみんな穏やかになる。私が誰かの物まねをすると、本当に楽になるらしい。そうして多くの人たちが感謝の言葉を述べた。

 不思議だった。ようやく会えた相手が本物ではないのを彼らも承知しているはずなのに――また騙されているのを知っているはずなのに、とても満足しているのだ。そんな構造の中でありがとうと言われると、私はいつも据わりの悪い気持ちになったものだった。何より一番不可解だったのは、のっぴきならない状況を自ら招いた事実について、当の人間たちが無自覚であることだった。

 私が仕事で出会った人々の多くが、自分たちが引き起こした物事の過程や結果を上手く受容してはいなかった。災害も戦争も殺戮も、誰も彼もがまるで予想もしない場所とタイミングで、思いがけない災難にあったという風に過去の出来事を捉えていたのだ。大量生産と大量消費による環境破壊も、殺人装置の製造もすべて人間の仕業であるはずなのに。
 しかし、認知の仕方がいちがいに悪いとは言えない。ある状況下では記憶や認識を歪めなければ、とうてい生き延びることが出来ない。そのことを私はあらかじめインストールされた識で理解していた。また人間たちが生き抜いてきた時代が、多くの困難と無惨さに満ちていたのも。けれども心底気持ちが悪かった。相手の人間がしかるべき後悔や罪悪感を抱えている場合は、特に。

 しかたがない。タブノキの許に訪れた人間たちが、幾度となく呟いた単語だった。もちろん不本意で不合理な事態に、彼らは多かれ少なかれ戸惑いや反発を覚えていた。しかし権力者の圧力とか時代の流れとか、もしくは運命とか、そんな大きなものが抗いを許さなかったのだ、と彼ら彼女は口を揃えて述べた。でも、それが揺るがしがたい事実なのか、私は今一つ信じられずにいた。

 もっと人間に近くなれば、何かわかるかしら。このときから私は、より身を入れて他人の話を聞くようになる。どんなに血なまぐさくて、やるせない話でも。仕事を放棄するわけにはいかなかったのもある。けれどもこの人たちの中で、一体、何が起こっているのかを知りたかったのが理由としては大きな割合をしめていた。
 その心がけのおかげか。私はだんだん人間に近づきつつあるようだった。バイオノイドである自分と人間の境目があいまいになって、己とその外を区別するものがどんどん崩れていく。あなた、私という主語。そういうものが。そして、これはある種のルールの強制でもあった。多少理不尽だろうと要求された行動さえ守っていれば、怖いことや不安なことも何もないと信じさせてくれる。そんなルールだ。習慣、あるいは癖と表現してもかまわないかもしれない。

 これによって自らの所業に居直る人間たちの機序について、なんとなく想像がついた。多分、実感としてはルールに従っただけなのだろう。その中にどんなに道理に外れたものが含まれていても、彼らにとってはルールに従っただけだから、一切の責任感はない。しかし意識の深いところでは、実際には違うのをきちんと理解していて、それが心身の不調としてにじみ出てくる。そういう仕組みらしいのだった。
 私にとってこの感覚は恐ろしく、また(あまり好ましいものではないが)心地よかった。たくさんの柔らかい毛布に包まれているみたいなのだ。どんどん締めつけて、張りついていく。そのようなものが、人間たちがいつも感じているはずのものだった。

 ――最近、自分が人間であるような気がしてしまうんです。かつて先行機のモルスに言ったのを思い出す。すると彼は怪訝そうな顔つきをした。まるで自分のクローセットの中に、買った覚えのない見慣れない靴下があるのに気づいたみたいに。これが私の持つ原初の記憶だ。

 無責任。その一言を境に、あたりは凍りついた。タブノキもギザブローたちの歩みも、空気も時間も何もかもが。どうやら一時に高い負荷がかかったせいで、コンピューターの処理が重くなっているらしい。

 とはいえ内的な時間は、また別だった。私はギザブロー性質の上に乗っかったまま、相手から投げかけられた言葉を反芻する。

 鋭い声をメモリ内で繰り返し再生する度、放たれた文句が重みを伴って私の胸に圧し掛かる。同時に相手に対する怒りが沸き上がる。何も知らないくせに、勝手なことを言わないで。なら、どうすればよかったっていうんだ? しかしこんなとげとげしい気持ちを他人に――それも年端もいかない相手にぶつけるのはさすがに出来かねた。それこそ彼が口にしたとおりの事態だった。

