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越境する光 3-1

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 刺殺事件後。マスコミが押し出した秀才と天才の対立構図や、筝曲の家元などフィクションじみた要素も重なり、野次馬の耳目を集める状態が続く。そのあいだに弓生のSNSや動画投稿サイトのアカウントが拡散され、フォロワーとチャンネル登録者が爆発的に増加した。 弓生の作風を面白がったクリエイターから、仕事の依頼も多数送られてきた。『アナキストの子ども(ではない)』もそのうちの一つだ。

 持ち込まれる案件を弓生は基本的に受けつけない。コンクールやコンサートなどの晴れ舞台と同じように、金銭や権威のやり取りから距離を保ちたいのだ。ただ、この作品だけは琴線に触れたらしい。

 打診のメイルが届いたのは数か月の潜伏期間を経て、新作の動画を投稿した直後のことだ。依頼主すなわち監督は大阪の芸大、その映画学科に所属する学生だ。
 説明によれば『アナキスト……』は卒業制作として製作予定の、三十分ほどの短編作品だという。作中内のBGMの一部に、彼女の演奏を使用したいとのことだった。

 形式を踏まえた上で、少しだけそこからはみ出した音楽が欲しい。それが学生からの注文だ。

 この案件の詳細を聞かされたとき、無謀だと好春は思った。三十分程度で扱いきれる題材とはとうてい思えなかったし、そのための手腕が彼ら彼女らにあるかも疑問だった。
 ただ、本人たちにはやる気が至極に満ち満ちている。弓生もそうだ。

「だって助けてあげたいじゃん。若い子だしさ」

 与えられた楽譜とともに、映画脚本とスクリプト、また参考文献のリストにある資料を彼女は順次読み込んでいく。それらから得た情報から構築し、事実と擦り合わせた解釈を如実に演奏に反映させた。わざとらしい湿っぽさはない、研ぎ澄まされた弦の掻き方を選ぶ。
 響き方はスタッフたちから、おおむね好評を得た。だが好春は、好春だけは大いに取り乱す。運用された表現方法は以前の彼女ならば、絶対になしえないものだったから。

 戸惑いと混乱は、やがて怒りへと変換された。君が奏でる音楽は、こんなおとなしいものじゃなかったろう。清原弓生はもっと傍若無人で、めちゃくちゃじゃなきゃいけないのに。裏切り者――そんな文句すら好春の脳裡に浮かぶ。実際に言葉にするには憚られたけれど。
 変貌に至る心当たりは、拘置所の件以外にも十二分にある。音楽分析のための情報収集のさなか、彼女は好春にこんな話をした。

「この機に乗じて抹殺された活動家は他にもいたし、刈り取られたのは活動家だけではなく、命を奪われた人たちは他にもたくさんいる。もっとも知られているのは朝鮮人の虐殺だ。井戸に毒を投げたとか、集団蜂起するとかのデマを流れて、それに真に受けた民衆に殺された。そしてそれは朝鮮人だけじゃない。なかには中国の人も混じっていたし、発声に問題のある聴覚障碍者や、抑揚に特徴のある方言の話者も殺害の対象になったんだって。女や子どもも関係なく、のべつまくなしに。事件が起こったのは、そういったさなかのことだ」
 ついで、こう付け加えた。
「でも外国人やどころか、子どもを殺してまで生き延びたいなんて、おこがましいにも程があるとは思わないか」

 いくらかの紆余曲折があったがBGMは無事に納品にこぎつけ、映画の制作もクランプアップを迎えた。提出された作品は観客から一定の支持を得、教授陣からも高い評価を得たと聞く。このキャリアを基に当時のスタッフたちは、業界内外でそれなりにやっている。
 しかし弓生は違う。作品が撮了したあとの彼女は、工場の仕事と音楽を並立させる生活に戻る。打検士としての職責をこなす一方で、演奏や楽曲制作に打ち込む。小うるさい外野には一切反応しない。次第に持ち込まれる案件は減り、やがて途絶えた。

 だから彼女にとっては『アナキストの子ども(ではない)』が、今のところ、ほぼ唯一の業績となる。そしてこれからもう一つ、新しく加わる予定だ。


 光越境は破壊の化身から、善き事への兆しに変身する馬だ。その名を冠する音曲の主旋律はまさしく驕傲なまでの獣的な奔放不羈を示し、副旋律は化生ならではの温雅かつただならぬ神秘性を表現する。

 次の練習の日。この日は予定通り、お互いの担当パートを入れ替えての演奏が行われた。二種類の筝の音が公民館のスタジオに響く。それは競馬場のトラックを思わせる、緊張感を伴う合奏だった。土をえぐり、砂煙を巻き上げて蹄音を轟かせる馬。そんなイメージが浮かぶ。乱れる息遣いに似た荒々しさの中に、確かに調和の気配がある。

 まもなく予感は実を結ぶ。楽曲は後半に差し掛かかると、激情と苛烈さは取り除かれ 静穏そのものになる。悍馬が天馬へと変貌した瞬間だ。そのまま主題は進んでいき、ついに終局を迎える。余韻が室内に花開くように広がった。

「ねえ、どうだった?」

 手ごたえは今までで、一番あったと思うんだけど。手を止めていささかの間をおいた後に、弓生は隣にいる佐山を顧みて問いかけた。勢いづいた、はしゃぎたった声色だ。顔つきには力がみなぎっていて、眩しいくらいに瑞々しい。
 しかし彼は直截には答えずに、弓生から顔を逸らす。そのときの佐山の頬と眼元の赤らみは、ある種の反応を示していた。興奮と疲労、羞恥や戸惑い、そして爽快さ。これらが一切合切綯い交ぜになった表情だ。
 一向にうんともすんとも言わない男の傍で、弓生はさらに続ける。

「しかしこうなるとなんだか、わくわくしてくるな。こういう風に進めばいいんだって、勝ち筋が見えたような気がする」

 君はどうだと彼女は再び佐山に意見を求める。またしても彼は応えないので、さらに続きを紡ぐ。――でさ。思いついたんだけど、前半と後半でパートの担当を入れ替えるってどうかな。ここで、ようやく佐山は口を開く。――調子に乗るな。はーい、と弓生は返す。

 そのようなやりとりを経て、まもなく練習が再開される。今度は元通りの編成に戻して。しかしこちらまで届く調子は、このあいだまでとはまるで違う。

 馬が一声高く嘶きながら、跳ねた前脚が空を掻く。叩きつけられる旋律は熱烈であると同時に、どこまでも冷たさを含んでいる。冷徹とも言い換えられるだろう。まるで顕微鏡を覗き見る研究者を彷彿とさせる、ぞっと肌が粟立つ感覚さえ伴う音色だ。

 これは一体なんだ? 鳴り響く筝の音に耳を揉まれながら好春は思う。彼女がどこに行こうとしているのか、その旅路に誰を伴うつもりなのか。好春にはまったく見当がつかない。なによりの彼の気がかりは、彼女の目指す場所に自分のいどころが用意されているのか否かだった。答えの如何次第では、とても平静ではいられないはずだ。それこそ殺意を抱くほどに。

「どうだった?」

 物思いに沈むうちに音楽は途絶えている。弓生が眼差しを向けているのに好春は気づく。未知の領域への好奇心と、新しい局面への期待や高揚感に満ちた瞳を。そこには迷いもなければ、曇りもない。そして、あまりに純度が高かった。まるでよく磨き抜かれた鏡の如く、そこには己の有様があからさまに映し出されている。

 虚像の自分と相対すると、もう好春は何も言えなくなってしまった。

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