見出し画像

越境する光 2-3

←2-2

 週末ごとに奈良まで行くのは時間がかかるので、練習は主に京都で行われることになった。また資料庫として好春の実家として使えるし、佐山が身を寄せている師匠の家もあるのでちょうどいい。練習場所もだいたい、このどちらかだ。都合が悪ければ、付近の公民館のスタジオを使う。いずれにしても切磋琢磨するのには違いない。そして、その模様が波乱含みなのはたやすく予想がつく。
 同じ場所で肩を並べる二人を眺めて、この先どうなるかと師匠は頭を抱えた。

「確かに、あの子のやることは突飛や。しかしよくよく考えみたら、こうしたいちゅう筋道はあった。親切にされたから優しくする、打ちのめされたから痛めつけ返す。そないな風に。けど今度ばかりは、何を、どう転ばせたいかほんとにわからん」
「わかってほしいなんて、弓は考えていないと思いますよ」

 そんなこと彼女はとっくの昔に諦めている――そう好春は返す。すると、わかっていると相手は彼に答える。ついでこうも言う。

「けど寂しいし、かわいそうでな。二人とも」

 基本的に彼女が決定した方針に、佐山が従う場面が多い。けれども、けして言いなりでない。演奏する楽器は彼自身で決めたし(従来的な木製の十七弦筝だ)、低音域の副旋律を担当するのも彼自身の意思だ。なにより、ときには自分の意見も口にする。――息を合わせろ。――走り過ぎだ。――ちゃんと譜面を読んでるのか。耳だけで覚えるな。そういうように。いずれも反論の余地がないほど正確な指摘だ。しかし指先は違う。

 子どもの時分に実力を評価されたとはいえ、彼の演奏歴には十年以上のブランクがある。指遣いは思いのほか滑らかだが、取り繕いようがないほど旋律を乱すのはしばしばだ。これでも一年のあいだにずいぶんと持ち直したという。
 しかし彼を引っ張り出してきた本人は、あまり心配していない。どんな演奏だろうがその人の持ち味はあると、弓生は好春に宣ってみせた。追って、こうもつけ加える。

「一度、身体に叩き込まれたことは忘れられないさ」

 それは皮肉だろうかと彼は思う。たぶん、彼女自身はそのつもりはないのだろう。けれど好春には、弓生の言葉はそうとも受け取れた。

 実家の離れの和室……好春の自室に琴の音が響いている。とはいえ奏でているのは楽器ではなく、好春の祖父の演奏を録音したレコードだ。スピーカーから迸る音楽に、弓生は腹ばいで寝そべりながらじっと聞き入っていた。

「起きろ」

 手洗いから戻って来た佐山が、開口一番にそう言う。ついで、完全に伸びきった彼女の脇腹をつま先で小突く。路傍の小石を蹴飛ばすみたいに幾度も。どうやら弓生の態度が不真面目に映ったらしい。
 対する弓生も負けてはいない。手元にあった自分のノートで突いてくる足を叩く。反抗的な相手に、ますます彼はムキになった。足先を彼女の鼻先と眼前に出したり、引っ込めたりする。まるでモグラたたきを想起させる光景だ。

「お互いに時間の無駄だから、やめな」

 好春が仲裁に入ると、弓生は視線をこちらに移す。いじけた、むっつりとした目つきだ。ついで敵対する相手を、言葉もなく人差し指で示す。途端、佐山は声音をなおさら刺々しくさせる。やめろ。好春はなんとも不思議な気持ちで、この他愛のない諍いを眺めている。
 似たような光景を想像した経験が、彼には幾度となくあった。もっともこの部屋に招き入れた第三者が、自分と彼女の面影を持つ子どもではなく、こんな男だとは思いもしなかったが。ふつふつとわき上がったそんな不満と戸惑いを断つように、好春は二人にこう訊ねる。

「能のね。光越境のDVD持ってるんだけど観る?」

 瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。それからしばらくして彼らは肩を並べて、テレビの画面を食い入るように見つめている。

 囃子方が橋掛かりをしずしずと渡り、謡い方が切戸口を潜って表に現れ、それぞれに与えられた座に勢ぞろいする。彼らが支度を整えたのちに再び揚幕が上がり、直面のワキとワキツレが姿を現す。まもなく古めかしい言葉で何事かを語り始めた。

 能舞台で発せられる言葉はすべて文語なので、三人は詞章を口語訳に直したペーパーを手にしている。あらすじや登場人物一覧も載っていた。
 それによれば都から新しく派遣された国司と、その国に根を張って暮らす老人とのことだった。幕開けは新任の国司が赴任地に向かう旅のさなかに、山中をさまよう美しい馬を目撃し、地元の古老にこの由来を問うという体となっている。

