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越境する光 2-4

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 『ちゃんとする』のは、佐山にとっても難題であるらしい。観察を重ねるうち理屈を突きつめて、奏法を構築していくのが彼のスタイルなのが好春にはわかってきた。理論を重視するだけ、抒情性を解するのがいささか難しいように見受けられた。
 この弱点は彼自身も把握しているようで、弓生に強いる分だけ苦しんでいた。筝と向き合って弦を弾くたびに、彼は歯噛みして唇と眉根を大きく歪ませる。もっとも今さらきちんとしても、既に手遅れな気もするが。

 程度の差はあれ、苦しんでいるのは弓生も同じのようだ。演奏の方針やパートの担当は決まったが、彼女はいまだにこれという感覚掴めないでいる。練習後には毎回、腑に落ちない顔をした。

 好春は名実ともにそんな二人の調整役に徹する。その都度楽器を調弦しコンディションを見、取り扱いのアドバイスをする際、彼らがむやみやたらに接近しないよう注視して、不穏の雰囲気があればそれとなく気を逸らす。そういう役割を自ら担う。彼が仕事で不在のときには二人の師匠が、代わりに監督と緩衝材の任を引き受ける体制となっていた。

 実務的なマネジメントは山城の任だ。関連する部署との連絡や書類製作など補助してくれるのだ。彼女は多忙のなか時間を縫って、ときおり二人の様子を覗きに来る。そうして筝の二重奏を聴く。どんなに小さな瑕疵だろうが、聞き逃さないという風に。彼女が口火を切ったのはそのさなかだった。

「むかし、筝を習ってたんです」

 彼女の視線の先には二人がいて、何事かを話し合っている。どうやら叱られているか、怒られているかをしているらしい。佐山の険のある顔つきに、弓生はひきつっている。そんな二人を見据えながら山城は続けた。

「先生もそうでしたけど、母にはだいぶしごかれました。――彼女は助教の免状を持っていたのです――美しい姿勢、あるべき定型。そういったものを私の身体に叩き込みました。やっぱり身内は敵ですね。家の中が一番おっかなかった」

 形こそは好春に語りかけてはいた。しかし発せられる言葉は、どこまでも彼女自身で完結していた。まるで無人島に取り残されたあとの独り言じみた相手の言葉に、好春はひたすら耳を傾ける。

「それでもあの人から教えられた物事は、私が人生を送る中での指針になりました。彼女が与える教訓と、世間に流通している一般常識には少なからず共通する事柄があったからです。そして教わった内容に、私は多くの場面で助けられました。望むと、望まないとにかかわらず」
「含みがある言い方をしますね」
「そう聞こえますか。まあ、別にいいんですけど」

 そして、どうしてもわからないのだとも彼女は口にする。

「あの人たちから、なぜ、あんな音楽が出てくるのか。どうしても、わからないんです」
「なら、本人たちに訊ねたらいい。彼の方はわからないけど、少なくとも彼女は答えてくれますよ。もっとも取り扱い説明書みたいに、はっきりと理解できるかは知りませんが」

 そう好春は言い締めた。けれども山城はもう何も言わない。ずっと口を噤んだままでいる。その様子から彼には一つ、問いを思いつく。そして相手にかけてみた。怖いんですか――。ええ、と山城は頷き返す。

「私はただ聴いているだけなのに、どうして、こんな気持ちになければいけないんですか」

 そうこうするあいだにも、時は進んでいく。草木の青葉が燃え始め、衣更えが済み、祇園祭が間近になる頃には、二人の演奏はそれなりに形が整ってきた。指が引っかかることはないし、聴き心地も滑らかだ。ながら作業で聞き流す分には、問題はないように感じられるだろう。だが弓生も佐山も、その程度では納得はしない。 
 彼らは音楽を追い続ける。平日は仕事をして、週末にみっちりと練習をこなす。何をしようとも『光越境』が頭の隅に引っかかって、何をしていようとずっと離れないでいる。もう昼夜も、夢も現も区別ないありさまだった。時間と身体を差し出すのは二人とも同じだ。しかし物事に対峙するスタンスは違う。

 弓生は第一に愉しむ。もちろん毎日の研鑽や勉強は忘れないし、己の力量不足にやきもきすることもある。けれどもやるべきことをやって進み続けていれば、いずれは目的地に辿り着くという確信めいた気楽さがある。その最中の苦しみを過程として受け止める。 
 対して、佐山はことさら自己犠牲と引き換えにしようとする。練習は手を抜かないし、日常生活も労働も一生懸命にこなす。まさに全身全霊だ。しかし労苦に見合った成果がなければ、どんな献身も努力も虚しいものでしかない。くわえて彼女の呑気さが、なおさら佐山を苛立たせるようだ。それが、あるとき頂点に達した。

 七月の末。京都市内では後祭の山鉾巡行が差し迫ったころ。彼らは奈良にある好春の家で、練習に打ち込んでいた。たまたま二人の長い休みかち合った上に、好春のスケジュールにも余裕があったので合宿と決め込んだのだ。三泊四日の日程になっており、そのうちの二日間は、多少の小競り合いはあったものの穏やかに過ぎた。
 そして三日目のこと。全員で和室に集合して、筝を弾いていたとき。担当のパートと楽器を一度入れ替えてみないかと、弓生は佐山に提案した。つまり主旋律を佐山が、副旋律を弓生が演奏する。