 ともかく、と私は思う。どうにかして動けるようにしなきゃ。特にギザブローをこのままにはしておけない。ここでフリーズしていいのは自分だけで充分だ。
 OSに緊急用のコマンドを送る。だが上手くいかない。故障か、要求されているリクエストが多すぎるのか、計算系統が命令を受け付けないのだ。ただ無為に時間は過ぎ、気ばかりが急く。

 うん、うん唸っていたさなか。不意にどこからか音が耳に届く。一定の間隔で繰り返されているが、どこか不規則な音。誰かの声だ。……タ……ノキ、タブノキ。

 声の主がどこにいるのかは、わからない。とても遠い場所で喉を震わせているようでもあったし、ごくごく近いところで囁いているようでもあった。聞き覚えのある声音かと思われたし、そうでない気もする。そんな声だった。
 正体不明の誰かは繰り返し、繰り返しこちらに呼びかける。その声にじっと耳を澄ませていた、ある瞬間。私は一つの事柄を理解した。これは自分の声だ。

 タブノキ、どうしたの? そう、わたし自身が訊ねてくる。けれど私は上手く答えられない。一度でもちゃんと言葉にしてしまえば、もう、引き返せない気がしたから。どこに、というあてはなかったけれど。
 苦しい? 口を噤んだままでいると、わたしはさらに問いかけてくる。うん。今度こそ私は答える。さらに問いが続く。痛い? うん。どうして? ……。帰りたくない? そう、帰りたくない。

 だってどうやって起動し続けたらいいのか、わからないんだもの。わたしが何も言わなかったので、私はさらに言い加える。

「他人やロボットやバイオノイドことなんかどうでもいいくせに、なんで自分の家族や友達のことだけは愛してるなんて思えるだろう。足元が何で出来ているのか知らないくせに、みんな、どうして平気な顔で笑ったり手を叩いたりできるんだろう。それがあたりまえみたいな顔で生きてるのが、気持ち悪いよ」
「本当?」
「何が?」
「本当に平気そうだった? 会った人すべて」

 わたしが言いたいことは、なんとなく理解できる。確かに感じることが無ければ、あの人たちは私のところには来なかったろう。でも、みんながみんながそうだとは思えない。誰かを愛しながら、また別の誰かにひどいことをする。相手にも人間関係や心があるなんて知らないかのように。かつてはそのような人たちが地上にはたくさんいた。今でも少なからず存在するだろう。そして彼らは依然としてけして損なってはいなけないものを、損ない続けるはずだ。このことがタブノキは許せない。そんなものがいる世界へ連れ出されるも、自分自身が憎んでいる存在に堕する可能性があるのも。

 モルス、と彼の名前を私は口にする。己自身でも信じられないくらいに多くの感情が、この一言の中に込められていた。

「好きだよね、彼のこと」別のわたしが言う。
「でも、嫌いでもある。ちょっとだけだけど」

 私はモルスの姿を思い浮かべる。私を見つけたときに、必ずこちらに向かって手を振る彼。そして私の腕を掴んで、先を歩こうとする彼。私は歩けるのを知っているはずなのに、モルスはそうしていた。本人が言っていた通り、自分と行先が別れるのが嫌だったのだろう。そう考えると、パーツの一部が重く沈む思いがした。さっき機体をさすられたときに感じた、バターみたいは好ましさと同じくらいに強さで。

 とはいえ彼に苦しんで欲しいわけじゃない。喜んだ、笑った顔を見るとやはり嬉しい。二つの感情の釣り合いがあんまりにも取れているので、私はいつも混乱してしまう。

 それぞれの心持の狭間で、色んな記憶が浮かび上がってくる。モルスと浜辺を歩いた日のこと。アルバイトが終わったときに、待ち合わせして帰ったのこと。徹夜でギザブローのプログラムを書き換えたり、報告書を仕上げたりしこと。こっそり二人で映画を観たこと。彼といて私は苦しかった。でも一方では、こんな日々が確かに楽しかったのだ。そんな感覚が懐に入れた欠片から伝わってきた。

「置いていかないって、彼は言ってくれた。《タブノキ》(きみ)も、彼についていった。なのに、どうして?」
「私なのにわからない? 洪水の後みたいにとても、とても心配なのが」
「わかるよ」姿の見えないわたしが答える。
「でも苦しいあの時間はとうに過ぎ去ったんだ。《タブノキ》(きみ)はそこから片足だけでも抜け出して、もっと別の場所にも目を向けるときがきたんだ。そして、その場所で《タブノキ》(きみ)を待っている人たちがいて、その人たち交わされた約束がある」