 『光越境』の物語を能として移植する際、原典から相当なアレンジが加えられていた。本来の物語にはこの二人……国司と古老は登場しない。基になった説話では馬に寄った視点で話が進行するが、それでは物語に落とし込むには難しかったのだろう。 そもそもの舞台も日本に置き換えられている。また翻案は音楽も例外ではない。

 鼓の拍子と太鼓方の掛け声が全体を統率し、大鼓や小鼓や能笛の音を調和へと導いていく。これら四拍子と呼ばれる座組の中に弦楽器を用いる者はいない。しかし見聞きするのは無駄ではない。音楽を理解するための手掛かりはある。

 老人の語りから、過去の回想が始まる。つまり抗いと蹂躙の罪により、帝の許から追放される下りだ。

 開いた幕口から、満を持してシテの馬が登場する。人ならざる者らしく赤頭のカツラを被り、専用の馬を模した能面をつけている。装束も絢爛できらびやかだ。
 緩急自在の囃子を背景に、来歴が隆々と謡い上げられる。そのなかで馬は舞う。跳躍と回転、そして静止が絶え間なく入れ替わり続ける激しい舞踏だ。跳ね回るごとに千々に振り乱れたカツラの脇髪と後ろ髪が赤い軌跡を空に描き、装束に縫いつけられた金糸や銀糸の刺繍が細く光を散らす。 シテが一拍の間を置くたびに、その華やいだ残像が空間と目の裏に残る。そう映る舞だった。
 花びらと汗が吹きこぼれているみたい――。おもむろに弓生が呟く。しかし零したのはその一言だけで、あとはずっと画面を注視する。
 舞台のボルテージは次第に上がっていき、やがて最高潮に達した。そこで調子や謡は途切れ、シテもぴたりと動きを止める。やがて何事もなかったように、馬は舞台から去っていく。

 場面は古老と役人の語らいに戻る。馬は瑞兆を表す天馬となったと老人は物語を終える。しかし聞かされた結末に、役人は疑問を呈す。はたして天馬とはいえ古い時代から、現在まで生き続けることなどあるだろうか。諸行無常や生者必滅が世の常で、天人も時が来れば衰えるのにと。そんな問いと呼応かのように、馬はまた舞台に出現する。
 今回は(作中での)現代であるためか、それとも伝承とは異なる別個体だからか。カツラは赤頭から白頭に、装束も金糸銀糸を用いた華やかな模様から白を基調とした簡素なものへと変化している。舞の所作も零れ落ちる枯れ葉や花びらの如く穏やかだ。そしてシテの馬は舞い終わると橋を渡り、人間たちを残して揚幕の向こう――鏡の間へと戻っていく。

 その後にワキとワキツレが続き、囃子方や謡方が掃けたところで弓生は動画を停止させた。ややあって口火を切る。

「これっていつごろ書き上がったのか、わかってるんだよね?」
「応仁の乱の最中だ」佐山が答える。
「そりゃあ瑞兆とか言われても、困るよなあ」

 言い締めて、彼女は再びリモコンに手を伸ばす。そして今度は二倍速で見てやろうなどと言う。少しすると画面内で囃子方や謡方が再び座に集合し始めた。まもなく幕が上がりワキやワキツレが現れ、謡がスピーカーから響く。

「いくら良い兆しって呼ばれたって、本人? 馬? が幸せだとは限らないよね」

 不意に弓生は口を開いた。幸せ? 好春は訊き返す。

「この馬は雷が響く日も、嵐の日も、ずっと山の中をさまよい続けなければならない。食べ物だって、いつもありつけるとは限らない。狼や熊や他の動物に襲われることだってある。何年も、何十年もそんな落ち着かない生活をする」
「自業自得だろうが」彼女の言葉を佐山が受ける。
「他人の迷惑を考えないで、大暴れしたから野に放逐された。そんなに飼われるのが嫌なら、好きなように生きればいい。結果は引き受けるべきだ」
「天馬になったのも、その結果かな」

 それは悔悛に対する報酬か、あるいは罰の一環か――。そう弓生は呟く。どうやらどちらかを判断しかねているようだ。重く低い、唸りに似た声質だった。しかし沈んでいたのは束の間のことで、まもなく調子は一転して軽やかになる。

