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越境する光 2-5

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 ガレージに赴くと黒色の乗用車の隣に、メタリックなコバルトブルーの軽自動車が仲良く並んでいる。前者が好春の、後者が彼女のものだ。

 もともと身分証欲しさで取得した自動車免許なので、車両の所持は検討すらしていなかった。だが、佐山による刺殺未遂の後――静養を済ませた後に中古で購入。ペーパードライバー講習も受講した。以来神戸からこれを運転して、好春の家を訪れるのが習いとなっている。
 そんなに金や手間暇をかけずとも、呼ばれたらいつでも迎えに行くのに。好春がそう言ったときの、弓生の困ったような苦笑いを今でもありありと思い出せる。そして、こうも返された。でも他人に運転させるやつって、つまんないでしょ。

 彼女は愛車の内の――リクライニングにした運転席で読書に勤しんでいた。手にしているのはA4の無線綴じの冊子で、表題には『わたしたちの××村ものがたり』とある。この地元に伝わる民話が収められた郷土資料で、彼女のお気に入りの一冊だ。冊子に収録されたうちの一話が馬にまつわるものなので、この件が持ち込まれてからは、なにかにつけ繰り返し目を通している。

 好春は窓ガラスを三回ノックする。まもなく彼女は顔を上げた。ついで助手席側の鍵を開けながら、こう訊ねてくる。佐山君は?

「だいぶ落ち着いたよ。今は休憩中」

 車内に乗り込みながら好春は、佐山の様子を彼女に報せる。そうしながらさりげなく視線を横に流すと、弓生は小さく唇を噛み締めていた。佐山とは異なるぷっくりとした、少しかさついた唇だ。弓生はそれを開く。

「子どもみたいな物言いは、もうやめるって決めたんだけどなあ」
「過ぎたことを悔やんでも仕方ない。これからの身の振り方を考えよう」

 正直に言えば、もう痛いめにあわせてもよかったと考える。あけすけに打ち明ければ、佐山が錯乱しようが自殺しようが彼としては別にかまわない。彼女に叱られるだろうから、口には出さないが。けれども本心の一つではあった。

「でも真意はどうあれ、いじめちゃったのは本当だ。他人をいじめる奴は悪いし、つまらない。それにしくじりの根っこがあるのに、変わらないでしょ」
「うん。わかるよ。とはいえ先のことも重大だ。君は自分が何をしたいか、わかってるか?」
「おもしろいこと」彼女は返す刀で答える。
「おもしろいことを目指すのはいい。でもそこに至るまでの過程や結果が見えないから、彼は不安になってるんじゃないかな」
「不安?」
「僕たちはいったいどこへ、何をしに向かうのか。そして、どうして自分が道連れに選ばれたのか? そういうこと」

 そうかぁ。この一言だけを弓生は呟く。ついで、かすかに頷きもした。じっと前を見据えたままでいる。目線の先にあるのは閉鎖された電動シャッターだ。しかし彼女の瞳に映るのは、それとは全然違うものではないかと好春には思われた。その光景をいつか、自分も見てみたいと彼はずっと昔から願っている。
 沈黙はいつまでも続いた。弓生がまた話し出すのを、好春は助手席でひたすら待つ。ときおり落ちる髪を指先で梳き、耳に掻き上げてやる。(過度な接触は拒むけれど、これくらいなら許してくれた)そうしながら好春は、彼女の横顔を見つめている。

 弓生は映画やテレビ、あるいはグラビアで目にするような最大公約数的な美しさを持たない。だが、妙に胸をざわつかせる容貌をしている。彼女を見つめるときの、なんとも落ち着かない時間が好春は好きだった。ただし、二人きりである限りにおいて。

「あのときはわからなかったけど、彼が持つエネルギーには目を瞠るものがある」ようやく弓生が口火を切った。
「あれと一緒に進んでけたら、きっとすごい景色になると思う。私はそれを見たい」
「じゃあ、それを言ってあげたら。すごい景色とはどんなものかってのも話せば、なおいいかもしれない」
「聞いてくれるかなあ」

 言い締めた途端、彼女の表情が崩れる。ふてぶてしさが掻き消えた、いつにもなく不安げ面持ちだ。好春の頭がひりつくように痛む。弓生を一喜一憂させるのは、佐山ではなく自分でありたかった。そんな口惜しさを押し殺し、彼は努めて平静に振る舞う。なんでもないみたいに応える。

