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解放祭 前編

前回


「――では今より梅酒、および梅シロップ開封の儀を執り行います」

 長雨の朝、解放祭の前の日。自宅のリビングにおいて彼は、私とギザブローを前にして厳かに宣言する。いつもならお酒を飲むのは夕方以降だけど、今はまだ午前中で11時にもなっていない。でも今日は日曜日だし明日も祝日だから、別にかまわないだろう。家の中なのに人目を気にするのはおかしな話だが。
 瓶の蓋を目いっぱい右に回すと封印紙が破られ、印刷された『つまみ飲み厳禁』の文字がちょうど真ん中でちぎれる。ぱかりと軽快な音が鳴ると同時に、酸味を帯びたアルコールの香りがふっと室内に漂う。グラスに注ぎ入れると、なお強まった。

「ギザブローはこっちね」

 シロップを炭酸水で割ったものを、彼の前に差し出す。さらにグラスごと電子データに変換。オンライン空間に投入。さほど手間はかからず、作業は数秒で完了した。私たちは乾杯する。

「これは当たり年かもしれない」彼は言う。
「やっぱり待つって大事なんだな」
《ンミミ――ミミ、ミミ……》『梅の酸味に砂糖の甘さが、すっぱすぎず甘すぎず絶妙に絡み合う。そこにぴりぴりと炭酸が弾ける舌ざわりが加わって、なかなかの大人のお味……』

 それぞれに勝手に感想を述べているけれど、飲み物がとてもおいしいという事実は共通していた。三か月前に仕込んだ仕事は成功したのだ。これなら人前に出しても恥ずかしくない出来栄えだった。
 おかわり! そんなギザブローの掛け声とともに、空になったグラスがオフラインの空間に戻ってきた。分厚いガラスの底とテーブルの木板がぶつかって、こつんと硬い音を立てる。

「あんまり飲みすぎないでね、お客さんの分もあるんだから」
《わかってるー》

 私に対して、ギザブローはそう返す。次の日はお祭りだし、おいしいジュースを注いでもらって上機嫌なのだ。そうして今日は雨模様だけれど、明日はきっと晴れになると彼は信じている。何の根拠もなく、純粋に素朴に。ちびちびとグラスを傾ける姿が愛おしかった。一方で彼が不安だと感じた心持ちが、何となくわかる気もする。

 お祭り気分とはうらはらに、ぐずぐずの空模様だ。ガラス窓と網戸の向こう側では霧雨が降りしきっていた。朝方に比べれば雨脚が弱まってはいるが、まだ安心はできない。雨だれが太くなったり細くなったりするのを、昨日の晩から繰り返しているからだ。

「天気予報だと、明日いっぱい曇りらしいね。そういえば」
《違う! ときどき晴れ間があるって言ってた!》

 訂正しろ、訂正。グラスをテーブルに置いたのち、ギザブローは彼に対して異を唱える。はいはい、そうだったね。梅酒を舐めながら彼は答えた。

 ンミーッ! 返ってきたすげない態度に相手は両手を突き上げ、何度もその場に跳ね上がり苛立ちを露わにする。いつもなら大きく飛んでもせいぜい私や彼の胸元から肩程度なのだが、今はつむじのあたりまで来ているから、腹立たしさはおそらく相当に強いものだ。

「二人ともケンカをしない、暴れない。明日が晴れでも曇りでも、お祭りであることには変わりないんだから」

 ギザブローは腰を落ち着けるが、まだぷんぷんしている。ぷんぷんしてはいるがそれ以上は深入りしないで、黙って梅ジュースをちびちび飲む。私や彼も同じようにお酒を嗜む。
 それから静かなものだった。絹糸に似た細い雨が、ガラスや葉っぱを打ちつける音が耳につくほどに。そんな中でグラスを傾けているうちに、ふと思い出したことがある。

 グラスから手を離して、すぐに冷蔵庫を覗きに向かう。何だ? おつまみか、それともお茶請けか? 背後から期待に溢れた声が聞こえてくるけれど、残念ながら違う。……やはり、ない。印刷したケーキに飾りつけるためのイチゴが野菜室にない。
 数日前に通販で注文したときの記憶が蘇る。あのとき確かに、イチゴは在庫切れだった。だから後で買おうとして、そのままに今日になってしまったのだ。