 約束、とギザブローたちの上で私は呟く。もちろん言葉の意味は理解していた。けれども初めて耳にした音楽みたいに、上手く噛み砕いて受け止めることが出来なかったのだ。
 まもなく私の中から、わたしの声が返ってくる。

「あの冬の日を思い出して」

 どこからか香りが漂ってくる。甘さと香ばしさが入り混じった匂い。――……チョコレートだ。それにコーヒーも。驚くのはこのどちらもが相反しておらず、見事に調和しているということだった。本当に、本当に夢のような香りだった。
 そんなものに包まれながら、私はまた一つ、思い出す。タブノキさん、とこちらに呼びかける人の面影を思い出す。荻原メイ。彼女に会わなければならなかったのを。そして今日がその日で、今がその時だった。

「抜け出せるのかな」
 私は口火を切る。
「それだけの力が《タブノキ》(きみ)にはある」
「抜け出していいのかな」
「それを選ぶのに《タブノキ》(きみ)相応しい」
「たぶん、ずっと気持ち悪いままだけど」
「そのままでも約束は守れる。今までも、これからも」
「みんな怒ってない?」
「怒ってたら謝ったらいいと思う。許してもらえるかどうかは、わからないけど」
「でも、謝ってみる。謝ってみたい」

 硬くなっていた身体が、じわじわと柔らかくなっていく。それはギザブローもまた同じであるようだ。どこからかンミと小さく声が上がる。けして近いわけではないけれど、さほど遠くないところから。声はどんどん増えて行って、やがて蜜蜂のはばたきのようになる。

 その中に姿のないわたしが混じる。いってらっしゃい。そんな言葉が。いってきます、と私は答えた。誰に告げるともなく、でも、しっかりと。そして揺るぎがなかった。

 たくさんのギザブローの上から飛び降りる。ベッドから降りるみたいな軽快な動きだ。

 突如として訪れた凍結と解凍に、彼らはひどく戸惑っていた。それぞれに顔を見合わせて、ンミンミと口々に唱えている。でも、当初の目的は忘れてはいないらしい。そのうちの一体が私の手を握ってくる。私も同じようにそっと握り返す。ついでごめんね、と私は彼に向かって言う。けれども相手は、ぷいっと顔をそむけてしまう。

「口だけなら言えるもんね。君が帰るって言うまで、僕はここを動かないぞ」
「うん、帰ろう」
 ンミャ。などと変な声を上げて、ギザブローがこちらに向き直る。私はもう一度、口を開く。
「突然いろんなことが起こって、それが自分のせいだと思って、君はずっと不安だったし怖かったんだよね。それでも、私を助けようとここまでやって来てくれた。なのに、自分のことばかりで怒らせるようなことをしちゃった。ごめんね」
「やだ。口だけじゃ嫌だ」

 ぎゅってして。そう彼は言いながら、両腕を大きく広げる。私は彼の背中に手を回す。そして、あらん限りの力で抱きしめあう。彼の腕も胴体も、むっちりとした柔らかい感触をしていた。そしてさっき流れた涙よりも、もっと強い温もりがある。心地の良い温もりだった。

 まもなくどちらともなくお互いの手を引いて、一緒に明るい方へ駆け出す。いささかの間を置いたのちに、他の個体も駆け足でついてくる。
 光源に近づくにつれて輝きはどんどん強くなり、あたりの景色が、目の前が真っ白になっていく。まだ胸に痛みはある。でも、それ以上に空間を切る感覚が気持ちいい。そうして瑞々しい力が機体の隅々にまで行き渡る。これなら濡れそぼった浜辺でも、荒れ果てた道でもどこでも走っていける。そう信じさせてくれる力が。

 そうしてひたすらまっすぐに走り続けた、あるとき。にわかに空気が変わる。通り抜けた――そんな感覚がした。ついで、不意に自分の体が大きくなっていることに気づく。また、柔らかなのシーツの中にいるのにも。

 私が臥せっているベッドの傍にはモルスと荻原メイがいて、どちらも呆気に取られた顔つきをしている。その脇ではたくさんのギザブローがゴムのボールみたいに飛び跳ねていて、それがあまりにも楽しそうなものだから、こっちもつい笑ってしまう。そんな光景のなかでタブノキは二人に向かって告げる。ただいま。ごめんなさい。

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