 きっと彼女にとっては根拠のある思いつきだったのだろう。いつもと違うことをしたらどうなるのか興味を持ったのか、あるいは表現に深みを加える一手が欲しかったのか。しかしその真意を説明する間が、彼女には与えられなかった。相手の怒りが空間を覆い尽くした。

「ずっとお前の言うこと聞いて、今日までやってきたんやぞ。楽器も楽譜も弾き方も、ぜんぶ捨てろちゅうのか! この半年を無かったことにせいと、お前は!」
「違う。一度だけって言ったし、無駄にはならない」
「そやろうが! 俺の方がいいなら、なんで最初のうちに言わんかった!」
「そんなことは言ってない。ただ、なんでもやってみたいってだけで」
「馬鹿にしとんのか」
「してないよ。でも、かわいそうだとは思う」

 君のやることなすこと言うことはジンジャーマンみたいだ。よう知らんやつから決められたとこから、ちっとも動けない――。弓生の言葉に、佐山は唸って応える。粘液が喉にまとわりつたような低い唸り声だ。ついで、彼の身体がぐらりと大きく仰け反った。悶えた、あるいは頂に立ったと好春は思う。同時に弓生を目がけて、佐山が腕を振り上げている。
 まもなく佐山は掲げた手のひらを翻す。ひゅっと空を切る音が聞こえそうなほど勢いよく。力強く。しかし衝突はしない。寸でのところで、好春が後ろから抑え込んだからだ。

 拘束を振りほどこうと佐山がもがくたびに、好春はますます強く彼を羽交い絞めにする。相反する力ごと肉体同士が絡み合い、もつれあうさなか。好春はふと、男のつむじ越しに弓生を見た。瞬間、どきりと彼の心臓が跳ねた。

 こちらに送る眼差しに暖かみは感じられなかった。冷たいと表すには違う。どんな温度も湿度も感じられない目つきだった。表情もパテで均したみたいに曖昧で、心持を読み取りようがない。ただ感情が削ぎ落された分だけ顔つきは奇妙に端正だった。

「ここにいない方がいい」

 弓生を見据えながら、好春はそう告げる。己でも厳しく聞こえる声色だ。それを受けた彼女は小さく頷いて、独り和室から出ていく。

 床板を軋ませる足音は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。いささかの後、佐山はその場に崩れ落ちる。べったりと畳に額をこすりつけ、肩をいからせて荒い呼吸を繰り返す。そうして喘ぎ音の中で彼は呟く。わからない、と。零れた一言は彼の口から次々に溢れ出て、いつまでも止まらなかった。わからない、わからない。濡れているように聞こえる声音だった。呟きは断続的になり、やがて途絶えた。
 そうしていささかの間を置いたのち。入れ替わりに佐山は、こんなことを言い出す。

「抱け」

 好春は目を瞠る。この言葉が自分に向けられたことが、彼にはすぐには信じられない。まず、何かの間違いかとも考えた。
 しかし、次に繰り出した戯言で疑念は確信に変わった。

「あいつにしたみたいに俺を抱け」
「僕に抱かれてどうするつもり?」

 反射的に佐山に訊ね返した途端、静寂が室内を包む。くすみ始めた陽光とイグサのかすかな香り、そして二面の筝だけがこの場にある。静けさはいつまでも続くかと思われたが、実際にはそんなことはない。

「望むなら、僕は本当に抱くぞ。君が思う形じゃないかもしれないが」
「しのごの言わんで、さっさとやれ! 早く!」
「それが他人にモノを頼む態度かな」

 佐山はにわかに、項垂れていた首を上げる。ついで足を組みなおし、正座の姿勢で好春と向き直った。くわえて両手はどちらとも膝についている。こちらを見上げる双眸に宿る輝きの強さが、意志の堅牢さを感じさせた。
 まもなく佐山は額づく。畳に手を付けて、つむじを見せる。加えて懇願の文句さえつけた。
 本当になりふりかまわないんだな――相手の姿勢を受けて、好春はしみじみと思う。目的へのひたむきさを健気と称えてやりたくも、無様だと嘲笑いたくもあった。己を貶めることで何かが理解できるなんて考えは、ちゃんちゃらおかしかった。

 好春は指先で、彼の顎に触れる。持ち上げるときに親指で肌を撫でると、佐山の肩はびくりと跳ねた。だが、怖気づいてはいない。食い入るように、こちらへ視線を注いでいる。
 好春はそのまま顔を相手に近づけていく。仄かだった温もりが次第に強まって、相手の湿った吐息が如実に感じられるようになる。そしてお互いの鼻先がくっつくかの瀬戸際。どん、と胸板に重みを伴う衝撃が走った。気がつくと二人の距離は隔たりが出来ている。

 顔を背けられたせいで、佐山が今、どんな表情をしているのかはわからない。しかし、ちょうどいい頃合いかと見計らって好春は切り出す。

「実を言えば、君が想像することは起きてないんだ」

 好春がそう告げた刹那、佐山はあらためてこちらを顧みた。半ば開いた唇をわなわなと震わせて。そうしてかっと見開いた目を好春から、傍にあるに筝に移して言う。じゃあ、これはなんや。影、と好春は答える。ついで佐山ににじりより、彼の耳元に口を寄せて囁く。

「僕が彼女にしたかったことを、君が先にやったんだ。少しだけ違う意味と形で。その結果がどうなったかは、わかるだろう。なのに同じ轍を踏もうなんて、お馬鹿だね」

 で、どうする? 問いかけに答える代わりに、佐山はその場に再び突っ伏す。そして今度こそ本当に泣き出した。巨濤を彷彿とさせる啼泣だった。

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