「そもそも不思議でめでたい存在ですらないのかもしれない。他人が勝手に言ってるだけでさ、とてつもなく長生きの馬っていうだけで。国司が言うようにまったく別の馬ってのもあり得るし」
「崇められる事態そのものが、罰ってことはないかな」

 言葉とともに流れていく彼女の思考に、好春が横から割って入る。

「本当は違うのに勝手にこうだって決めつけられて、そう扱われるのはなかなか辛いだろ。ただ生き永らえているだけなのに、人間たちはありがたそうに手を合わせる。善きものとして振舞えと押しつけてくる。そう考えると、なんだか怖くないか」
「怖くはない、けど嫌かな」

 それと、ちょっとむかつくかも。このように弓生は返す。手のひらを祈るように合わせて、自分の口元へ持って行く。テレビを見つめながら、何事かを思案していた。
 倍速の設定のために、能役者たちの所作はより鮮烈さと俊敏さが増し、謡や発せられる台詞もさきほどよりも明瞭に聞き取れるようになる。すると作品全体の趣も異なってくる。
 こっちの方が獣っぽいね。シテの舞を眺めながら彼女は言う。ずっと獣だったろうと佐山が打ち返す。そこに好春がさらにつけくわえる。人間から見た、ね。

 能楽師たちが三々五々に舞台上から去り、また動画が終了する。佐山が溜息をつく。旅から家に帰ってきた後みたいな、細く長い吐息だった。ついで、何か乾いたものをひっかく音もした。弓生がノートを取っている。

 まもなく短筝を取り出す。指先に筝爪をつけて、脚を正座に組み直す。そうして楽器の前に斜めに構える。やがて『光越境』の旋律が室内に響く。しかし拙かった。なんだか、たどたどしく聴こえる。だが、けして下手でも、精彩に欠くわけではない。むしろ起伏のつけ方は巧みだし、表現のバリエーションは豊かだ。おそらく狙ってやっているのだろう。だが精巧である分だけ、不安になってくる音色だ。

「そんなもんか」

 そう佐山が言う。吐き捨てるような、とことんまで冷え冷えとした調子だった。そんな口調のまま彼は続ける。

「想像に走り過ぎている。もっと譜面に忠実になれ」
「わかる。わかるけど、とりあえず最後まで聴いてくれ」

 弓生は最初から弾き始める。やはり頼りなげで、ぎこちなく感じられる音色だ。指遣いは時を経るにつれ、次第に滑らかになっていく。同時に旋律は激しさを増す。
 一つの影が好春の目蓋に走る。手綱を食いちぎり、草木の樹液や人間の血を足跡にして、あらゆる障壁を蹴り破りながら疾駆する馬の影が。しかし、所詮はシルエットに過ぎない。その実体を――たとえば歩を進めるごとに脈打つ胸痛とか、風を切るときの体毛や血のうねりとかを彼女はまだ掴み切ってはいない。

 やがて曲はクライマックスを迎え、室内に轟いた響きは鳴り止んだ。弓生は指先を弦から離す。いささかの後に、二人に向かって言う。

「やっぱり大暴れしてるのが核心だと思うんだよな。だからさ、ここは二重構造でいきたい」

 ちょうど、こんな風に。彼女は再び筝を奏で始める。今度は幽霊の脚運びを思わせるゆったりとした、低くまろやかな音楽だ。自分が何の旋律を耳にしているのかが好春はわからなかった。何だろう、なんだろう。そう、さかんに思案しながら聴き続けていたある瞬間。落雷じみた衝撃とともに、不意に彼は理解する。さっきと同じだ。これは『光越境』だ。

「こういう感じのをね、さっきのと組み合わせたらさ。おもしろいと思わない?」

 楽曲が終局を経た後に、彼女は佐山に問いかける。だが、相手は沈黙を以てでしか答えない。それは多くの揺らめきに満ちた沈黙だった。驚愕と混乱と嫌悪。そういった心持が、静けさの中にふんだんに含まれた。いささかの後に、ようやく実を結ぶ。

「自分に都合よく考えてるのがまるわかりだ。そういう思いつきが、独りよがりや言うねん。ちゃんとせいや」
「〝ちゃんと〟ってなに?」

 君は一体どんな視点と基準で、〝ちゃんと〟としてるって決めるんだ――。先ほどと同じように佐山は言葉を返さない。少し間をおいて彼は弓生から目を逸らす。どうやら今度は話題が発展する見込みはないようだ。実際に佐山は、もう二度と彼女と向き直らなかった。

2-4→

関連作


◆サポートは資料代や印刷費などに回ります ◆感想などはこちらでお願いします→https://forms.gle/zZchQQXzFybEgJxDA