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越境する光 3‐2

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 時を経るにしたがって二人の演奏はより研ぎ澄まされ、徐々に洗練されていく。積み重ねられた研究や練習量を加味しても、最初のころとはまるで別物のようだ。その根源を考えてみると、やはり分岐点はパートを入れ替えた日になるだろう。

 あの日の言葉通り、弓生は確固たる手ごたえを掴んだらしい。腰が据えたというか、地に足がついたというか。なんとなく良さげな方へあちらこちらに揺れ動く、行き当たりばったりの趣がなくなった。現在では迷うことなく、目的地へまっすぐに突き進んでいる。

 佐山も己の軸たるものを構築したようだ。今までは弓生の一挙手一投足に振り回される場面が多々あった。けれど、もうたいていのことでは動揺しない。彼はどこまでも彼女についていく。そのうえアシストさえ行う。相手からの働きかけに弓生も応じる。営みの中には調和がある。少なくともその芽生えが感じられた。

 彼らの仕事はおおむね好評だ。進捗を伺いに顔を出した地域振興課の課長は二人『光越境』を一聞して、大したものだと雷に打たれたような驚きを顔に走らせて言う。彼らの師匠も品質の向上そのものは認めてはいた。あとはどれだけ音楽のクオリティを高められるか(そしてそれゆえの摩擦)の心配がいささか勝ってるが。
 また定期連絡にきた山城もこのように評する。

「なんか生々しいですよね。新鮮に傷つくというか」
「傷つく?」
「なんというか私は撥ね飛ばされたり、蹴られたりしてるんです。でも気づいてないし、気づいたとしてもなんとも思わないんだろうなって。だからこそ完成されているですけど、でも、そう感じる自分が許せない」
 発せられたのは深い陰影を孕んだ声だった。正と負、納得と不服。そして称賛と嘲罵。そんな相反する――あるいはそこにも収らない名づけようのない心持ちが、複雑に入り交じり言葉を形作っている。感情の明暗がそれぞれ濃く深いために、山城自身でも持て余しているのが伝わりもしてきた。そして、そのまま彼女はこうもつけくわえる。
「どうして、あの人たちはあんな風に弾けるんだろう」

 さぁ、どうしてでしょう。相手の呟きに、好春は言葉を濁す。筝を前にした二人の考えは、部外者の彼にはわからない。しかし、山城がそう口にしたくなる気持ちは理解できた。わだかまりがあるのは好春も同じだったから。

 佐山と山城、そして好春。今。時と場所を共にする三人のなかで、弓生との付き合いの長さや深さは自分が一番だと、彼女が最も心を許した人間は己だと好春は自負している。実際にいつかの弓生から、こんな言葉を掛けられた。

 ――何をしなくても君は友達だし、自分を大事にしてほしいって思ってるんだ。本当だぜ。

 また、こうも彼女は言う。誰かに勝ちたいから好春は、筝を……それと限りなく似通った楽器を製造しているのだろうと。その相手は実の父親か、養父である祖父だとも。
 誰かに、何かに勝利したいなどと口にした覚えは、彼自身は全くなかった。だが実際にはずいぶん前にそう発言したらしく、彼女はずっとこのことを記憶していた。引き出しにしまった指輪みたいに大切に。ついで、弓生は彼に告げる。

 ――もし、それが私だっていうならさ。そのときは受けて立ってやる。

 好春本人ですら気にも留めなかった些細な発言を、彼女が拾い上げて、覚えていてくれたのは確かに嬉しい。ここまで意を汲んでくれる人がそういないのは、頭では理解している。でも、全然足りない。

 もし君が本当に僕の友達で、友達からの挑戦を受けて立つつもりなら、もっとその心意気を表すのにふさわしい方法があるんじゃないか。そんな手前勝手な、やるせない気持ちが彼の胸中に存在した。そしてこの薄暗い情念は案件が始まってから、なおさら強まりつつある。自業自得だとはわかっていたけれど。