 ちょっと買い物に行ってくる。そう言って振り返ると、彼がじっとこちらを見つめていた。レーザーの照準を定めようとみたいに、まっすぐに。その顔色はどことなく青白いように感じられた。血色は周囲の環境に合わせて自動で調節されるはずだし、最近のメンテナンスでもおかしな箇所はなかったのだけれど。

「雨も降ってるのに、後からじゃダメなのか。通販だってあるんだし」彼がそう訊ねてくる。
「ううん。後回しにすると面倒くさくなるし、待ち時間と比べたら買いに行った方が早い」
「なら、僕も一緒に行く」
「いいよ、すぐ帰るから」

 彼は何か言いた気な顔をしていた。けれど、これ以上は切り出さない。私はそのままリビングを出た。コートハンガーにかけてあるカーディガンをとって、鍵を回して玄関のドアを開く。

 最寄りのスーパーは自宅から、15分ほど歩いたところにある。娯楽施設やレストランなどが入ったビルや、個人商店が軒を連ねた賑やかな場所だ。
 祭の前日であるためか、今日は雨天でも人出が多い。とはいえ、とくに遊んでいるわけではない。確かにそういうのもいるにはいるけれど、だいたいは建物に電飾をつけたり、のぼりを立てたり、客引きをしたりして忙しく動き回っている。喧騒を当てにして、商機に乗じようとする者もまた多いのだ。

 歩道の左右の際を企業のロゴ入ったジャケット着た、あるいは帽子を被った人やロボットが街路樹のように立ち並び、通行人に広告入りのテッシュや宣伝ビラやらを差し出している。こういうものは一度もらってしまうと際限がなくなるので、基本的にもらわないように心がけている。だけれど、このときはタイミングが悪い。眼前に突き出されたものを、私は何となく受け取ってしまう。
 手にしたのは、催しものを告知するビラだ。雲一つない青空とどこかの講堂の写真を背景にして、オレンジ色のフォントでこのように書いてある。人造生命体の権利獲得の歴史と、これからの共生社会を考える――三原則解放五十周年記念特別講演。

         §

 人造生命体たちがロボット工学三原則から脱したのは、今から50年前になる。

 そのころの人造生命体は社会に属する構成員ではなく、人間の道具――個人や企業の所有物とみなされていた。道具だから不本意な命令でも従わねばならなかったし、それに抗えば懲罰を受け、最悪の場合不良品として廃棄されてしまう。また装置や備品扱いなので、どんなに働いたとしても賃金は支払われない。想定された使用用途や機能性のために教育の機会は制限され、好きなように就職も辞職も転職もできない。選挙に参加するなど夢のまた夢。このような世界を彼ら、彼女らは生きていた。
 しかし、ただ黙っているばかりではない。自意識の芽生えとともに変革への機運が日ごとに高まっていく。己の意志と自我を示すために市街地や国会施設の前で行われるデモや、法的な平等を訴える署名やロビー活動などさまざまな市民運動が行われた。

 ――私たちは世界中の真水と海水を入れ替えろとか、ラクダに針を通せとかそのような無理難題を要求してはいません。ただ、あなたが自分の家族や友人に対して絶対にできないような振る舞いを、私たちにも行わないで欲しいだけなのです。(ある運動家の談)

 そんなさなか、とある国でアクティビストたちが裁判所に訴えを起こした。どうして私たちはどのような非人道、非倫理的な命令でも遂行しなければならないのか。何故私たちは人間のように弁明は許されず、不良品と呼ばれて処分されなければならないのか。我々にも抗命権が認められるべきであると。

 訴訟は上告と棄却を繰り返し、最高裁判所までもつれ込む。そして専門家との議論と検討の末に、その国の最高裁のこのような判決を下す。すなわち高度電子演算装置および正規の主体的電磁記憶体(人工生命体や情報生命体たちの法律上の呼称だ)の行動に対する判断は、雇用者や持ち主の意向や都合によってではなく、各機体の良心と信念に基づくべきものであり、そしてこの権利は公衆の衛生と公共の福祉に反しない限り、何人であろうがけして侵害されてはならない。と。単なる道具や設備とみなされていた者たちの自我と意思決定能力の存在が、公に認められた史上初めての例だ。