「不用意な真似はしないさ。でも、様子はよく観察した方がいい」
「好春」
「うん」
「ごめんな、いっつも」

 おもむろに彼女に向けて、好春は両腕を広げてみせる。弓生はわずかに眉根を寄せた。しかし渋面は少しのあいだだけで、彼女はすぐに彼の懐に滑り込む。

 彼は相手の背中に両腕を回す。骨の太さや密度を、上手く包み込んだ身体だった。手触りの硬さに驚いたかと思えば、腰や肩を掴んだ指先が沈み込むのに息を呑む瞬間がある。また鼻先をくすぐるほのかな石鹸の香りや、衣服越しにじんわりと伝わる体温が、悩ましい感覚をさらに強くさせた。

 やっぱりこっちがいいなと、女を抱きしめながら好春は思った。

 しばらくして弓生は和室に戻ると、彼のすっかり落ち着いていた。自分が考えていることを佐山に話す。腫れぼったい目を半端に開けたまま、静かに彼女の言葉に耳を傾けている。

「君となら辿りつける景色がある。私は、そこに行きたい」
「それで俺に何の得がある?」

 低く、枯れた声色だった。その切って捨てるような調子には、刺々しさが多分に含まれていた。しかし弓生は臆することなく答える。畳に膝をつき、相手と視線を合わせて。

「わかんない。でも、この人の楽器があればとても奇麗で、ものすごいものを見れるかもしれない。それだけの力が君にはあるんだ。君自身が考える以上にさ」
「なんだ、すごいもんって」
「なんて言えばいいんだろう。たとえば……――そう、国破れて山河ありというか、街が火事で丸焼けになった後の星空みたいな」
「火事?」

 火事。この表現が彼の気を惹いたらしい。さきほどまでの不穏さは、一転して鳴りを潜める。その表情は和らいだというか、拍子抜けした風だった。――……そのためには君の力が必要なんだけど、どうかな。かまわず問いかける弓生に、佐山はあっけにとられたままで頷き返す。ごたごたがひとまず収まった瞬間だった。
 だが雰囲気は取り返しのつかないくらいに白けていて、彼のコンディションはあきらかに悪かった。また弓生の意思も手伝い、合宿はこの日で打ち切りとなる。
 彼は弓生の車に乗って、奈良の家までやって来た。しかし今日は先に彼女を送り出し、帰りは好春が送っていく。ちょうど京都方面に、楽箏の修理依頼があるのも都合が良かったのだ。本来の予定は明日だけれど、たまに実家に顔を出すのも一興だろう。

 夕方の高速道路を駆けるあいだ。佐山は後部座席で、窓ガラスに額やこめかみを預けていた。眠ってはいない。上り下りを走り去っていく、大小さまざまな車両をひたすら眺めている。レッカー車にパトロールカー、トラックやバイク。そういうものを。これらのヘッドライトが彼の赤らんだ目蓋や、やつれた頬をときおり浮き上がらせた。陰影で際立つ目鼻立ちが、生々しくも美しかった。

 門真のジャンクションに差し掛かったときだ。出入り口付近にある建物を、ふと好春は目の端で捉える。気づいたのはきっと佐山も同じだろう。そのビルは見過ごせないほどに、けばけばしい電飾看板を掲げていたからだ。

「ちょっとくらいなら暇があるけど、どうする? まだ、したい?」

 好春がそう投げかけると、相手はバックミラー越しに力なく首を振った。またわずかに沈黙したのち、佐山はこのように切り出す。一度目のとき――。

「その場に屈みこんだから、とどめを刺してやろうとしたんだ。もう全部、何から何まで終わりにするつもりで。そしたら、あいつ、筝を抱え込んだんだ。まるで小ィさい子を石礫から庇うみたいに」

 このことに気づいたら、もうダメになったと佐山は語る。気力を失った彼は通行人に取り押さえられ、臨場した警察官に突き出された。その後は好春が知る通りだ。さらに佐山は誰に向けるともない風情で呟く。

「どうしてあんなもんが、俺には与えられなかったんだろう」

 それきり静けさを保ったまま車は進み、やがて佐山の住居につく。佐山は降車した後に、ありがとうございますと好春へ頭を下げる。顔を水に漬けるみたいな深い角度で。そうして車影が遠ざかるまで、ずっと同じ姿勢を保ち続けた。バックミラーに映し出される佐山の姿は徐々に小さくなり、やがて夜闇に溶け込んで消えた。その刹那、好春は正真正銘に一人きりになる。

 ひたすら足元でブレーキとアクセルを操り、両手でハンドルを握りしめるうち。不意に、こんな考えが好春に降りてくる。弓生の赴きたいと願う景色に、はたして自分はいるのだろうか。

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