 合宿から二ヶ月経った九月の末。弓生と佐山ほ三連休にかこつけて、金曜の夜から好春の実家に泊まり込み、更なる修練に励んでいた。その休日の中日――日曜日の夕方のこと。佐山は夜勤の仕事があると、午後早くに出ていった。戻りは翌朝になるという。

 お手伝いさんは休暇だし、養母も友達付き合いで南座まで出かけている。遠方に住まうためにめったに会えない人だそうで、今日は泊りがけで旧交を温めるのだと聞いた。だから家内には他にも誰もおらず、好春と弓生は久しぶりに二人きりになる。

 そのとき彼と彼女はキッチンにいた。土間台所を改装したリビングダイニングは広々として、人影の薄い寂しさと静けさがひしひしと迫って来た。
 好春はまな板に敷いた豚肉に、刻んだ梅肉と大葉を巻きつけている。てきぱきと忙しなく動く彼の指先を、弓生はキャベツを刻む手を止めて眺めていた。あまつさえハサミを放して、キッチンカウンターに頬杖までつく。その目つきがあまりにも真剣なので、なんだか肌が炙られている心地がしてしまう。

 どうしたの?――なんか、良い指だなって思って。問いかけると、相手はそう返してきた。夢から覚めたばかりの、どこか浮かされたような口ぶりだった。もしかしたら練習疲れのせいかもしれない。

「キーボードや鑿を叩いたり、あるいは筆を持ったりして美しい楽器を作る。筝や和琴で音楽を奏でもする。一方でこうして料理をしたり、決められた日に向けてゴミをまとめたりもする。とても素晴らしいとは思わないか」
「別に普通のことだよ」
「うん。でも、いいよね。自由で。包丁遣いもさ、優雅だし」

 しみじみとした弓生の口調に、好春は胸が締めつけられた。彼女が包丁を握れなくなったのは、一体、いつのころからだったろう。調理の際に弓生がキッチンバサミを用いるようになったのは過去の、どの時点のことか。それを好春は知っている。ハサミの柄を握りしめる顔つきが、少しだけ哀し気なのも。

 だから好春は食事の支度を、いつも自ら買って出るように心掛けた。ここは僕の家だし、君はお客さんなんだから座ってて。気遣いを幾重にも重ねた物言いをして。そしてじゃあ、と弓生は言われた通りにする。かわりに後片付けと皿洗いを引き受けるのが、二人のあいだで築かれた新しい習慣だ。ここ数年、刺殺未遂から生還して以来の。

「不自由になったと思ってる?」
 そんな相手の問いを弓生は微笑みでもってかわす。その真夜中の三日月めいた完璧な笑みを前にして好春は続ける。
「失われたものを取り戻すために、彼を傍に置いたのか。苦しませて、贖わせるために」
「違う」にこやかさはそのままに、弓生はきっぱりと断言する。
「君の楽器を活かすのには、佐山君の存在が必要だと感じたんだ。そして実際、そうだった」
「でも、君たちの音色を奏でるのは僕の楽器だよ。僕一人だけの力なんて宣うつもりはないけど、でも確かにこの手で作ったものだ。そこをわかってるか、きちんと」

 わかってる、と彼女は好春に答える。まっすぐにこちらを見据える瞳は、光を明るく湛えていた。それが燃焼するマグネシウムじみた激しい照り方なので、彼はおのずと息を呑んでしまう。急速に口内が干からびて、反対に頭には様々な不満が次々に浮かぶ。しかし、声として紡がれはしない。

 これを浴びせたら、この人はきっと僕を見捨てる。その考えが彼をかろうじて踏み留ませた。言葉も色も失う好春に、彼女はキッチンカウンターの向こうから、こう告げてくる。

「私や君が何と言おうと、佐山君もこの世界の一部だ。音楽が世界の産物である限り、その事実からは絶対に逃げられない」
「じゃあ僕は? 君が生きている中に、僕はいる?」
「うん」
 釘を打ち付けるのに似た、明瞭な返し方だった。その厳然とした調子でもって、弓生は好春にこう告げる。
「君は今ここにいて私と見つめ合ってるし、私も君と顔を突き合わせて言葉を交わしてる。それは揺るぎない真実だ」

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