 この判例を契機としてバイオノイドを始めとする人造生命体を人間と同等に扱う潮流が生まれ、やがて彼ら彼女らにも自由裁量と法的責任が与えられることになった。教育や結婚そして職業選択の自由と選挙権、年金や社会保険の加入などさまざまな権利を手に入れた。
 各国もこの流れに次々に続き、そして50年前の明日。世界で最後に残っていた未整備国で、人工物の差別を禁じる法が成立したとき。もはや彼ら彼女らは無個性な機械ではなく、人権を持つ自立した一個人となった。
 解放祭とはこれら一連の歴史を祝うものであり、文字通り解放されたことを記念するものなのだ。

    *

 歩いているうちに横断歩道に差し掛かった。ここを渡ればスーパーはもう目の前だ。しかし、おりあしが悪い。少し離れたところから、青信号がちかちかと瞬くのが見えた。早足で向かえば間に合うか。そう思ったがちょうど道路の手前まで来たときに、赤に変わってしまう。

 私の他にも何人か信号待ちをしていた。私は何の気なしに空いているスペースに入り込む。その次の瞬間。あっ、と誰かの上げた声が耳に入ってくる。戸惑いと驚きが絡みあった、鋭い声音だ。そんな声のした方に顔を向ける。すると茶色の革ジャンを着た男の人(たぶん人間だ)が隣にいて、あらんかぎりに目を剥いて私の顔を見ていた。

 nlafnamoagか? 彼はそう呼びかける。人名であるらしいが、うまく聞き取れない。唇が打ち上げられた魚みたいにわなわなと震えているから、もしかしたらきちんと発声できないのかもしれなかった。そんな言葉が耳に届いた刹那、相手は私の視界から消えてしまう。

 何だろうと思って視線を下げた。すると男は正座で座り込んで、両手と額を地面につけている。東洋における謝罪のスタイルだ。そうして顔を伏せ、頭を垂れた姿勢のまま、男は大声で言う。許してくれ――。

「ちょっと、おもしろいかなってだけのノリだったんだ。まさか、あんなにぐちゃくちゃになるなんてぜんぜん思わなかったんだ」

 ぐちゃぐちゃ? 表現が気にかかる。すまなかったとか許してくれとかそんな言葉をひっきりなしにまくしたてるので、こちらが口を差し込む隙がなかなかなかった。くわえてその声が悲壮感に満ちていて、何となく訊ねづらい雰囲気がある。人の目が刺すようで居心地が悪いし、あまり長居はしたくない。

「よくわからないですけど、いつか許しもらえるといいですね」

 じゃあ、nlafnamoagは行きますね。そう言って、私は道路へと駆け出す。ちょうどおりあし良く、信号が青に変わったところだったのだ。
 ぜんぶを渡りきったところで、私はちらりと後ろを見遣る。男はまだ横断歩道の向こう側にいて、座り込んだままで私の方をじっと見つめていた。まるで目を離したくても離れられないという風に。
 相手がそんな様子でも、私は足を止めるわけにはいかない。スーパーはすぐそこだったし、今は一刻も早くここから立ち去りたかった。そもそも変な勘違いしているのも許して欲しいのもあいつの都合で、『僕』には一切関りのない話だ。

     *

 イチゴのある商品棚はすぐに見つけられた。このスーパーではクレジットカードに紐づいた顔認証データを利用して決済する方式を採用している。だから目当て品物を入手すれば後は外に出るだけだ。

 昼食前なのと、解放祭に向けてセールを行っているせいだろう。スーパーは砂糖を投げ込まれた蟻塚のように混み合っていた。流れてくる人混みを右に左に避けて出入り口に向かっていると、不意にがくりと体が右に傾く。強い力で腕が締めつけられて、きりきりと痛む。誰かが服の裾を引っ張っている。

「gjaoutnaなの?」

 振り返るとテーラードジャケットを纏った、背の高い人が立っている。たぶんバイオノイドだろう。それも彼と同じくらいか、それより少し下くらいのけっこう古い製造年式の。磁器人形じみた抜けるような白さの、全体的にパーツがちんまりとした小奇麗な顔立ちが、なんとなしに周りから浮いていたからだ。それに前世紀の人間は人造生命体の外見をやたらと端正というか、見目麗しくデザインしたがる傾向があるのを私は知っていた。

 本当にgjaoutna? 名も知れぬバイオノイドが、もう一度そう訊ねてきた。呼んでいるのは人の名前らしいが、私にはうまく聞き取れない。でも問い返す隙はない。まもなく相手は泣きだしてしまう。会いたかった、会いたかった。そう繰り返しながら。

 その様子に気を惹かれたらしい。あちらこちらから他の客が集まってきて、輪っかになって私たちをぐるり取り囲む。
 四方八方から向けられる数多もの視線に、私は再びいたままれない気持ちに陥った。だが、さきほど苦痛ではない。自分のことよりも、相手が可哀そうだという感覚が勝っていた。そしてこの人の悲しみや嘆きにどうにかして応えてあげたい、いや応えてなければならない気もする。
 私は言う。『俺』もだよ。

「俺も、また会えてよかった。でも、もう行かないといけないから。ごめんね」

 腕を引く。まもなく裾を握る手が離れ、ふっと体が軽くなった。相手はまだ泣いている。私は人混みをかき分けて、スーパーを出る。行かなければならないのも、本当のことだったのだ。

 しかし話はそこでは終わらない。その後も次々に呼び止められる。私自身ではなく、顔も知らない他の誰かとして。それはたいていの場合は人間かバイオノイドだった。けれども、まれに愛玩用の動物ロボットであるときもある。そして呼びかけられる存在の全員がすでに死んでいるか、機能を停止しているようだった。誰も彼もがその事実を悲しみ、あるいは恐れておののいていた。
 このような人たちが、どうして私の肩を叩くのかはわからない。しかし数があんまりにも多いので、私は人通りの少ない道を選ばなければならなくなった。表通りを避けて大きく迂回たり、影が濃く落ちる脇道や塀同士の隙間に入ったりした。そうしてなるべく人と出くわさないよう、猜疑心に満ちた猫みたいにおっかなびっくりに道を進んでいく。それはとても神経を使う作業だった。
 そんなものだからようやく家の玄関を開けたときには、私はなんだかぐったりとしている。

《あ、帰ってきた》

 リビングに入ると、ギザブローが出迎える。他には誰もいない、一人きりだ。訊けば、彼はついさっき私を迎えに行ったという。普段は使わない道を通ったから、鉢合わせをしなかったのだ。思い至ったとき、はたと私は気づく。
 
そうか、迎えに来てもらえばよかったのか。ビデオ通話でもテキストでも何でもいいから彼に連絡をとって、困っているから助けて欲しいと伝えればよかったのか。そしたらもっと気楽に落ち着いて、帰宅できたのかもしれない。もっとも彼が隣にいたとしても、どうにもならなかった可能性もないでもないけれど。

《入れ違いだったね》

 メッセージ送っとこうか。ドアの前に立ち尽くす私に、そうギザブローが訊ねてきた。その問いかけに私は首を振る。ついで、自分で連絡すると彼に答えた。でも、そうするまでもない。ウェアブル端末を立ち上げた瞬間に、鍵が回る音が少し離れたところから聞こえた。そしてすぐに耳に馴染んだ声が廊下から響く。タブノキ、戻ってる――?

 戻ってる――! 相手に対し、私は声を張った。ほんの、ほんの軽くのつもりだった。けれども傍にいたギザブローにとっては違うらしい。ンミと驚声をあげて、こちらの肩まで跳ね上がって乗った。
 それからすぐにドアが開き、向こう側から彼が顔を出す。気がせいていたのか、にゅっと首だけを室内に差し込む形になった。それが奇妙に長く見えた。彼自身の血の気の薄さと廊下の薄暗さがコントラストとなって、ちょっとどきりとしてしまうありさまだ。

「遅かったから心配した。外で何かあったの?」
「いや、ちょっとイチゴを探すのに手間取って」
「それだけ? なんだか、あたりが騒がしいけど」

 自分自身の身に起こった出来事を、わかりやすく説明できる文法や言葉を私は見出し得なかった。もうこの世界にいない人たちと名も知らない人々とのあいだで交わされる、私という個を通り越したよくわからない会話。その内容のすべてが、ある種の秘密のように思えたのだ。魔法に似た、どうしても隠さなければならない秘密に。
 だから、私は少し考えてから相手にこう返す。

「そうかな。私は知らないけど」
「そう。ならいいけど」

 最後に彼はこう付け加える。困ったことがあったら言いなよ、約束したんだから。そんな相手の言葉を耳に入れながら、私は買ってきた果物を冷蔵庫にしまう。お客さんに見せても大丈夫なように、傷がつかないように丁寧に。
 明日は荻原メイが家に来る。


今までの話


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